2011/08/15(月)「恐怖」

 頭皮を剥ぎ、頭蓋骨を切り開いて脳の側頭葉シルビウス裂に電極を差し込む。そこで被験者は何を見るのか。その興味に突き動かされた脳科学研究者の太田悦子(片平なぎさ)とそれに巻き込まれる姉妹(中村ゆり、藤井美菜)を巡るホラー。

 「リング」の脚本家・高橋洋の監督作品でプロデューサー一瀬隆重による「Jホラーシアター」レーベルの最終作。ここで描かれるのは黒沢清「回路」と同種の恐怖だ。「回路」の場合は幽霊が現実世界を侵蝕してきたが、ここでは異界そのものが侵蝕してくる。ただし、スケールは「回路」の方が大きい。この映画で侵蝕の対象となるのは死の世界に気づいた(興味を持った)人間だけだからだ。「

 回路」が破滅SFに発展していったのに対して、この映画がホラーの域にとどまっているのはこのスケール感の違いによる。だからダメだと言っているわけではない。ホラーというのはそういう狭い範囲を描くものだからだ。恐怖の対象の描き方があいまいなので、あまり怖くはないのだが、こういう描き方嫌いではない。怪異の正体を見せた途端にシラケる映画よりはよほど良い。

2011/08/09(火)「裸の島」

 離れた島から手こぎの小舟でくんできた水を入れた2つの桶を天秤棒にかついで、乙羽信子が島の斜面を登る。家族4人で暮らす小さな島のてっぺんの畑に水を撒くためだ。同時に水は飲み水でもある。華奢な乙羽信子が慎重に一歩一歩進む姿を見ていると、いつか転ぶのではないかと思えてくる。案の定、乙羽信子は転び、桶を倒して貴重な水をこぼしてしまう。夫の殿山泰司はそれを見て駆け寄り、平手打ちをする。命をつなぐ水を無駄にするとは何事だ。島での生活はそれほど過酷なのである。

 水をこぼす場面は終盤に別の形で繰り返される。たいていの人はここで胸を締め付けられる思いになるはずだ。あらためて語るまでもない名作で、1961年のモスクワ国際映画祭グランプリ。セリフは一切ない。黙々と水を運ぶ2人を見て、「愛と宿命の泉」のジェラール・ド・パルデューを思い出した。

 「裸の島」は6月初めにNHK-BSで放映されたが、わずか2カ月で12日にまた放映される。そんなにリクエストが多かったのかと思ったら、夫婦が桶で水を運ぶシーンが新藤兼人の新作「一枚のハガキ」にもあるためのようだ。99歳の新藤兼人が「人生最後の映画」としている作品。これまでの集大成的な作品になることは想像にかたくない。13日から全国公開されるので、それに合わせた放映なのだろう。

2011/08/01(月)「コクリコ坂から」

 劇中のテレビから流れる「上を向いて歩こう」を聞いて、「坂本九って、こんなに澄んだ歌声だったっけ」と思った。テレビ、ラジオで何度も何度も聞いた曲だが、自分の記憶より澄んだ歌声に聞こえたのは、たぶん、わが家のスピーカーがチープだったためもあるのだろう。映画はそんな坂本九の歌声と同じように澄んだ心を持つ登場人物たちによって語られる。

 1963年の横浜が舞台。高校生の海(長澤まさみ)は坂の上にある下宿屋コクリコ荘を切り盛りしながら、毎朝、沖合を航行する船に向かって旗を揚げる。それは朝鮮戦争で亡くなった船乗りの父親の思い出とつながっている。ある日、船からその旗に返礼があった。海と同じ高校に通う俊(岡田准一)が揚げた旗だった。海と俊にはお互いに恋心が芽生えるが、2人は兄妹ではないのかという疑いが出てくる。

