2005/04/25(月)「インファナル・アフェアIII 終極無間」

 「インファナル・アフェアIII 終極無間」パンフレット善か悪かの狭間の無間地獄に堕ちた男たちを描いた映画にふさわしい決着の付け方だとは思うものの、3部作の締めくくりには決定的に物足りない思いが残る。これが1作だけの話ならこういうラストもありなのだが、3部作として見ると、アンディ・ラウの運命はあまりにも小さいレベルでの話に終わった印象がある。この決着のつけ方を有効にするために中盤、精神科医のケリー・チャンの存在が大きくなってくる。しかしケリー・チャン、ヒロインとしては前作のカリーナ・ラウの足下にも及ばない。美人ではあっても演技の質が軽すぎるのだ。トニー・レオンとの絡みのユーモアなどこのシリーズの雰囲気とはかけ離れたものだろう。2作目が面白かったのはヤクザ映画、ギャング映画の側面が強調されて裏切りに次ぐ裏切りが展開されたからで、大変密度の濃い話をうまくまとめていた。今回は1作目のつながりと過去の回想を展開して新しい側面も見せるのだけれど、結局、1作目のその後の話であり、落ち穂拾いにしかならなかった。当初から3部作の構想があったという割には不満の残る出来である。2作目がいかに素晴らしい出来だったかをあらためて痛感した。

 潜入捜査官ヤン(トニー・レオン)の殉職6カ月前と10カ月後の話が複雑に絡み合って映画は進行する。時間軸を動かす脚本・演出は凝っているが、技術的なうまさを感じるほどではない。マフィアに内通したラウ(アンディ・ラウ)はヤンの殉職後、一時的に庶務課に左遷させられる。善人になりたいと願うラウは警察内部にいる潜入マフィアを始末してきた。保安部のヨン警視(レオン・ライ)にもどこか不審な点があった。疑いが晴れて内務調査課に異動したラウはヨンの身辺を探り始める。ヨンは密かに中国本土のマフィアであるシェン(チェン・ダオミン)と接近していた。シェンはヤンの殉職前にマフィアのボス、サム(エリック・ツァン)と取引関係にあり、ラウはヨンが潜入マフィアではないかという疑いを強くする。ラウは同時に精神科医のリー(ケリー・チャン)に近づき、ヤンのカルテを手に入れようとする。

 と、ストーリーを書いていってもなかなかこの映画の面白い部分は伝わらないだろう。複雑な人間関係が織りなす群像劇や、登場人物の皮肉で奥深い苦悩が浮き彫りにされていくところにこのシリーズの面白さはある。今回、苦悩を一身に背負っているのはラウで、サムの組織が壊滅したことでラウは善人になろうという思いを強くする。元々、組織に入ったのもサムの妻マリー(カリーナ・ラウ)に恋したからだった。そのマリーも死に、ラウにはマフィアの内通者であることの理由はなくなっている。そして最後まで警察官として生きたヤンの存在に強く惹かれることになる。ここを強調していくと、こういうヒッチコックを思わせるような結末になるのだろう。ただ、アンディ・ラウは主人公としては個人的に弱く感じる。

 2作目はエリック・ツァンやヤンを助ける警部役のアンソニー・ウォンらベテラン俳優たちの演技が光っていた。今回もこうしたベテランは登場するけれど、映画の中心にいるのはラウであり、群像劇の面白さは薄れてしまった。その代わりに新しく登場したレオン・ライとチェン・ダオミンの存在が光っている。この2人の演技が今回の数少ない収穫と言えようか。

2005/04/17(日)「コンスタンティン」

 「コンスタンティン」パンフレット肺ガンのくせにヘビースモーカー。若い頃、自殺を図ったために天国への門は閉ざされている。虚無的で偽悪的な主人公のジョン・コンスタンティンのキャラクターは魅力的だ。コンスタンティンは(映画では)死んで地獄に行きたくないために人間界に侵略してくる悪魔たちを追い返している。幼い頃から悪魔が見える能力を持っていたために長じてエクソシストになり、悪魔退治屋になった。それとて、正義のためではなく自分のためというのがいい。そのコンスタンティンをキアヌ・リーブスが颯爽と演じる。血を吐きながら、たばこを吸い、機関銃に似た武器で悪魔と戦う。DCコミックスの人気キャラクターを、ミュージックビデオ出身で監督デビューのフランシス・ローレンスはスタイリッシュにビジュアルに映像化している。まるで核戦争後のような地獄のビジュアルなど映像面では水準を保っているのだが、惜しいことにキャラクターに血肉が通っていない。だから物語にはそれなりのひねりがあるのに、エモーションが高まっていかない。ビジュアルがビジュアルにとどまっているのはそのためだろう。ニヒルな主人公を突き動かすエモーションをもっと描く必要があったと思う。ミュージックビデオ出身の監督が陥りやすい欠陥にすっぽりはまっている。

