2010/04/03(土)「花のあと」

  いくらなんでも以登(北川景子)の表情の乏しさは欠陥以外の何ものでもないだろうと最初は思った。表情や感情に乏しいのは以登が剣の試合で一瞬心を通わせる江口孫四郎(宮尾俊太郎)も同様で、人なつっこい笑顔を見せ、表情豊かな片桐才助(甲本雅裕)が登場してからは、なおさらこの2人の演技の未熟さが目立ってしまう。しかし、同時に2人の純情さ、若さゆえの一途さが浮かび上がることにもなっている。

 この一途な2人に比べると、食欲旺盛でやや下品な片桐は当初、俗物にしか見えないのだが、映画が肯定しているのはむしろ、片桐の姿にある。物事の判断が大人であり、懐が広い。片桐は人間的な幅の広い魅力を備えていることが徐々に分かってくるのだ。ラストのナレーションで片桐が筆頭家老にまで上り詰めたことが言及されるが、確かにそれにふさわしい人物のように描かれている。表情に乏しかった以登がラストで満開の美しい桜を見限って片桐の方を向き、初めて笑顔を見せるのは、だから当然なのだろう。以登は一瞬の恋心を経て、人間の本質と本当の愛を知ることになるのだ。それを考えると、生硬と言いたくなる北川景子の演技も中西健二監督の計算のうちだったのではないかと思えてくる。

 藤沢周平の短い原作は以登と孫四郎の関係が中心である。「恋などというものは、そなたらが夢みるようにただ甘し、うれしのものだけではないぞや。いっそ苦く、胸に苦しい思いに責めらるるのが、恋というものじゃ」。映画にもあるこのナレーション通りに、女剣士以登と羽賀道場で一番の使い手である孫四郎の一瞬の恋の行方を描いている。原作の以登は美人とは言えず、容貌を気にしている。孫四郎もハンサムな男ではない。美男美女をキャスティングした映画はまずそこから作りを変えており、それもまた片桐の魅力を強調するためだったのではないかと思う。

 打ち合っているうちに、以登はなぜか恍惚とした気分に身を包まれるのを感じた。身体はしとどに濡れ、眼がくらむような一瞬があったが、その一瞬の眼くらみも、不快感はなくてむしろ甘美なものに思われた。照りつける日射しのせいだけではなかった。どうしたことか、身体は内側から濡れるようであり、恍惚とした気分も、身体の中から湧き出るようである。

 孫四郎との試合で原作の以登はこういう高ぶりを覚える。桜の下で声をかけられ、孫四郎と試合がしたいと思った以登の気持ちは実は孫四郎を恋する気持ちだったわけだから、それが成就したことの高揚感がこうなるのは実に理にかなっている。映画はこれを「俺たちに明日はない」のボニーとクライドのように視線を交わす2人に象徴させている。これはうまい場面だ。このほか、原作の行間を埋め、細部を膨らませた脚本は良い出来である。

 しかし、この映画の成功がそれ以上に甲本雅裕の存在にあるのは間違いない。初めは眉をひそめたくなるような振る舞いがそのうちに思わず微笑みたくなってくる。以登や孫四郎のように一直線の人間にはないぬくもりが感じられて好ましいのである。映画を支えるしっかりした演技だと思う。

2010/03/28(日)1年点検

ゴルフを昨日、フォルクスワーゲンで1年点検してもらった。昨年に続いて2回目。つまり2年間乗っているのだ。足回りの通常の点検のほか、気になることがあったのでそれも修理してもらった。「信号待ちで発進する際のエンスト」「発進時のショックの大きさ」「リモコンドアロックが効かないことがある」の3点。

今日、乗ってみたら、やっぱり1回エンスト。直ってないじゃん。

エンストに関しては2009-10-31の日記に書いた通りゴルフVIでもあることらしい。明細書には「基本調整致しました」とあるが、もう1回、調整を頼むしかないか。エアコン、というか、冷房をつけた時に頻発する症状なので、これから多くなりそうなのだ。発進時のショックは「アップデートにて対応致しました」。プログラムをアップデートしたらしい。これも少しはましになったかなという程度。

