2013/09/22(日)「アルゴ」
なるほど、これはアカデミーが作品賞をあげたくなるのがよーく分かる。ハリウッドの映画人がすごく魅力的に見えるのだ。イランの米国大使館にイラン国民が殺到する緊張感あふれる場面から一転、メイクアップアーティストのジョン・チェンバース役ジョン・グッドマンが登場すると、画面の雰囲気ががらりと変わる。フェイク臭が立ちこめて、これはコメディかと思えてくる。プロデューサー役のアラン・アーキンとグッドマン、実に儲け役だ。映画が成功したのはこの2人の起用も大きい。ラストにはジャック・ニコルソンまでカメオ出演していて、映画人ならびに映画ファンなら喜ばないわけがない。
サスペンス映画としては普通の出来だと思うが、このハリウッドパートの描写が好ましく、作品に緩急のアクセントが生まれた。これを緩急自在の演出と言ってよいかどうかは分からないが、ベン・アフレック監督、隙のない作品に仕上げている。次作に予定されているデニス・ルヘインの大傑作「夜に生きる」もこの調子で演出してくれれば、十分に期待できるのではないかと思う。
2013/09/16(月)「嘆きのピエタ」
久しぶりのキム・ギドク。3年間の隠遁生活に入る前のギドク作品は鮮烈な描写と異様なシチュエーションに比べて思想的背景が薄弱と感じることが多かった。ここまで引っ張ってきて、結論はそれだけかと思わされることが多かったのである。隠遁生活を経てギドクは変わったのか?
結論から言えば、ギドクは変わっていない。3年ぐらいで人間、劇的に変わることなんてあり得ないのだ。ただ、今回はミステリー的趣向がうまくいっている。優れたミステリーとつまらないミステリーを分けるのは謎が解けた後に何を描くかだと思う。謎が解けてめでたしめでたしだけで終わるミステリーにろくなものはない。この映画では母子の愛情や絆、人間性といったテーマがずっしりと描かれる。
赤ん坊の頃に母親に捨てられて一人で生きてきた主人公のガンド(イ・ジョンジン)は利子が10倍というヤミ金の取り立て屋。借金を返せない場合は手を切断したり、足を折って障害者にして保険金を受け取る。非人間的であくどいやり口だ。そんなガンドの前にある日、母親と名乗るミソン(チョ・ミンス)が現れる。「捨ててごめんなさい」と謝るミソンを最初、疑っていたガンドは初めて味わう肉親の情に徐々に変わり、ミソンを「母さん」と呼んで、笑顔を見せるようになる。
もちろん、ギドク作品がこれだけで終わるわけはない。終盤にさしかかるところで映画はネタをばらし、悲痛で不幸で重たいラストに突き進んでいく。しかし、それにもかかわらず、この映画、救いがある。ガンドは決して不幸なままじゃない。母子の愛情を感じさせ、人間性を取り戻すことの意味を映画は静かに訴える。
ヤミ金から借金しているのは韓国の高度成長から取り残されたような寂れた町工場の主人たち。この寂れた風景と金に困った人たちの姿が印象に残る。パンフレットのインタビューでギドクはこう語っている。「韓国社会では名誉や権力、外見などさまざまなことが金銭で解決されることがあります。しかし金銭によって傷つけられる人間も多い。それを『嘆きのピエタ』で描いてみたかったのです。……韓国だけでなく世界中の多くの国が抱えている資本主義の犠牲、つまり経済的な理由で人々が傷つけられているという現実に対するこの映画のメッセージを、(ベネチア映画祭の)審査員が読み取ってくれたのだと思いました」。
ギドクの言う通り、それがベネチア映画祭金獅子賞の要因として強く働いたのだと思う。そうした部分の普遍性がこの映画の力強さの根源にある。
2013/09/15(日)「逆転裁判」
三池崇史監督でゲームが原作。主人公の神尾型とか名前とか漫画のよう。なるほど(成歩堂龍一=成宮寛貴)とか、まよい(綾里真宵=桐谷美玲)、やはり(矢張政志=中尾明慶)とか。桐谷美玲が意外に良い。タイトル通りの逆転があるのは当たり前だが、ミステリファンの目から見ると、ゲームと漫画が原作なのでリアルになりようがないが、真犯人捜しの作りはもはや古い。いや、映画の手法自体は新しいんですけどね。
2013/08/16(金)「遊星からの物体X ファーストコンタクト」
VFXのレベルが29年前のジョン・カーペンター版と同レベル。この間の進歩はなかったのかと少し情けなくもなるが、カーペンター版の前日談なので「整合性を取るため」という理屈は通る。ただ、誰がエイリアンなのか分からないという疑心暗鬼の展開まで同じにすることはなかった。全然別の展開を考えても良かったのではないか。ヒロイン役のメアリー・エリザベス・ウィンステッドのみ光る。
原題がカーペンター版と同じ「The Thing」なのはまぎらわしい。続編を作る意図もあったらしい。
2013/08/11(日)「さよなら渓谷」
モスクワ国際映画祭審査員特別賞受賞。真木よう子が凄い。真木よう子はどの映画でも目立つが、この映画では真意が分かりにくく、振幅の大きなキャラクターに実在感を与えている。映画が見応えのある作品に仕上がったのは真木よう子の力によるところが大きいと思える。
映画を観た後に吉田修一の原作を読んだ。230ページ余り。すぐに読める。映画は忠実に作られていて、ラストまで同じだが、中盤にある主人公の男女(大西信満、真木よう子)の道行きとも思えるあてのない旅を原作以上に詳しく描いている。男女の素性が何なのかということよりも、なぜこの男女は一緒に暮らしているのかが重要なポイントなので、これは納得できる力点の置き方だと思う。
原作の解説で柳町光男が「サイコ」を引き合いに出している。脇道から始まって本筋になだれ込む作りの類似性を指してのことだ。こういう作りだからこの映画、一切の予備知識なしで見た方がいい。中盤に明かされるネタを平気で書いている紹介などは野蛮な行為と言うほかない。と思ったら、吉田修一自身がパンフレットのインタビューでネタばらしをしていた。その先にあるものがポイントだからだろうが、何も知らずに見るのに越したことはない。
原作は実際にあった2つの事件がモデル。現時点では既にどちらも記憶から風化した事件なので、あくまで吉田修一の小説のきっかけになっただけと位置づけて良いだろう。実際にあった事件をモデルにしながら、原作と映画が描くのは実際にはありそうにない男女の関係に説得力を持たせるところにある。そしてそれはうまくいっている。この男女の関係はまだ途上なのだが、映画は事件を取材する週刊誌記者(大森南朋)と妻(鶴田真由)の壊れかかった関係に修復をほのめかせることで、主演の男女の行く末に同じ思いを託しているようだ。
弱々しさと強気と憎しみと愛を織り交ぜた真木よう子とそれを静かに受け止める大西信満の演技がこの映画の見どころだ。同じ吉田修一原作の「悪人」の主人公2人の切実さに僕は惹かれたが、この映画の男女も切実な関係にある。