2000/11/15(水)「漂流街」
馳星周の原作を絶好調の三池崇史が監督した。実は三池作品を見るのは初めて。破天荒と言われる作風の評判は聞いていたから、冒頭のどう見てもアメリカの風景にしか見えない場所に“埼玉県”と字幕が出ても驚かない。
新宿を舞台にチャイニーズ・マフィアとヤクザと日系ブラジル人が入り乱れる多国籍アクションで、原作は読んでいないが、雰囲気はちょっと違うように思える。原作通りに映画化することなど三池監督は考えていないだろうから、それは別に構わない。主役のTEAH(テア)、ヒロインのミシェル・リーをはじめ吉川晃司、及川光博などいい面構えの役者がそろっている。ハードさとハチャメチャさが入り交じり、それなりのエネルギーは感じる。しかし、僕にはピンとこなかった。
スカウトされて映画デビューのTEAHはクライマックス、殴り込みをかける前の興奮と怒りを発散させる場面など実にいいのだけれど、ストーリーが、どうも普通のヤクザ映画と変わり映えがしないのである。馳星周の作品は暗い情念が魅力なのだが、それがないとなると、ちょっと苦しい。ビジュアルな面でも特筆すべき部分はあまりない。僕はなんとなく北野武の映画を思い出した。
CGを使った闘鶏の場面で原作者と映画評論家の塩田時敏が出ているのには笑った。塩田時敏、なかなか好演している。
2000/11/15(水)「チャーリーズ・エンジェル」
劇中、登場人物の一人が飛行機の中で上映される映画「アダム30 THE MOVIE」(もちろん架空)を観て、「またテレビ番組の映画化か」と言う場面からクスクスである。この映画、半分冗談のような作りでユーモアとお色気、アクションが満載されている。24年前のテレビシリーズをリアルタイムで観ている者としてはあのメロディが流れるだけで懐かしくなってしまうが、テレビシリーズよりもずっと面白いことは保証しておく。
驚嘆すべきはアクションでキャメロン・ディアスもドリュー・バリモアもルーシー・リュウも凄い凄い。ディアスのすらりとした足が繰り出すキックの破壊力と動きの鋭さはもう本当のアクション女優さながら。ディアスの本質はコメディよりもアクションにあるのではないかと思わせるぐらいなのである。「マトリックス」を彷彿させるアクションを指導したのはユエン・チョンヤン。「マトリックス」のアクションを監修したユエン・ウーピンの弟だそうだ。
このアクションに加えてセクシーな場面もうれしい。相変わらず美しいバリモア(プロデューサーも兼ねている)とディアスのサービスには圧倒される。上は狙わないけれど、1時間40分たっぷり楽しませてあげますよ、という製作側の考え方がはっきり分かる出来である。
惜しいのはストーリーテリングがややぎこちないこと。CM監督でこれが映画デビューのMcG(マックジー)はビジュアルな面では申し分ないにしても、話の進め方にやや難があった。しかし気分良く見られる軽いエンタテインメントであることは間違いなく、僕は十分楽しんだ。続編を期待したい。
2000/11/08(水)「スペース カウボーイ」
40年前、宇宙飛行士への夢を断たれた4人の男たちが、ロシアの通信衛星落下をくい止めるため、再び宇宙を目指す。前半はNASAから依頼を受けたクリント・イーストウッドがかつての仲間ダイダロスの3人を一人一人訪ねる。「七人の侍」風の描写で、ここから訓練を受けるまでがちょっと単調。しかし、宇宙に行ってからの描写はSFファンなら堪能するだろう。
NASAはとにかく宇宙空間の資料は大量に持っているわけで、ここをクライマックスの舞台にしたのが成功の理由。スペースシャトルや衛星、無重力の描写など非常にリアルだ。衛星とシャトルが衝突する場面の質感も素晴らしい。火星に降りてから腰砕けになった「ミッション・トゥ・マーズ」も宇宙空間の描写は際だっていたのだから、NASAの力はやはり大したものだと思う。
宇宙空間を舞台にしていてもこれはSFではなく現実のすぐ隣にある話。後半に用意される通信衛星の秘密(これが明らかになる場面は迫力がある)はスパイアクション風である。設定にはちょっと無理があるけれど、イーストウッドの映画だから別に気にしない。極大から極小へとアクロバティックなカメラワークが披露されるラストと、そこにかぶさる「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の使い方は微笑ましい。
2000/11/01(水)「ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々」
前作は見ていない。エディ・マーフィーが何役も演じることで話題になった映画だが、今回も1人9役。そんな必要がありますか。頬がひきつるような下品さにも閉口。笑いを取る場面がほとんど下ネタという酷さである。こういうので笑える感性にはついていけない。
前作は痩せ薬だったが、今回は若返りの薬をクランプ教授が発明する。これと並行してクランプ教授の悪い遺伝子を分離したことによる騒動がスラップスティックで描かれる。悪い遺伝子は犬の毛と組合わさってもう一人のクランプ、バディ・ラブが出現してしまうのだ。分離したことによる悪影響もあり、クランプの知能は徐々に低下していく。ここで自分の知能を確かめるためにネズミと迷路の競争をするというのは「アルジャーノンに花束を」からの引用だ。
SF的設定を生かし切れていない脚本にも問題はあるものの、まあ、ピーター・シーガルの演出の未熟さによるものだろう。描写のまずさが目立ち、エディ・マーフィーの演技も僕には濃すぎるように感じた。
良かったのはジャネット・ジャクソンが歌う「ダズント・リアリー・マター」。この映画の主題歌だったんですね。
2000/10/25(水)「五条霊戦記」
後の源義経である遮那王(浅野忠信)が高僧の阿闍梨(勅使河原三郎)を一刀両断する場面を見るまで、僕はこの映画を従来の弁慶と牛若丸の話と信じて疑わなかった。だから前半がかったるかった。どうせ、君らは今は対立していてもすぐに仲間になるんでしょうが、と思っていたのだ。しかし、映画は両親を殺され鬼となった遮那王と、お告げで鬼を倒すことに全精力を傾ける弁慶(隆大介)の対決をクライマックスに持ってくる。この2人は決して仲間にも主人と臣下の関係にもならず、対決すべき好敵手としてのみ描かれるのだった。
そしてここでは、はっきりと遮那王は悪である。それを討とうとする平家も悪で、弁慶のみが乱れた世を救う善を体現しているのだった。アイデアは悪くないと思う。だが、映画化の技術が伴っていない。殺陣の見せ方、キャラクターの描き分け、画面の構成などに雑な部分が目に付く。陰々滅々とした一本調子の話は鬱陶しく、おまけに2時間17分は長すぎる。
快作「さくや妖怪伝」の対極にある重い作りは残念だ。2人の対決を見届ける鉄吉(永瀬正敏)の使い方が一つのポイントだったように思う。もっとこの人物を軽妙に演出していれば、何とかなったかも知れない。石井聰亙監督に必要なのはそうした軽妙な演出なのだろう。