2014/10/04(土)「ビューティフル・ダイ」

 サイコな殺人鬼が刑務所を脱走して元恋人に会いに来ようとする。ああ、そういうサイコなサスペンスだなと油断していると、終盤に背負い投げが待っていた。しかし、そこに至るまでの描き方は決してうまいとは言えず、グラグラ揺れるカメラ(を効果的と思っているであろう勘違い)を含めて習作の域を出ない。

 サイモン・バレットの脚本の志は悪くない。こういう仕掛けは観客サービスの一環だと思う。

2014/09/28(日)「るろうに剣心 伝説の最期編」

 「京都大火編」と合わせた前後編についてはアクション時代劇に革新をもたらすものとして高く評価する。個別に見れば、「伝説の最期編」は「京都大火編」より少し落ちる仕上がりと言わざるを得ない。なぜか。大きな要因はクライマックスのアクション構成の違いにある。

 「京都大火編」のクライマックスでは京都のあちこちでさまざまなアクションが繰り広げられたのに対して、今回は軍艦の中だけに限られる。谷垣健治が演出したスピード感あふれるアクション自体の出来は良いのだが、それが映画のダイナミズムに結びついていかないのだ。例えば、「七人の侍」を思い起こせば、よく分かる。クライマックスを支えるアクションに空間的な広がりを加えると、ダイナミックな映画になり得る。それがなかったのは構成上の惜しい計算ミスと言うべきか。

 もう一つ、アクションにエモーションが裏付けされていないのも弱い。激しいアクションに説得力を持たせるには主人公の激しい感情が必要だ。「京都大火編」にあったさまざまな登場人物のエモーションのほとばしりがないのは、前作で描いたことを繰り返さず、決着を付ける話に絞ったためだろうが、残念でならない。観客は前作のエモーションを携えて劇場に来るわけではない。主人公の怒りの爆発のアクションとして観客に共感を持ってもらうには、もう一度エモーションを高めるシーンを入れておいた方が良かった。

 そういう残念な点があるにしても、「るろうに剣心」の3作が邦画アクションの新たな地平を切り開いたのは間違いない。これが単発の作品とならないことをアクション映画ファンの多くのは望んでいると思う。単発では意味が薄れる。これに続けて谷垣健治のアクション演出の切れ味を生かす映画を誰かまた撮ってほしい。

2014/09/27(土)「サプライズ」

 タイトルが出ないな、と思ったら、窓に書かれた血文字の「You're Next」がタイトルだった。両親の結婚記念日を祝うために別荘に集まった家族とその恋人など10人が正体不明の殺人者に1人ずつ惨殺れていく。というよくあるスラッシャーものに、ひねりを加えたのが脚本の工夫。しかし、邦題に「サプライズ」と付けるほどの驚きはない。あとふたひねりぐらい欲しい。

 サバイバル・キャンプで訓練を受けたという設定の強いヒロイン(シャーニ・ヴィンソン)がいいが、一番のスラッシャーは犯人たちではなく、計7人を殺したこのヒロインだったりする。

 監督のアダム・ウィンガードと脚本のサイモン・バレットのコンビによる新作で評価の高い「ザ・ゲスト」は11月公開。それへの助走作品として見ておいて損はない。

2014/09/23(火)「エリジウム」

 どう考えても、エリジウムという宇宙都市の構造には無理がある。この都市、宇宙空間に浮かぶのに密閉されていない。回転による遠心力で1Gの疑似重力を発生させ、空気をとどめておこうとすると、相当な規模が必要になる。地球の大気圏(1000キロ以上)ほどの規模があるなら大丈夫だろうが、この都市の大気圏は数百メートルぐらいしかなさそうだ。それに何らかの事故によって回転が止まってしまうと、空気がなくなるのは避けられない。どころか、人間も物も宇宙空間に放り出されてしまう。そんな危うい構造では安心して住んでいられないだろう。

 富裕層と貧困層が明確に区別された世界というのは1%の富裕層が99%の富を手にしているというアメリカ社会を反映しているのだろうが、基本設定に無理があるので、現実批判にまで結びついていない。ドラマもあまり盛り上がらず、珍しい悪役のジョディ・フォスターは簡単に消える。もう少し脚本を練り上げる必要があったと思う。

2014/09/21(日)「柘榴坂の仇討」

 原作は浅田次郎の短編集「五郎治殿御始末」に収められた同名作品。映画を見た後に読んだら、5つの場面で構成され、38ページしかない。映画と同じ冒頭の長屋のシーンと回想の桜田門外の変の場面、主人公の志村金吾(中井貴一)が司法省の秋元警部(藤竜也)宅を訪ねる場面、柘榴坂での対決とその後の場面の5つである。浅田次郎作品の中でこの短編が特に優れているわけではなく、泣けるわけでもなく、これがなぜ映画化されたのかよく分からなかったが、公式サイトを見ると、「男たちの矜持を映画にしたい」というプロデューサーの好みによるようだ。

 それはそれとして、原作だけでは長編映画にはならないので脚本はそれを大きく膨らませている。登場人物を増やし、エピソードを加え、金吾とその妻セツ(広末涼子)の長屋での貧しい暮らしを描く。映画が付け加えたエピソードで良いのは中盤、金貸しに返済を迫られた元侍を助けようとした金吾に周囲の町民が次々と元武士であることを名乗り出て手助けしようとする場面だ。明治維新後の廃藩置県で180万人の武士たちは野に下ったが、武士の気概をなくしたわけではないことを象徴している。

 主人公の金吾は剣の達人で井伊直弼の警護を担当していたが、桜田門外の変で奪われた槍を取り返しに行っている間に井伊は殺されてしまう。両親が自害したために切腹も許されず、逃亡した犯人たちの一人を討つことを命じられ、13年間、犯人の姿を追い求めることになる。若松節朗監督の「ホワイトアウト」「沈まぬ太陽」はいずれも信念を曲げない男を描いていた。この映画の主人公もそういうタイプであり、愚直な生き方を貫いている。

 しかし個人的に映画で最も心を動かされたのは「ひたむきに生きる」主人公ではなく、人力車夫の直吉(阿部寛)が同じ長屋に住むマサ(真飛聖)に言うセリフだ。

 「今度、おちよ坊を(俥に)乗っけて、湯島天神の縁日にでも行きやせんか」

 直吉は桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した18人の刺客の1人。事件後に逃亡し、本名の佐橋十兵衛から名前を変え、人力車を引きながらひっそりと暮らしている。マサは出戻りで幼い娘のチヨと暮らす。チヨがなついている直吉に密かに思いを寄せているが、「出戻りの女なんて相手にされるはずがない」と思い込んでいる。このセリフはそんなマサを思っての言葉であるだけでなく、桜田門外の変後、ほとんど人生を捨てていた直吉が再び生きようとする決意が表れたセリフでもあるのだ。飾らない阿部寛のたたずまいが実に良く、13年間の直吉の逃亡生活をもっと見たくなる。

 雪が降りしきる桜田門外の場面など映画の描写やエピソードはどれも悪くはない。ただ、全体的にもっと細やかな情感が欲しいところだ。正直な映画化で大きく減点すべき部分はないのだけれど、十分に満足できたわけでもないのだ。