2006/01/18(水)「亀も空を飛ぶ」

 「亀も空を飛ぶ」パンフレットキネ旬ベストテン3位。イランに住むクルド人監督であるバフマン・ゴバディがイラク北部の村に生きるクルド人の子供たちの過酷な生活を描く。地雷で手や足をなくした子供が普通にいたり、除去した地雷を売って生活の糧を得る子供たちの姿、過去の恐ろしい出来事に心を痛め、いつも無表情な少女の姿には言葉を失うが、この映画が優れているのは両腕をなくした少年が予知能力を持っているというファンタスティックな設定や日々のユーモアを織り込んで普遍的な映画に仕上げていることだ。現実から近いところで成立させたフィクションで、現実に軸足を置きつつ、フィクションの有効性を最大限に生かしている。クルド人の監督だから、描いてあるのは弾圧と迫害と虐殺にさらされてきたクルド人の悲惨な現状なのだが、これは単に戦争の犠牲になるのはいつも子供たちだ、という風に設定を無視して短絡的に受け取ってしまっても悪くはないと思う。映画を見た後、すぐにどこかの子供を救える募金に協力したくなる気分にさせる映画である。

 アメリカのイラク侵攻前の2003年春、トルコ国境に隣接する北部の村が舞台。大人たちは間もなく始まる戦争の情報を得ようと、テレビのアンテナを立てるのに必死だ。主人公の少年ソランはそうした衛星アンテナの設置も行っているのでサテライトと呼ばれる。サテライトは村の子供たちを率いて、地雷を除去し、それを売っている。ある日、この村に両腕をなくした少年ヘンゴウと赤ん坊リガーを背負った少女アグリンの兄妹がやってくる。アグリンに一目惚れしたサテライトは何かと世話をするようになる。ヘンゴウは地雷の埋まった場所を言い当てたり、トラックの爆発を予言したりする。予知能力があるらしい。アグリンはいつも無表情で、なぜかリガーを嫌っている。

 こうした設定の下、映画は村の子供たちの日常を活写していく。子供たちはただ悲惨ではなく、笑顔も見せるし、たくましさもあるが、そうした姿が逆に痛ましい気分を起こさせる。しかし、個人的に心を揺さぶられたのは過酷な子供たちの姿よりも、地雷原の中に迷い込んだ幼児を助けようとする主人公サテライトの姿。子供たちのリーダーで、要領のいいだけの少年かと思えたサテライト、実はしっかりしたいいやつなのである。サテライトは戦争孤児で、アメリカに憧れている。フセインから弾圧を受けてきたクルド人にとって、アメリカの侵攻は弾圧からの解放を意味する。政治的な観点から見れば、アメリカはベトナム戦争でも北ベトナム政府から迫害されていた山岳民族に反政府勢力を組織させたし、この映画もそういう風に利用される恐れがあったが、ゴバディはアメリカを信用していず、「独裁者がフセインから変わっただけ」というスタンスのようだ。化学兵器で虐殺を行ったフセインよりはまし、といったところか。アカデミー外国語映画賞のイランの代表作品になったにもかかわらず、賞にノミネートされなかったのはそういう部分があるからかもしれない。

 イラクではアメリカの後押しによってクルド人の大統領が誕生したが、クルド人が本当に弾圧と迫害から逃れるためにはクルド人の国を作るしかないだろう。クルド人はトルコ、イラン、イラク、シリアなどに分散しているから問題は複雑で、そのめどは全くない。民族と住む国が一致しない悲劇(母国語と母語が一致しない悲劇)はいつになったら解消されるのだろう。

 パンフレットによれば、映画でヘンゴウを演じる少年ヒラシュ・ファシル・ラーマンは実際には地雷ではなく、感電事故で両腕をなくしたそうだ。本当に目が見えなかったリガー役の赤ん坊アブドラーマン・キャリムはその後手術を受け、視力を取り戻したという。

2006/01/17(火)「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

 「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」パンフレット数々の賞に輝くデヴィッド・オーバーンの戯曲「プルーフ/証明」をジョン・マッデン監督とグウィネス・パルトロウの「恋におちたシェイクスピア」コンビで映画化。マッデンとパルトロウは2002年のロンドンの舞台でも演出・主演を務め、高い評価を受けたという。手慣れた題材のはずだが、なかなか話が見えてこない映画の前半が思わしくない出来なのは映画化にあたって付け加えたという葬儀とパーティーのシーンがやや精彩を欠くためか。舞台劇らしく会話が多いことも映画的なノリにブレーキをかけているようだ。

 しかし、後半、世紀の数学の証明に関する話になって映画は輝き始める。天才的な数学者でありながら精神を病んだまま死んだ父親から、その負の側面までも受け継いだと思いこみ、精神的に不安定な娘の再生への光を映画はくっきりと浮かび上がらせるのだ。この父と娘はロン・ハワード「ビューティフル・マインド」のラッセル・クロウのように精神を病んでいるけれども、天才的なひらめきを持っていて、そこがとても興味深い。化粧気のないパルトロウの演技は繊細で、ある意味、エキセントリックで感情移入しにくいヒロインに複雑な陰影を与えている。知的な女優だなと思う。

 映画は27歳の誕生日に一人でシャンパンを飲むキャサリン(グウィネス・パルトロウ)と父親ロバート(アンソニー・ホプキンス)の会話で始まる。話しているうちに父親は1週間前に死んだことが分かる。黒木和雄「父と暮せば」を思わせるシチュエーションだが、それはここだけ。3年前、精神を病んだ父親が1年間だけまともだったころの思い出から始まって過去と現在を行き来しながら、映画は父娘の関係とキャサリンの苦悩、ロバートのかつての教え子ハロルド(ジェイク・ギレンホール)やキャサリンとは対照的な姉クレア(ホープ・デイビス)との関係を描いていく。ロバートは20代のころ、数学の世界で次々に偉大な功績を残し、天才と言われたが、その後、精神を病んだ。ハロルドと親しくなったキャサリンが1冊のノートに書かれた世紀の数学の証明を書いたのは自分だと話す場面からがこの映画のメインで、筆跡がロバートのものだとして信じないクレアとハロルドにキャサリンは絶望する。通貨アナリストとして成功しているクレアは現実的なタイプで、キャサリンが父親の病気を受け継いでいると思っており、自分の住むニューヨークに連れて行こうとする。

 人生の証明などと分かった風な意味を付け加えたこの邦題は直截すぎるばかりか意味を限定して良くないと思うが、確かに映画が描くのは数学の証明の秘密とそれを通して自分の人生の証明を果たしていくキャサリンの姿である。脚本はデヴィッド・オーバーン自身と劇作家アーサー・ミラーの娘レベッカ・ミラーの共同。映画的に際だった手法はないけれども、オーソドックスな作りではあり、舞台を楽しむように見る映画なのだと思う。

 劇中、ロバートが口にする「人間の頭脳の頂点は23歳」という言葉は、それをとうに過ぎた年代のものとしては悲しいが、これは天才だからこそ感じる不安なのかもしれない。そしてその不安こそが精神を病む引き金になったのかもしれないと思う。99%のパースピレーションと1%のインスピレーションからなる天才はインスピレーションを生むためにもがき苦しんでいるのだ。