2013/03/03(日)「ふがいない僕は空を見た」

 「恋の罪」がR18+なのはよく分かるが、これのどこがR18+なのだろう。これでR18+の判定になるのなら、描写を少しソフトにして高校生でも見られる映画にした方が良かったような気がする。昨年は「ヒミズ」「桐島、部活やめるってよ」と青春映画の傑作があったが、この映画もそれに連なる、そして少しも劣らない厳しい傑作だと思う。キネマ旬報ベストテン7位。

 問題は何も解決しない。しかし、登場人物達は受けたダメージから、厳しすぎる現状から、なんとか立ち上がろうとする。スキャンダルに巻き込まれ、不登校だった主人公は学校に行くようになり、その親友は大学を目指して図書館で辞書をめくる。

 「俺にはとんでもない部分があるから、とんでもなく人に優しくしなくちゃいけないんだ」。

 「バカな恋愛したことないやつなんて、この世にいるんすかねえ」というセリフを吐くみっちゃん先生(梶原阿貴)のがらっパチなたくましさが良く、主人公の母親で助産師の原田美枝子の包容力がいい。

2013/02/11(月)「希望の国」

 このサイテーの映画がキネ旬ベストテン9位に入ったということに驚くほかない。

 底の浅い脚本、問題を深化していかない脚本、取材不足が露呈する脚本(あるいは取材が消化できていない脚本)に大きな欠陥がある。原発近くに住む両親は自殺し、原発から遠く避難した息子夫婦は元気を取り戻す。この単純な展開に唖然とする。放射能に汚染された地域はさっさと捨てましょうね、他の地域にはまだ希望がありますよというメッセージにしか見えないのだ。

 このストーリーのどこに希望があるのか。「一歩、一歩、一歩、一歩」と言いながら雪の中を歩く男女にかぶさって「希望の国」というタイトルが出るのを見て、小学生でも考えつきそうなアイデアをよく恥ずかしげもなく描けるなと思った。

 昨年放映されたNHKの番組で福島の人たちを対象にしたこの映画の試写の様子が紹介されていた。見た人から「なぜあんなラストにしたんですか?」と質問が出たが、映画を見てその質問の理由が分かった。答えも分かった。監督がバカだからです。

 何より腹立たしいのは映画が長島県という架空の県を舞台にしていることだ。長崎と広島を合わせた名前というのもふざけているが、なぜ福島県にできないのだろう。これでは現実と向き合う姿勢を放棄したとしか思えない。

2013/01/22(火)「東京家族」

 「あんたぁ、感じのええ人やねぇ」。吉行和子のセリフが心にしみる。その感じのええ人・紀子を演じるのは蒼井優。笑顔が好感度満点で、ぴったりの役柄だ。

 映画は登場人物の名前もほとんど同じなら、プロットもほぼ同じで、60年前の「東京物語」のリメイクと言って良い内容(山田洋次監督はモチーフにした、と言っている)。設定で大きく異なるのは次男の昌次(妻夫木聡)を登場させることだ。「東京物語」で昌次は戦死したという設定だった。

 キネ旬の山田洋次と渡辺浩の対談を読んだら、「息子」(1991年)も「東京物語」の骨格を借りた作品だという指摘があった。ああ、そうだった。「息子」もまた父親が東京に出てきて子どもたちに会う話だった。映画のポイントはフリーターの次男(永瀬正敏)と結婚を約束した聾唖者の女性(和久井映見)の姿にあった。ふらふらしているとばかり思っていた次男がしっかりと将来を見据えている姿に父親(三國連太郎)は安心する。

 「東京家族」はフリーターに近い舞台美術の仕事をしている次男と書店員の紀子の関係が「息子」の2人にそのまま重なる。2人は東日本大震災のボランティアの現場で知り合い、3回目のデートで昌次はプロポーズする。会ってすぐに紀子の人柄の良さを感じ取った母親(吉行和子)は「息子」の父親と同じように安心するのだ。だから、「東京家族」は「東京物語」のリメイクと言うよりも「東京物語」と「息子」を組み合わせた映画と言った方が近いだろう。

