2014/07/26(土)「GODZILLA ゴジラ」

 ウィリアム・M・ツツイの好著「ゴジラとアメリカの半世紀」に「アメリカのファンが好んでいるのは60年代から70年代にかけてゴジラが正義の味方として活躍した映画群」との指摘がある。意外な気もするが、テレビで繰り返し放映された影響なのだという。そういう背景があるので、新作「GODZILLA ゴジラ」のキャラクター設定がこうなるのは必然だったのだろう。

 ゴジラを正義の味方(生態系の守護神)として描く上でギャレス・エドワーズ監督が平成ガメラシリーズを参考にしたのは間違いないようで、見ているうちにゴジラがガメラに、ムートーはギャオスに見えてくる。惜しいのはゴジラがその正体を明らかにする見せ場がないこと。芹沢猪四郎博士(渡辺謙)がゴジラはムートーを退治するために出てきたとなんとなく説明するだけではもったいない。平成ガメラ1作目のあの吊り橋のシーン、中山忍たちを狙ってギャオスが吐いた光線をガメラが手でかばい、正体不明の怪獣から善の怪獣であることが初めて明らかになるシーンのように、ドラマティックな演出がほしいところなのだ。

 キャラクターの描き方の弱さは怪獣だけでなく、人間たちの描き方にも当てはまる。総じて平板であり、これがドラマの弱さにつながっている。もっと緩急とメリハリをつけたいところだ。

 このほか、ゴジラの吐く光線の威力がこれでは貧弱すぎるじゃないかとか、不満な点は多々あるものの、それを吹き飛ばすのがゴジラが大音量で咆哮する場面の迫力。もうこのシーンを見られただけでこの映画、プッシュしたくなる。第2作では細かな欠点を修正して、大迫力のゴジラを心から堪能させてほしいと切に願う。

2014/07/06(日)「オール・ユー・ニード・イズ・キル」

 「目が覚めたら、私に会いに来て」(Come Find Me, When You Wake Up)

 オニヒトデのように多数の触手を持つウニのような形態の異星人ギタイとの戦闘で死ぬ前に、“戦場の牝犬(ビッチ)”と呼ばれるリタ・ヴラタスキ(エミリー・ブラント)が主人公のウィリアム・ケイジ(トム・クルーズ)に言う。ケイジは出撃初日の戦闘で死んだと思ったら前日に戻って目が覚め、また戦闘中に死んで前日に戻るというループを理由が分からないままに繰り返している。リタに会うことで、ループの理由を知り、ギタイを倒す方法を一緒に探ることになる。

 タイムループの話はケン・グリムウッドの名作「リプレイ」を嚆矢としていろいろな小説や映画が題材にしているが、これはその中でも上位に入る出来だ。ループものというより、死んだらリセットして最初から何度でもやり直せる点でゲームを思わせる。何十回も何百回も単純に繰り返すだけではない。ケイジはロールプレイングゲームのようにさまざまな違う選択を試し、その結果がどうなるのかを知り、経験を蓄積し、戦闘能力を高めていくのだ。

 ひいきのエミリー・ブラントが出ているのでつまらなくてもいいかと思って見たら、出来の良さに驚いた。ダグ・リーマン映画の中で最も面白い。工夫を凝らした脚本(クリストファー・マッカリー、ジェズ&ジョン=ヘンリー・バターワース)に感心させられた。といっても脚本の工夫なのか、桜坂洋のライトノベル「All You Need Is Kill」の通りなのか分からない。気になったのでので原作(Kindle版)を読んだ。

 原作の第2章にロールプレイングゲームという言葉が出てくるので桜坂洋もそれを意識したのだろう。そこを除けば、全体としてこの原作はロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」の影響下にある。「宇宙の戦士」を映画化した「スターシップ・トゥルーパーズ」とこの映画が似ているのはだから当然だ。「スターシップ…」の頃は技術的にまだパワード・スーツを描けなかったが、この映画がその鬱憤を晴らしたと言えるかもしれない。

 最初に書いたセリフ、ケイジがリプレイしていることを知ったリタのセリフは原作ではこうなる。「おまえ、いま……何周めなんだ?」。このセリフを見ても分かるように、映画の脚本は原作とは大きく異なる。設定だけを借りて、オリジナルのアイデアとエピソードをふんだんに盛り込み、映画向きに構成している。断言するが、映画の展開の方が原作よりも優れている。意外なのは脚本を担当した3人のこれまでの作品にはSFが1本もないこと。それなのにこうしたうまい脚本ができたのは物語を語る技術が確かだったからなのだろう。SFだろうが、ミステリだろうが、深刻なドラマだろうが、脚本が肝心なのである。

 こうした脚本のうまさとダグ・リーマンのスピーディーなアクション演出の巧みさ、ケイジとリタの関係の描き方、過不足のないVFXの技術が組み合わさったことが傑作となった要因だと思う。近年のSFアクション映画では出色の出来と言って良い。