 東京の風景が大きく変わったのは1964年の東京オリンピックからと言われる。映画の1963年という時代は古いものが消え去りつつある時代を表している。後半に出てくる東京の風景は戦後の匂いが残り、まだ人の多い田舎という感じである。部活動の部室が多数入った建物カルチェラタンを取り壊すという学校の方針に対して、反対集会で俊は叫ぶ。「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てるのと同じじゃないのか。人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか」。この言葉は時代の空気と密接につながっている。時代と人物が絶妙にマッチし、郷愁と情感のこもった佳作に仕上がっている。

 パンフレットに収録された宮崎駿の「企画のための覚書」にはこの映画の重要なエッセンスが詰まっている。「『コクリコ坂から』は人を恋(こ)うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならない。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切り抜けねばならない。それをてらわずに描きたい」。映画はこの通りの印象だ。この覚書に沿って、宮崎吾朗は映画化を進めたのだろう。

 しかし、それだけではない。パンフレットの言葉によれば、宮崎吾朗はこの映画で生まれて初めて「必死になった」のだという。宮崎吾朗は登場人物と同じように作品にまっすぐに取り組んだ。その必死さが作品を想像以上のものにしたのだろう。観客の胸を揺さぶる作品を作るにはそうした姿勢が必要なのだと思う。

 アニメーションの原初的な魅力にあふれた昨年の米林宏昌「借りぐらしのアリエッティ」とは違ったアプローチで宮崎吾朗は映画を完成させ、「ゲド戦記」の汚名を返上した。

2011/07/25(月)「大鹿村騒動記」

 幼なじみと駆け落ちした妻が18年ぶりに村に帰ってくる。しかも認知症になっていて、幼なじみは妻を「返す」と言う。折しも村では300年の伝統がある大鹿歌舞伎の公演が迫っていた。というシチュエーションは面白く見たが、話がやや深みに欠けるきらいがある。認知症も歌舞伎もどうも描き方に突っ込みが足りないのだ。原田芳雄の遺作として記憶される作品か。

2011/07/21(木)「BOX 袴田事件 命とは」

 1966年に静岡県で起きた袴田事件を描く高橋伴明監督作品。長時間の過酷な取り調べによって自白を強要し、証拠をでっち上げる警察の捜査もデタラメなら、無罪を訴える裁判官の意見を封じ、多数決で判決を決める裁判所もデタラメ。信じられないほどのこのデタラメさが袴田巌死刑囚を40年以上も拘置所に閉じ込め続ける結果になった。最高裁が再審請求を認めないのは自分たちの過去の間違いを認めたくないためか。袴田死刑囚は死刑確定後、拘禁反応によって精神状態に変調を来しているという。そういう状態に至らしめた司法の責任はとてつもなく重い。見ていて怒りが沸々とわき上がってくる映画である。

 映画は2007年に「無罪であるとの確証を持ちながら、死刑判決を書いた」と告白した当時の主任裁判官・熊本典道を中心に描く。熊本を演じるのは萩原聖人、袴田死刑囚を演じるのは新井浩文。熊本は判決後、裁判官を退職し、袴田の支援に回る。映画としてはそうした熊本の苦悩の部分を余計に感じる。もっと硬質のドキュメントタッチに徹した方が良かっただろう。そうしたことが影響したのか、キネ旬ベストテンでは33位に終わっている。

 しかし、こうした映画は作ることに意味がある。高橋伴明は明確にえん罪事件であるとの主張を前面に出し、現在もまだ拘置所に閉じ込められたままの袴田死刑囚の不当な扱いを浮き彫りにしている。主張にぶれがないのが良い。進行中の事件なのだから、この映画の意義はとても大きい。

 BOXとは袴田死刑囚が元プロボクサーであることと、閉じ込めるという意味をかけてあるそうだ。それに加えて、エンドタイトルではBOXのOXを○(無罪)か×(有罪)かの意味で表現している。それにしても、まだどうなるか分からないが、東電OL殺害事件の急展開を見ると、こうした司法のあり方、今もあまり変わっていないのかと思える。