ドアロックに関しては「後日、保証にて対応予定」。部品の交換が必要なのだという。エンストが頻発するようなら、その際に頼もうと思う。

ゴルフの場合、通常の1年点検の費用は1万9500円。これにオイル交換、ワイパーブレードの交換を頼んだので、3万5000円なりだった。国産車より高いと思うが、輸入車はこれぐらいの費用は覚悟すべきなのだろう。と思ったが、昨年の1年点検の日記を読み返してみたら、同じ作業内容(だと思うんだけど)で3万円。5000円値上げしたのかな。

2010/03/22(月)「ハート・ロッカー」

 イラク戦争の爆発物処理班を描いたサスペンス。アカデミー作品、監督、脚本賞など6部門を制した。それだけではなく、ロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンと全米の批評家協会が作品賞を与えた。アメリカ国内では高い評価を受けている。では、これが傑作かと言うと、映画の技術に限れば、という条件が付くことになる。爆弾処理という狭い範囲を完璧に作っただけで描かなかったものの方に重要なものがあるのだ。

 キネ旬の特集記事によれば、イラク戦争の映画はことごとくアメリカの観客に受け入れられなかったが、この映画だけは受け入れられたそうだ。それも当然の内容と思う。戦争の意味に目をつぶり、米軍内の、それも爆発物処理だけを描いて何の意味があるのかと思う。これならば、アメリカ侵略主義への批判を内包した「アバター」の方がまだ志は高い。定点観測をすることで、全体の問題を浮き彫りにする手法はあるのだけれど、この映画の場合それもない。批判精神に欠けた、ただのエンタテインメントに近い映画であり、ある意味、イラク戦争肯定映画的な内容と言っていい。だから米国民ではない我々としては見ていて不満がむくむくと頭をもたげてくるのである。

 キャスリン・ビグローにとってはメルトダウンの危機に瀕したソ連の原子力潜水艦乗組員を描いた「K-19」から7年ぶりの監督作品。狭い範囲を描く手法は「K-19」と同じなのだが、アメリカがイラクで行ってきたことを思えば、この手法では物足りなくなる。ふと思い浮かべたのはマイケル・チミノ「ディア・ハンター」で、あれもベトナムの民族解放戦線をまともに描いていなかった。あの映画の場合、米国内でも批判が噴出したのだが、今回、それがないのはイラク戦争がベトナム戦争よりまだ短い期間だからか。あるいは慎重に批判を封じるような作りになっているからか。描かなかったことに対する批判はできても、少なくともこの映画に描かれたことに重大な間違いはないのだろう。

 2004年夏、イラクのバグダッド郊外が舞台。主人公はブラボー中隊に配属されたウィリアム・ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)。これまでに873個の爆弾を処理してきたベテランだ。映画は冒頭、防護服を着た爆弾処理兵が爆風に巻き込まれて死ぬ場面を見せる。防護服を着ていたからといって、安全ではないのだ。中隊は次々に爆発物を処理し、その緊張感と危険が十分に描き出されていく。中盤、800メートル離れた敵の狙撃手との行き詰まる攻防のシーン(見ていて「山猫は眠らない」を思い出した)などにビグローの演出は冴え渡る。女性監督なのに男っぽい演出に長けた監督である。この人、恋愛映画など軟弱な映画は撮ったことはなく、いつも題材は男っぽい。そしていつもエンタテインメントだ。シーンを的確に撮ることは得意だが、社会派的な題材の処理には慣れていないのだと思う。

 「戦争は麻薬と似ている。一度味わうとクセになる」という冒頭の字幕に呼応する行動を主人公は取る。問題はどこが麻薬と似ているかを十分には描いてくれなかったことだ。死と隣り合わせの戦場に麻薬に似た快楽を覚える変わった兵士も中にはいるかもしれない。しかし、大部分にとっては恐怖以外の何ものでもないだろう。それを麻薬と言い切る内容は映画では描かれなかった。どこか歪な印象を受けるのはこうした映画の作り自体に無理があるからではないか。