 元々は2011年12月の公開を目指していたが、東日本大震災が起きたため、山田洋次は撮影を1年延ばした。現代の日本を描くのに震災がない設定では不自然だからだ。それにしては震災への言及は少ない。父親の親友の母親が陸前高田市で津波に流されたという設定と、昌次と紀子の出会いに設定されているだけだ。山田洋次は被災地に足を運んでいるし、入れようと思えば、いくらでも震災のエピソードを入れられたはずだ。それをやらなかったのは震災のエピソードを入れすぎてはテーマがぶれるとの判断があったためなのかもしれない。

 戦後8年の日本を舞台にした「東京物語」は核家族化の問題を浮かび上がらせた。このテーマは60年たった今も古びていない。しかし、同じテーマを描くだけでは震災後1年の日本を舞台にする意味があまりない。「息子」の細部には当時の風潮を取り入れた同時代性があって感心させられたが、「東京家族」には同時代性や社会性が足りないように思える。それが映画の弱さにつながっている。

 年配者の観客が多い映画館は随所で笑い声が上がった後、クライマックスではすすり泣きが聞こえてくる。笑わせて泣かせる大衆性は「東京物語」より上だと思うが、映画の完成度では及ばないし、山田洋次作品としては残念ながら佳作にとどまったと言わざるを得ない。

2012/12/02(日)「桐島、部活やめるってよ」

 金曜日、金曜日、金曜日、金曜日と繰り返される序盤で、映画は一つの事象を視点を変えて描いていく。その事象とはバレーボール部キャプテンの桐島が部活を辞めたという噂。桐島は県選抜にも選ばれるほどの実力を持ち、瞬く間に噂は校内を駆け巡る。この過程で描かれるのは多くの登場人物の視線だ。視線の行方によって登場人物の思いが分かり、その置かれた境遇も分かってくる。

 これほど多くの視線で構成された映画も珍しいだろう。登場人物が見つめる先は例外なく異性であり、思いを素直に伝えられないから切なさが募る。なぜ思いが伝えられないのか。それは拒絶されることの恐れもあるだろうが、住む世界が違う(と認識している)からだ。同じ教室にいながら、世界は違う。映画は学校における上下関係を描きだし、そこで蠢く生徒たちの姿を浮き彫りにする。だからこの映画はリアルな青春映画になり得ている。映画にはモノローグもなく、説明的なセリフもない。視線と描写だけでこうした状況を明らかにしていく。吉田大八監督、久々の会心作となったのではないか。

 Wikipediaによれば、学校の階層構造(スクールカースト)でオタク系は下の方に位置する。オタクの集まりである映画部の面々は他の生徒の嘲笑の対象で、下位にいる者の常として鬱屈をかかえている。ゾンビ映画を撮影しようとした校舎の屋上に吹奏楽部の部長がいた場面で、映画部の面々は「吹部だから大丈夫だ」と話し、移動してくれるように頼む。たぶん、相手が運動部だったら何も言わずに諦めて帰ったのだろう。スクールカーストの根幹をなすのは十代特有の価値観で、美男美女や恋愛経験の豊富な者、文化部よりも運動部が上位に来る。大人になれば、差別の根幹は経済力にほぼ集約されるので単純だ(単純だから良いわけではない)。

 と、ここまで書いたところで、朝井リョウの原作を読んだ。そして驚いた。これほど原作を徹底的に解体しながら、原作のエッセンスをまったく失っていない映画は極めてまれだ。映画には原作のセリフと同じものはほとんどない。人間関係やエピソードも変更し、付け加えられたものが多い。

