2004/04/28(水)「キル・ビル vol.2 ザ・ラブ・ストーリー」

 アイパッチを付けたエル・ドライバー(ダリル・ハンナ)は「柳生十兵衛がモデル」との町山智浩の指摘に納得する。町山智浩はパンフレットで、この映画の基本は「子連れ狼」だとしている。確かにそうなのだろうが、「子連れ狼」の主人公・拝一刀には復讐の動機が十分にあった。この映画の場合、そこが弱いと思う。いや、前作を見る限り、結婚式を襲われ、恋人とその親族と友人を惨殺され、自身も瀕死の重傷を負って、妊娠中の子供を失ったブライド(ユマ・サーマン)の気持ちはそれなりに分かったのだが、この映画で真相が明らかになってみると、弱いと思えてくるのだ。

 ビル(デヴィッド・キャラダイン)の元にたどり着いたブライドことベアトリス・キドー(この名前をなぜ隠すのかがよく分からない)はそこでビルの「ついかっとして」というセリフを思わず聞き返す。ビルはブライドの裏切りに「ついかっとして」惨殺を行ったわけで、見ているこちらもがっかりしてしまう。復讐の元になった事件はそんな単純なことだったのだ。前作のラストで分かったように当時妊娠中だったブライドの子供は生きていた。しかも子供の父親はビル。元はといえば、男女のささいなすれ違いが事件の発端だったわけだ。

 ブライドがビルと殺し屋稼業に決別した理由については映画を見て欲しいが、それが分かってもこの動機の弱さ、物語の基本的な設定の弱さの印象は変わらない。「ザ・ラブ・ストーリー」というサブタイトルはビルとブライドのそれを表しているようだ。しかし、エンドクレジットにまたも流れる「怨み節」とは裏腹に、誤解に基づくラブストーリーを見せられても困るのである。ビルを穏やかなものの分かったキャラクターなどにせず、単純に極悪非道の悪いヤツにしておけば、まだ何とかなったのではないか。クエンティン・タランティーノはなぜ、この部分だけ、東映映画をまねなかったのだろう。

 快調なのはバド(マイケル・マドセン)に返り討ちに遭い、棺桶に入れられ生き埋めにされたブライドを描く場面からエルとの死闘までだった。普通、生き埋めにされたら外から手助けがない限り、脱出は無理。タランティーノはそれを可能にするため、中国でのブライドの修行を見せる(ここで出てくる五点掌爆心拳は「北斗の拳」を参考にしたのだろう)。なんとか脱出してバドのトレーラーに行くと、エル・ドライバーがいる。ここから狭いトレーラーの中でブライドとエルの迫力たっぷりの死闘が描かれる。

 その後のブライドとビルとの描写はまったく生彩を欠いて、長い言い訳を聞かされているような気分になる。前作はハチャメチャなアクションと誤解に基づく日本趣味が魅力だったけれど、今回のようなドラマ重視の作りでは脚本の力が要求される。タランティーノにはそれが足りなかったようだ。この程度の話なら、2作合わせて2時間半もあれば良かったのではないか。4時間以上もかけて描く内容ではないのである。

2004/04/25(日)「デッドコースター ファイナル・デスティネーション2」

 サブタイトルはビデオ発売時に付けられたもの。劇場公開時にはなぜ付けなかったのだろう。前作の登場人物も出てくる歴とした続編。今回はハイウェイ事故で生き残った者たちに容赦なく死が襲いかかる。僕は前作より面白かった(DVDで見たせいもある)。死神が定めた死の筋書きをどう変えるかが焦点で、まとめ方は前作よりもうまい。もちろん、変える前にほとんどの者は死んでしまう。

 監督は「マトリックス リローデッド」でカーチェイスシーンを担当したデヴィッド・リチャード・エリス。冒頭にあるハイウェイ事故の場面はよくできているけれど、編集はやはり「リローデッド」の方がうまい。

2004/04/14(水)「デブラ・ウィンガーを探して」

 女優のロザンナ・アークェットがハリウッドの主に40代の女優34人にインタビューした。家庭と仕事の両立に関する話が多いが、ジェーン・フォンダが演技について語る場面が圧巻だった。49本の出演作品のうち「8回か10回しか体験していない」と前置きしたうえで、フォンダは映画の核となるシーンを撮影する際の重圧とうまくいった場合の達成感について話す。

 49本のうち8回しかなかったけれど、照明の輪の中に入り、立ち位置に立つ。すべての回路が開かれる。すると、それは起こるの。飛行機が離陸するように私は飛び立って、役になり切る。まるでダンスよ。共演者の男優や女優と踊るダンス。カメラも照明も踊る。素晴らしい融合なの。