 兵士が着る機動スーツは装備を含めると55キロもあったそうで、俳優たちは体を鍛えざるを得なかった。腕立て伏せをしている場面でのエミリー・ブラントの肩の筋肉の付き方と背中から足にかけてのまっすぐなラインがいかにも鍛えた体らしかったが、それはCGではなく撮影前の3カ月のトレーニングの成果のようだ。

2014/06/28(土)「ブルージャスミン」

 全財産を失って妹のアパートに転がり込むというシチュエーションは確かに「欲望という名の電車」。金持ち時代を引きずっているジャスミン(ケイト・ブランシェット)の姿と行く末もブランチ(ヴィヴィアン・リー)に似ているが、痛ましさ一直線だった「欲望…」とは違って、クスクス笑いながら見られるのがウディ・アレンらしいところだろう。

 考えてみると、「マッチポイント」も「太陽がいっぱい」を想起させたし、アレンは過去の名作を咀嚼して自分なりの映画に作り替えることに興味があるのかもしれない。

 アカデミー脚本賞と主演女優賞を受賞し、助演女優賞に妹ジンジャー役のサリー・ホーキンスがノミネートされた。しかし、これは脚本よりも助演よりもブランシェットの演技が光る映画になっている。

 ジャスミンに迫る歯医者はウディ・アレンを投影しているのではないかと感じた。

2014/06/22(日)「チョコレートドーナツ」

「正義なんてないんだな」

「法科学校で習わなかったのか。それでも闘うんだ」

 ダウン症のマルコ(アイザック・レイヴァ)の監護権を麻薬中毒の母親に奪われた裁判の後、アフリカ系弁護士のロニー(ドン・フランクリン)がポール(ギャレット・ディラハント)に言う。裁判で常に正義が勝つとは限らないけれども、現状を打破するには闘うしかない、という訴えにはとても共感できる。しかし、映画を見ていてどうもすっきりしないのは「ほら見ろ、ゲイへの偏見を持つからこういう悲劇が起きるんじゃないか」という展開になってしまっているからだ。

 ゲイへの偏見と差別は十分に描かれていて、それはそれで納得できる。しかし、このストーリーではダウン症のマルコの存在が利用されているだけのように思えてきてしまう。脚本家の狙いはゲイへの偏見と差別を糾弾するだけで、ダウン症への偏見と差別にはあまり関心がなかったのではないか。映画に奥行きが感じられないのはそのためもあるようだ。お涙ちょうだいの域を出ない展開がとても歯がゆい。

2014/06/08(日)「ある過去の行方」

 過去といってもそんなに過去じゃない。過去と銘打つからには10年、20年は過去であってほしい。脚本の作りとして面白いのは主人公が誰だか判然としないことで、最初に出てくるアーマド(アリ・モッサファ)とマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)がメインの話かと思ったら、エンディングではサミール(タハール・ラヒム)とその妻の場面に落ち着く。アーマドはこの物語においてはほぼ部外者の域を出ない。

 話の中心にあるのはサミールの妻が起こした自殺未遂の謎だ。妻はこれによって植物状態になった。なぜ妻は自殺を図ったのか。これがマリー=アンヌの家族にさまざまな軋みを生むことになっている。アスガー・ファルハディの映画の特徴はミステリーを絡めていることだが、見ながら思い浮かべたのはアンドリュー・ガーヴ「ヒルダよ眠れ」で、この小説のように妻がどんな人間だったかに迫っていく場面があっても良かったと思う。

 と、ここまで書いてよくよく考えたら、この映画で描かれる家族と男女関係の不幸の原因はすべてマリー=アンヌにあると思えてきた。最初の夫とは2人の娘がいるのに別れ、次の夫(つまりアーマド)とも別れる(別れの原因は明らかにされない)。再々婚を予定しているサミールの妻は夫の浮気に気づいて自殺未遂する。ここでファルハディは皮肉な設定を用意していて、二転三転する真相がいかにもミステリーっぽい。マリー=アンヌはヒステリックに叫んだり喚いたり、被害者のような振る舞いをするが、過去から連なる不幸の原因の多くは自分自身にあることを少しも分かっていないのだ。

 だから、この物語はマリー=アンヌの人間性を鋭く浮き彫りにする方向で組み立てるべきだった。この映画でヒルダに相当するのは自殺未遂の妻ではなく、マリー=アンヌにほかならない。それなのに、こういう構成になったのはきっと、ファルハディが女性に優しいためだろう。

 「さむけ」や「ウィチャリー家の女」のロス・マクドナルドだったら、もっと厳しい展開にしてこう書いたに違いない。「マリー=アンヌ、おまえにはもう何も残されていないんだよ」。