 原作は菊池宏樹(元野球部)、小泉風助(バレー部)、沢島亜矢(吹奏楽部)、前田涼也(映画部)、宮部実果(ソフトボール部=映画ではバドミントン部)、そして再び菊池宏樹の物語が描かれて終わる(文庫ではこれに東原かすみの14歳のころのエピソードが加わる)。メインとなるのは前田と菊池のエピソード。両者は同じクラスにいながら、話したこともないが、終盤のある出来事で一瞬、交錯する。そして菊池は前田の姿からある啓示を受け、サボっていた野球部の練習に参加してみようかという気になる。原作者はここが物語の核だという。映画はここもうまくアレンジし、前田(神木隆之介)の「この世界で生きていかなければならないんだ」というセリフ(撮影中の「生徒会オブ・ザ・デッド」のセリフ)を取り入れている。見事な映画化と言うほかない。脚本(吉田大八、喜安浩平)が素晴らしすぎる。

 付け加えておけば、朝井リョウはかなり映画を見ているようで、前田涼也のパートには「ジョゼと虎と魚たち」や「リリイ・シュシュのすべて」など邦画の青春映画のタイトルがたくさん出てくる。映画部が撮っているのも青春映画だ。映画ではこれが「鉄男」や「遊星からの物体X」などSFに変わっている。SFの方がオタクにふさわしいという判断があったのだろう。いずれにしても自分の原作から邦画の青春映画のトップクラスの作品が生まれたことは原作者冥利に尽きるに違いない。

2012/11/26(月)「魔法少女まどか☆マギカ 前・後編」

 「ハッ、君は本当に神になるつもりかい?」

 「神さまでもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて壊してみせる、変えてみせる。これが私の祈り、私の願い。さあ、叶えてよっ」。

 悪魔はひそかに忍び寄る。決して悪魔の姿をしたままで近寄ってはこない。猫に似たキュゥべえという謎の生物は少女たちに契約を持ちかける。「君の願いを一つだけ叶えてあげる。その代わり、魔女と戦わなくてはいけないよ」と。魔女は人に絶望をもたらす存在で、人の死や不幸や災厄にはすべて魔女がかかわっている。前編の序盤を見ながら、「異界からの侵略者と戦う少女戦士たちの話」と思ってしまったのだが、その後はこちらの想像をはるかに上回る展開だった。

 日本のアニメーションで「魔法使いサリー」あたりから始まり、綿々と作られてきた魔法少女という枠組みを逆手にとって、作者たちは緻密にそしてダイナミックに物語を構築している。キュゥべえのショッキングなセリフで締めくくられる前編は情報量が多く、上映時間も2時間10分と長いため見終わるとグッタリするが、話はとても面白く、引き込まれる。元がテレビアニメなので、各回のクライマックスを次々に見せられる感じがあるのだ。引き込まれて集中しすぎたたために起こる疲労感なのである。後編は物語のネタ晴らしと解決だ。絶望的で逃げ場のない状況に閉じ込められた少女たちを救う手立てはあるのか。作者たちはあらゆる可能性を否定してみせ、主人公のまどかは最後にこれしかないという解決策にたどり着く。

 希望、願い、祈り。幸せを願う人の気持ちを否定するような世界は間違っている。希望を絶望に変えてはいけない。この作品のメッセージはそれに尽きる。魔女の結界の抽象的な描写など技術的に賞賛すべき点は多々あるが、何よりもシンプルで当たり前のメッセージを訴えるからこそ、この作品はとても力強く人の心を動かすのだ。

 元のテレビアニメ全12話は2011年1月から東日本大震災による休止期間を経て4月まで放送された。深夜枠だったので、子ども向けではない。震災の時期に祈りというメッセージほど似合うものはないが、震災に合わせたわけではもちろんなく、元から備えていたものである。

 究極のセカイ系アニメであり、過去の数々のジャパニメーションの傑作群の上に築かれた記念碑的な作品と言える。希望を信じる人、信じたい人は急いで劇場に駆けつけなければならない。