 自分の演技もカメラも共演者も愛しいわ。感情が豊かに満ちて、それはどんなセックスより素晴らしいわ。この世で最高のものよ。

 名女優でなければ、言えないことだと思う。

 ウーピー・ゴールドバーグが年を取って自分の体型が崩れることを話すインタビューには爆笑。テリー・ガーが老けているのに驚いたが、これは病気のためもあるのだろう。役を得るためにいかにセックスを要求されるかについて言及する女優もおり、女優たちの素顔が見られて大変面白かった。

2004/04/14(水)「イン・ザ・カット」

 パンフレットによると、in the cutとは「ギャンブラーが、他人のカードを盗み見るときに使う言葉。意味は隙き間、隠れ場所。語源は女性の性器。転じて、人から危害を加えられない、安全な場所のこと」だそうだ。

 ジェーン・カンピオンがメグ・ライアン主演で撮ったサスペンス。といっても、カンピオンはこういう題材には向いていないようで、ミステリとしてはほとんど機能しない。では何の映画かというと、タイトルのような映画なわけである。ライアンは自慰にふけるシーンや全裸のラブシーンまで披露し、世間と深くは交流しない“安全な場所”にいた女の変化と女の性を熱演しているけれど、サスペンスの部分がおざなりなので映画全体としても盛り上がってこない。よく言えばアンニュイな、悪く言えば、かったるい雰囲気に終始し、意味がありそうでない映画になっている。殺人犯かもしれない男に惹かれていく女の孤独や不安、揺れ動く気持ちをもっと綿密に描く必要があっただろう。殺人犯かもしれない異性を愛するという題材なら「シー・オブ・ラブ」(1989年、ハロルド・ベッカー監督、アル・パチーノ、エレン・バーキン主演)の方がミステリとしても官能的な描写でもよほどよくできていたと思う。

 ニューヨークの大学講師フラニー(メグ・ライアン)は街のスラングや詩の断片を集めるのが趣味で、他人とは適度な距離を保っている。腹違いの妹ポーリーン(ジェニファー・ジェイソン・リー)は対照的に感情的で結婚願望が強い。スラングを教えてもらうために生徒のコーネリアス(シャーリーフ・パグ)と街のバーに入ったフラニーはトイレに続く通路でBlowjobの場面に出くわす。男の顔は暗がりで見えなかったが、手首には刺青があった。数日後、刑事マロイ(マーク・ラファロ)が殺人事件の聞き込み調査でフラニーのアパートを訪れる。殺された女はバーの通路でBlowjobしていた女。喉を切り裂かれ、バラバラに切断されて発見された。フラニーはマロイの手首に刺青があるのを見つける。セックスに積極的なマロイはフラニーに興味を示し、2人は危うい関係になる。そしてまたも女の惨殺死体が発見される。

 フラニーが“安全な場所”に閉じこもるのはスケート場で会って30分で婚約した自分の両親がやがて離婚したことがトラウマになっているためらしい。他人から傷つけられたくないわけである。そういう女の現状と変化がメグ・ライアンの演技では描き切れていない。ラブコメの女王だったメグ・ライアンも42歳。相変わらずきれいだが、今さら濃厚なラブシーンを見せられても困る。しかもその熱演がほとんど映画の出来に貢献していないのがもっと困る。風貌だけはなんだかジェーン・フォンダを思わせたが、メグ・ライアン、あまり演技力はないと今さらながら思わざるを得ない。カンピオンの演出は、細部は良くても、全体をまとめる部分で凡庸さが目に付いた。

 マーク・ラファロは口ひげがあって、若い頃のバート・レイノルズを思わせた。「ミスティック・リバー」では真面目な警官だったケヴィン・ベーコンがライアンにつきまとう変態的な男を演じて、実にぴったりと思えてしまう。

2004/04/04(日)「サラマンダー」

 火を吐く竜が大量に繁殖して人類滅亡の危機に陥る話。設定は悪くないが、スケールが小さい。大量の竜と戦う場面を期待したら、1匹との戦いが数回あるだけ。竜の造型は良いのに、VFXにそんなにお金がかけられなかったのか?

 竜のオスは1匹だけで、あとは全部メスというのはリアリティを欠く(というか、都合のいい設定)。なぜサラマンダーが復活したのかの説明もほとんどない(獲物が繁殖するまで眠っていた、というだけではどうもね)。「生き残りたいなら、空だけ見てろ」というのはうまいキャッチコピーと思ったが、内容はB級だった。

 主演はクリスチャン・ベール、マシュー・マコノヒー。監督は「Xファイル」のロブ・ボウマン。