2005/11/23(水)「キングダム・オブ・ヘブン」

 「キングダム・オブ・ヘブン」チラシ今年前半に見逃した映画をDVDで追いかけることにした。これは何となく、史劇に食指が動かなかったので見なかったのだが、映画館で見るべきでした。

 キリスト教徒とイスラム教徒の軍事的抑制で危ういバランスが取れていた12世紀のエルサレムを舞台にしたドラマ。キリスト教徒の王・ボードワン4世の死で、バランスが崩れ、戦闘が始まる。テレビの画面で見ていると、美術やセットなどがいかに素晴らしくても、主人公がエルサレムへ行くまでの前半は何ということもない映画に感じられるが、クライマックスのエルサレム攻防の戦闘シーンが凄かった。「ロード・オブ・ザ・リング」に匹敵するスペクタクル。CGで描いたと思われる兵士の数の多さにはもう驚かないけれど、投石の迫力が凄いし、画面の構図や映像の撮り方がオリジナリティに富んでいる。

 さすがにリドリー・スコットは映像派の監督だなと再認識した。個人的にはベストテンに入れてもいいかと思ったほど。中盤の戦闘シーンを省略したのは、見ている間は「影武者」を参考にしたのかと思ったが、クライマックスの迫力を減じないためではないかと思い直した。

 主演は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスことオーランド・ブルーム。こうした超大作の主演にはちょっと線の細さを感じるが、無難に演じている。聖地を守るためではなく、そこに住む民を守るために戦うという主人公の設定がいい。

2005/11/22(火)「ダーク・ウォーター」

 「ダーク・ウォーター」パンフレット鈴木光司原作、中田秀夫監督の「仄暗い水の底から」(2002年)のリメイク。監督は「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」のウォルター・サレス。原版を見ていないので比較しようがないが、これはホラーというよりも母娘の絆を描いた映画と言える。ホラーとしては理に落ちた分、怖くなくなっている。物語に納得してしまえるホラーは怖くないのである。不条理の怖さ、理由のない怖さ、問答無用の怖さ、といったものはこの映画にはない。子供の頃に母親から憎まれ、捨てられたヒロインの精神状態の不安定さを利用すれば、そうした怖さが表現できたと思うが、サレスはそういう演出をしていない。睡眠薬で丸一日眠ってしまったヒロインが見る悪夢のシーンなどはもっと怖くできるのに、と思う。黒い水(ダーク・ウォーター)が部屋を浸食するようにヒロインの精神も浸食されていくような演出がもっと欲しいところではある。だから、この映画を見ると、たかが子供の霊だから怖くないんだよなということになってしまう。同じくハリウッド進出監督のホラーということで、見ていて連想したのはアレハンドロ・アメナーバルの「アザーズ」だが、あの映画で怖さ以上に魅力的だった情緒的な悲劇性もまた、この映画には薄い。映画の丁寧な作りとジェニファー・コネリーの好演に感心はしたが、映画としては水準以上のものにはなっていない。

 離婚調停中のダリア(ジェニファー・コネリー)は一人娘のセシリア(アリエル・ゲイド)とルーズベルト島のアパートに引っ越してくる。ダリアは夫のカイル(ダグレイ・スコット)とセシリアの親権を争っているが、ニューヨークのアパートは家賃が高すぎてダリアには手が届かなかった。アパートは古ぼけており、管理人のヴェック(ピート・ポスルスウェイト)は愛想が良くない。親子はアパートに入った途端、気味の悪さを感じるが、家賃が安かったこともあって入居を決めた。部屋は9階。ダリアは天井には黒いシミがあるのを見つける。上の階から水が漏れているらしい。上の物音も響いてくるが、10階の部屋は空き部屋だという。いったん修理した天井のシミからは再び黒い水がしたたってくる。10階の部屋に行ってみたダリアは部屋が一面、黒い水で水浸しになっているのを見る。そしてセシリアは見えない友人ナターシャと話をするようになる。地下のコインランドリー室では洗濯機から黒い水が噴き出す。不思議な出来事と夫との親権争いが徐々にダリアを精神的に追いつめていく。

