2014/06/08(日)「ある過去の行方」

 過去といってもそんなに過去じゃない。過去と銘打つからには10年、20年は過去であってほしい。脚本の作りとして面白いのは主人公が誰だか判然としないことで、最初に出てくるアーマド(アリ・モッサファ)とマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)がメインの話かと思ったら、エンディングではサミール(タハール・ラヒム)とその妻の場面に落ち着く。アーマドはこの物語においてはほぼ部外者の域を出ない。

 話の中心にあるのはサミールの妻が起こした自殺未遂の謎だ。妻はこれによって植物状態になった。なぜ妻は自殺を図ったのか。これがマリー=アンヌの家族にさまざまな軋みを生むことになっている。アスガー・ファルハディの映画の特徴はミステリーを絡めていることだが、見ながら思い浮かべたのはアンドリュー・ガーヴ「ヒルダよ眠れ」で、この小説のように妻がどんな人間だったかに迫っていく場面があっても良かったと思う。

 と、ここまで書いてよくよく考えたら、この映画で描かれる家族と男女関係の不幸の原因はすべてマリー=アンヌにあると思えてきた。最初の夫とは2人の娘がいるのに別れ、次の夫(つまりアーマド)とも別れる(別れの原因は明らかにされない)。再々婚を予定しているサミールの妻は夫の浮気に気づいて自殺未遂する。ここでファルハディは皮肉な設定を用意していて、二転三転する真相がいかにもミステリーっぽい。マリー=アンヌはヒステリックに叫んだり喚いたり、被害者のような振る舞いをするが、過去から連なる不幸の原因の多くは自分自身にあることを少しも分かっていないのだ。

 だから、この物語はマリー=アンヌの人間性を鋭く浮き彫りにする方向で組み立てるべきだった。この映画でヒルダに相当するのは自殺未遂の妻ではなく、マリー=アンヌにほかならない。それなのに、こういう構成になったのはきっと、ファルハディが女性に優しいためだろう。

 「さむけ」や「ウィチャリー家の女」のロス・マクドナルドだったら、もっと厳しい展開にしてこう書いたに違いない。「マリー=アンヌ、おまえにはもう何も残されていないんだよ」。