 冒頭、メキシコでキリストを殺した“運命の槍”が地中から掘り出され、見つけた男が憑かれたように歩き始める。車がぶつかっても男は傷ひとつ負わない。槍を持った男が通ると、周囲にいた牛たちがバタバタ倒れていく。変わって、主人公コンスタンティンが少女に取り憑いた悪魔を払う場面。自分の手には負えないとヘネシー神父(ブルイット・テイラー・ビンス)がコンスタンティンに悪魔払いを依頼したのだ。その悪魔払いの中でコンスタンティンは今までとは違う何かを感じる。神と悪魔は中立を保っているはずなのに、悪魔が少女の体を借りて人間界に進出しようとしていた。女性刑事アンジェラ(レイチェル・ワイズ)は妹の自殺の謎に迫るため、偶然会ったコンスタンティンに協力を求める。いったんは断ったコンスタンティンだが、アンジェラの背後に悪魔がつきまとっているのを知り、妹の死の真相を探り始める。

 映画は大天使ガブリエル(ティルダ・スウィントン)、サタンの死者バルサザール(ギャビン・ロズデイル)、神と悪魔の間で中立を保つミッドナイト(ジャイモン・フンスー)、天使でも悪魔でもないハーフ・ブリードたちを巻き込んで進行する。それぞれにいい役者をそろえ、物語も悪くないのに、どうも深みに欠けるのはやはり演出に力が足りないためか。破綻のない映画には仕上がったが、一通りそろえれば、映画は面白くなるわけでもないらしい。「ブレイド」と「マトリックス」を合わせたような展開で、全般的に目新しさに欠けるのも一因だが、何よりも破綻を恐れて小さな完成度にとどまった印象がある。まとめることだけに力を注いだ感じなのである。

 アンジェラと妹の2役を演じるレイチェル・ワイズは色っぽくてよろしい。クライマックスに登場するピーター・ストーメアは飄々としながら一筋縄ではいかない雰囲気を漂わせるサタンを好演していると思う。

2005/04/16(土)「オアシス」

 キネ旬ベストテン4位。東京では昨年2月に公開された。軽度の知的障害のある男ジョンドゥ(ソル・ギョング)と脳性マヒで体が不自由なコンジュ(ムン・ソリ)のラブストーリー。まず、ムン・ソリのリアルな演技に驚き、こうした2人を主人公にして映画を成立させてしまうイ・チャンドン監督の力量に驚く。2人はそれぞれ周囲から理解されていない。だからこそお互いがお互いを切実に必要としている。それが周囲にまったく通じない。いや障害を持つ2人は自分たちの真実を周囲に伝える術を持たないのだ。圧倒的に孤立した絶望的状況の中で、映画は悲劇的展開に走りそうになるけれど、そうはならず、2人の純粋さを強烈に浮かび上がらせる。希望を持たせるラストが素晴らしい。

 一方で、ぎりぎりのところで成立している映画だとも思う。ムン・ソリの演技は一歩間違えれば、障害者差別と受け取られる恐れもある。脳性マヒの患者はこういう姿形をしていると表現すること自体が差別を含むものだからだ。物まねと演技は紙一重なのだ。そうならなかったのはイ・チャンドンの確かな視点と真摯な演出があるからだろう。安易な泣かせにすることなど、イ・チャンドンの頭には最初からなかったに違いない。

2005/04/15(金)「エイプリルの七面鳥」

 「エイプリルの七面鳥」パンフレット「ギルバート・グレイプ」「アバウト・ア・ボーイ」の脚本家ピーター・ヘッジスの監督デビュー作。癌の母親のために七面鳥を焼こうとするエイプリルの奮闘を描く。アパートの住人たちの協力を得ながら感謝祭の七面鳥を焼くエイプリルと、エイプリルのいるニューヨークに向かう家族の様子を交互に描きながら、ヘッジスは徐々にドラマのシチュエーションを明らかにしていく。エイプリルが親にとってまったくよい子ではなかったこと、母親が癌で余命幾ばくもないこと(母親がかつらであることが途中分かるが、あれは抗ガン剤のためなのだろう)。終盤、家族はエイプリルのアパートの前まで行きながら、結局、立ち寄らずにレストランへ向かう。そこのトイレで母親はある少女とその母親の諍いを見て、気持ちを翻す。そして幸福感あふれるラストシーンへとつながる。ナレーションが多かった「アバウト・ア・ボーイ」とは違って、淡々とした描写の積み重ねで内面描写は一切ない。エイプリルが七面鳥を焼こうと思った気持ちも説明されないが、行動を通して登場人物たちの思いを描き出そうとするヘッジスの狙いはうまくいっていると思う。だめ押し的な演出をしないことに好感が持てる。