 雨がしとしとと降り続く場面が象徴するように映画には湿っぽい雰囲気が充満している。それはダリアの幼少期からの不幸な境遇にも通じており、ダリアは今の娘との幸せを守ろうと必死になっている。コネリーは実際に2人の子供の母親だけあって、そのあたりの母親の愛情についてはうまく表現している。映画で惜しいのは語り口がやや一本調子になってしまったこと。これはストーリーと関係するが、途中で大きな転換の場面が欲しくなってくる。丁寧に撮った作品が必ずしも傑作になるわけではないのである。物語自体の面白さがやはり必要なのだろう。ラファエル・イグレシアスの脚本は原作(短編)を膨らまし切れていないように思う。

 いい加減な不動産屋のジョン・C・ライリーといつも車の中で仕事をしている弁護士のティム・ロスのキャラクターは面白かった。ピート・ポスルスウェイトも含めて、この映画、役者の演技に関しては文句を付ける部分はない。

2005/11/15(火)「イン・ハー・シューズ」

 「イン・ハー・シューズ」現在の不幸の要因が過去にあるというのはミステリではよくある設定だ。この映画の姉妹は不幸というほどではないが、それぞれに日常生活に問題を抱えている。姉のローズ(トニ・コレット)は弁護士だが、小太りで(とは見えないが)容姿にコンプレックスを持っている。妹のマギー(キャメロン・ディアス)は容姿・スタイルとも抜群だが、難読症で自分は頭が悪いと思っている。母親は2人が子供の時に交通事故死した。その秘密がクライマックスに明らかになる。そして仲違いしていた姉妹はかつてのような姉妹の絆を取り戻す。簡単に言えば、そういう話なのだが、この映画の良さはそうしたプロットにあるのではなく、それぞれの問題を克服していく姉妹の姿にある。マギーがフロリダの老人ホームで盲目の元大学教授の指導を受けて、E・E・カミングスの詩を読み、ゆっくりと難読症を克服していく描写や、あの「ロッキー」にも登場したフィラデルフィア美術館の階段をローズが犬と一緒に駆け上がるシーンなどは感動的だ。

 ジェニファー・ウェイナーの原作を脚本化したスザンナ・グラント(「エリン・ブロコビッチ」)は女性らしい視点で詳細に姉妹の自己実現の様子を綴っている。まるで娯楽映画には向かないような題材にもかかわらず、手堅くまとめたカーティス・ハンソンの演出も見事。しかし、何よりもこの映画はキャメロン・ディアスに尽きる。マイナーからメジャー作品まで幅広い映画に出演してきたディアスはこの映画で奥行きの深い演技を見せており、本当に演技派と呼べる女優になったのだと思う。

 舞台はフィラデルフィア。マギーは高校の同窓会で酔っぱらい、元々仲の悪かった継母から実家を追い出されて姉のローズのアパートに転がり込む。弁護士事務所に勤めるローズはちょうど上司のジム(リチャード・バージ)とつきあい始めたところだった。難読症で計算もできないマギーは就職しても長続きしない。いつまでたっても経済的に自立しないマギーにローズはいらだちを募らせる。しかも、ふとしたことからマギーはジムとベッドイン。そこに帰ってきたローズは怒りを爆発させ、マギーを追い出す。仕方なく実家に帰ったマギーはそこで死んだと思っていた母方の祖母エラ(シャーリー・マクレーン)がフロリダで健在なのを知る。マギーはフロリダの老人ホームでエラと暮らすことになるが、初めは歓迎していたエラも遊び暮らすマギーにホームの仕事を手伝うよう命じる。一方、ローズは気まずくなった弁護士事務所を辞め、犬の散歩の仕事を始める。ある日、街角で事務所の同僚だったサイモン(マーク・ファイアスタイン)と偶然会い、食事に誘われる。サイモンは以前からローズに好意を持っていたのだ。

 問題を抱えているのは姉妹だけではない。祖母は娘に対して過剰な保護をしていたし、父親は妻の死後、祖母から娘への手紙を隠し続けてきた。継母は姉妹を(特にマギーを)嫌っている。さまざまな要素が入り組んだ話でありながら、笑いを織り交ぜて緩急自在にてきぱきと整理していくハンソンの演出は大したものだと思う。2時間13分、少し冗長に思える部分もあるのだが、泣かせよう感動させようなどという安易な意図が微塵もないところが最大の美点。過剰さを廃したこういう演出は好ましいし、洗練されていると思う。

 ディアスはスタイルの良さを見せつける序盤から中盤までもいいのだが、それ以降も的確に演技をこなしている。ラスト、新婚旅行に旅立つ姉を見送った後、ステップを弾ませて結婚パーティの踊りの輪に加わっていくハッピーな終わり方がとても良かった。