2010/03/12(金) ブレーキ優先システム

ブレーキ優先システムを国内の自動車会社7社が導入方針とのこと。日産だけは以前から採用していたそうだが、今ごろこんなことやってるから、日本車は安全をないがしろにしていると言われるのだ。安く売るのは消費者の要望もあるのだろうが、それが安全装備をカットしていいということにはならない。現実に事故が起こっている以上、早急に導入してほしいものだ。ESP(横滑り防止装置)もついでに標準装備にしてはどうかと思う。

自動車評論家の中にはヨーロッパ車のブレーキ優先システムについて、不満を述べる人もいた。マニュアル車で細かなギアチェンジの制御ができないからだ。いわゆるヒール・アンド・トウができなくなるのだ。もっともこれはオートマチックやツーペダルクラッチ(フォルクスワーゲンのDSGなど)全盛の時代に一般ドライバーには無縁の技術と言える。一部のマニアのために残しておく必要はないと思う。

2010/03/08(月)「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」

 テレビシリーズは一切見ていない。見ていなくても分かる作りになっていて、そこには好感を持った。テレビシリーズの最終回を映画でやるというのは最初からテレビの視聴者だけを相手にした映画になりがちだけれど、それを避けたのは賢明だった。

 なぜテレビを見ていなくても分かるのかと言えば、映画で描かれる決勝戦(ファイナルステージ)は独立したゲームだからだ。ゲームの参加者11人が3色のリンゴを投票するだけの「エデンの園」と呼ばれるこのゲームは、単純だがよく考えてあって、ツイストの連続。ゲームが1回終わるたびに意外な結果が現れ、登場人物がその種明かしをするという構成になっている。脚本は20稿に及んだそうだ。穴を防ぎ、つじつまを合わせるために脚本家の2人(黒岩勉、岡田道尚)は相当考えたに違いない。

 この脚本の練り方は評価に値する。ただし、、どうも見ていて小粒だなという印象になってくる。ゲームのような犯人捜しだけの本格ミステリは欧米ではとっくに廃れ、もっと現実に近づいたミステリがほとんどだ。ツイストにツイストを重ね、高い評価を受けているのはジェフリー・ディーヴァーぐらいか。この映画の場合、ゲームそのものが主体なので、そうした批判は当たらないし、騙し合いのゲームの中で人を信じるというテーマも備えているのだけれども、やっぱり物足りない思いは見ていて消しようがない。ゲームの中の心理戦に過ぎず、小さなところでごちゃごちゃやってる印象になってしまうのである。見ていてこういう練った脚本の在り方をゲームの外に持ち出して欲しいと思えてくる。実社会を舞台にしたゲームになれば、金子修介「デスノート」のように面白い映画になっていたかもしれないなと思う。

 セミファイナルでゲームを降りた神崎直(戸田恵理香)にファイナルステージの招待状が来る。1人が棄権したために直に出番が回ってきたのだ。直は天才詐欺師・秋山(松田翔太)の足手まといになりたくなかったが、今回のゲームは人を信じることが要求されると聞き、秋山を助けるためにゲームに参加することになる。参加者は11人。ゲーム「エデンの園」は金、銀、赤の3色のリンゴを投票し、最も数が多かった色のリンゴに投票した者には1億円が支払われる。全員が赤を選べば、全員が1億円を受け取ることになり、敗者はいなくなるが、ゲームに勝って賞金50億円を目指す参加者たちは1回目から裏切りに裏切りを重ねていく。

 舞台の孤島をもっと話に絡めて欲しいとか、悪役側をもう少し描けよ、とかいろいろ不満はある。しかし参加者11人にそれぞれスポットを当てながらもキャラクターがやや類型的になり、厚みを欠いていることが水準作ではあるけれどもそれ以上の作品にはならなかった一番の理由ではないかと思う。

 監督は映画初演出の松山博明。戸田恵理香はバカ正直な主人公にぴったり。松田翔太も雰囲気が良い。映画に登場するゲームの進行役ケルビムは「SAW」のジグソウに影響を受けているのは明らかだろう。映画全体の作りも影響を受けていると思う。