 「アバウト・ア・ボーイ」同様、クスクス笑える作りである。エイプリル(ケイティ・ホームズ)は黒人のボビー(デレク・ルーク)とニューヨークの小汚いアパートに住んでいる。七面鳥を焼こうと準備していたら、オーブンが故障しているのが分かる。ボビーは既にどこかへ出かけ、修理もできず大家もいない。仕方なくエイプリルはアパートの住人たちの部屋を訪ね、オーブンを貸してくれるよう頼む。その頃、エイプリルに招待された家族4人は祖母を拾ってニューヨークに向かう途中。祖母は半分ぼけかかっている。車の中での家族の会話からエイプリルが家族に迷惑ばかりかけた存在だったことが分かる。招待されたけれども、いやいや向かっているというのがありあり。しかし、父親だけは違う。いい思い出がないという妻が車を降りたのを追って、「だからいい思い出を作りに行くんだ」と話す。癌が進行している妻と娘が理解し合えるのはこれが最後のチャンスなのである。

 エイプリルが苦労しながら七面鳥を焼く姿は壊れた家族の絆を取り戻したいという気持ちと容易に重ねることができるけれども、それを映画は力を込めて言っているわけではない。そこがスマートだ。ことさらドラマティックな演出をしないことが洗練につながっている。

 アパートに住む優しい黒人夫婦やピンチの時に助けてくれた親切な中国人家族の描写に対して、高級オーブンを持っている独身の白人男は嫌なやつに描かれる。そこにヘッジスのスタンスが感じ取れる。絶賛はしないが、いい作品だと思う。母親を演じたパトリシア・クラークソンは昨年のアカデミー賞で助演女優賞にノミネートされた。

2005/04/11(月)「きみに読む物語」

 「きみに読む物語」パンフレット富豪の青年ロンと木材置き場で時給40セントで働くノアの間で揺れ動くアリーの選択の基準がよく分からない。こういう物語の場合、金持ち同士の結婚では観客の支持はまず得られないから、アリーがノアを選ぶのは自明のことなのだが、ロンを演じるジェームズ・マーズデン(「X-メン」のサイクロップス!)が悪い面もない普通の好青年に見えるのに対して、ノアの方はなんだかよく分からない男なのである。過去の熱烈な愛があったにしても、よく見れば、どちらを選ぶべきかは明らかだろう。映画はそういう意図ではないはずで、要するにノア役のライアン・ゴズリングに魅力が足りないのである。このキャスティングは逆だった方が良かったのではないかと思う。

 都会から来た男と田舎の少女のひと夏の恋を描いたピアス・ハガード監督の名作「サマーストーリー」の裏返しのシチュエーションながら、そういうわけで過去の部分の恋愛描写にはそれほど感心しなかった。映画はこれに現在のアリーとノアの描写を入れることでオリジナリティーを得ている。アルツハイマーの問題を含めて描かれるこの現在のパートを演じるのは監督ニック・カサベテスの母親ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナー。邦題もこの部分から取られている。ただし、個人的にはこの枠組みを考慮したにしても映画は水準作のレベルと思う。

 1940年のノースカロライナ州シーブロック。カーニバルの夜、ノアは都会から来た女アリー(レイチェル・マクアダムス)に一目惚れして、強引にデートに誘う。すぐに熱烈な愛に燃え上がるが、アリーの母親(ジョアン・アレン)はノアがアリーにふさわしくないと考え、交際に反対する。夏の終わり、予定より早くアリーは母親とともに都会に帰っていく。自分のことをクズ(トラッシュ)と非難した母親の言葉を聞いて、ノアはアリーと喧嘩別れしたままになってしまう。ノアは毎日、アリーに手紙を書くが、母親の妨害でアリーには届かなかった。アリーは大学に行き、ノアは軍隊に行くことになる。そして7年後、2人は再会する。

 映画はひと夏の恋(あるいは若いころの恋)を燃え上がらせた相手が一生連れ添うに値するかというテーマをはらみつつ進行する。それを補強するのはアリーの母親がやはり若い頃に愛した男がいたと打ち明けるシーンだ。ジョアン・アレンの演技によって、このシーンは説得力があるけれども、それなら今は夫と形式的な夫婦であることへの思いを描く必要があったように思う。確かにセリフでは語られるのだけれども、かつて愛した男と結婚した方が良かったのか、今の方が幸せなのか、釈然としない。涙を流しながら、そういう経験を話す母親にはアリーの気持ちが分かったはず。それならば、貧乏な男との交際に反対する理由に説得力が足りない。

 ニック・カサベテスは「ジョンQ」でも思ったが、父親に比べて演出力が不十分だ。細部にこだわった演出が必要なのだと思う。原作はニコラス・スパークス。2時間で読めるラブストーリーを目指したという。原作がどうかは関係ないにしても、脚本化する段階で、もう少し工夫が必要だった。