2005/11/14(月)「Dear フランキー」

 「Dear フランキー」パンフレット「私は嘘つきの母親だわ」

 「違う。君はフランキーを守ってるんだ」

 スコットランドの港町に引っ越してきた9歳の少年フランキー(ジャック・マケルホーン)は難聴で言葉をしゃべれない。いや、しゃべろうとしない。船に乗っている父親から届く手紙が唯一の楽しみである。しかし、父親は船になど乗ってはいなかった。母親のリジー(エミリー・モーティマー)がフランキーの手紙に返事を書き続けているのだ。手紙を出している父親は架空の存在である。フランキーはある日、学校の友達から父親の乗っている船が港に帰ってくるというニュースを聞かされる。思いあまったリジーは1日だけ父親の代わりになる男を探す。

 予告編を見て、ありふれた設定かと思えたのだが、この映画、脚本、監督、プロデューサーが3人とも女性のためか、母親の描写が細かい。その描写の細かさがあるため、ややご都合主義的展開もそれほど気にならない。友人のマリー(シャロン・スモール)の紹介で父親役を頼んだ見知らぬ男(ジェラルド・バトラー)とリジーが親しくなることは容易に想像がつくのだが、バトラーがあまりにいい男なのでそうなるのも当然と思えてくる。中盤にあるダンスシーンや長く長く見つめ合った後でのキスシーンは2人の思いがあふれるシーンであり、とてもリアルでロマンティックだ。これは母親の心の動きを丹念に見つめた映画であり、女性映画と言っていいと思う。監督はこれが長編デビューのショーナ・オーバック。

 一緒に住む母親のネル(メアリー・リガンズ)から言われるまでもなく、リジーはフランキーに嘘をつき続けることはよくないと分かっている。それでも続けてしまうのは手紙がしゃべらないフランキーの心の声を聞く唯一の手段だからだ。一家は夫の追求を逃れてたびたび引っ越しているが、それがなぜかを徐々に映画は明らかにしていく。元は短編だったというアンドレア・ギブの脚本は女性の心理を描き出すと同時に現代的なテーマも盛り込んだ丁寧なものである。ただ、男の方の描写はやや簡単になってしまった。映画を見ていてどう処理するのか興味があったのは夫の扱いだったが、夫がああいう状況になることに伏線がないので、唐突な感じを受ける。ここはああいう状況にせずに、夫とリジーの対決場面が欲しかったところだ。バトラーの役柄にしてもいい男なのは分かるのだが、その真意はよく分からない。リジーの描写の細かさに比べれば、この対照的な男2人の描写は型にはまったものにとどまっている。加えてフランキーへの嘘を終わらせる処理の仕方も少し安易に感じた。そういう部分が各地の映画祭で多数の賞を重ねながら決定的な賞には結びつかなかった要因なのではないかと思う。いい映画だなと思いつつ、見終わってみると、あちこちが気になってくる映画なのである。

 若い頃のデミ・ムーアを思わせる容姿のエミリー・モーティマーは内面の脆さを抱えながら強く生きる母親を演じて良かった。ジェラルド・バトラーも「オペラ座の怪人」よりはこちらの方が自然で好感が持てた。

2005/11/12(土)「ステップフォード・ワイフ」

 アイラ・レヴィン原作で1975年のキャサリン・ロス主演作のリメイク。世間的にはほとんど評価がない(IMDBではこれより旧作の方が評価は高い)ようだが、僕はこの映画のコメディ感覚が嫌いではない。ラストの理に落ちた感じはちょっと余計なのだが、ベット・ミドラーがおかしいし、風刺や皮肉もある。まあ、残念なことに優しくて控えめで美しいステップフォードの妻たちより、強いニコール・キッドマンの方が魅力的なのである。

 1950年代風のタイトルバックで始まって、1950年代風のステップフォードという架空の街で話は進む。ベトナム戦争もなく、ウーマンリブもなかった1950年代がアメリカの理想的な時代なのだ、という設定にしておいて、それを揶揄する感じもある(ベット・ミドラーは「独立記念日なのにここには黒人もアジア系もいない」と言う)。この脚本はその揶揄に完全に成功しているわけではなく、決してうまくはないのだが、とりあえず、クスクス笑って気楽に見られる作品になっていると思う。

 監督は「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」のというより、ヨーダの声をやっているフランク・オズ。好きな監督なので、もっと映画を撮ってほしいと思う。