2004/09/25(土)「アイ,ロボット」
昨日見た。「ダークシティ」のアレックス・プロヤス監督がアイザック・アシモフのロボットシリーズにインスパイアされて撮ったSF。ジェフ・ヴィンターの“Hardwired”という脚本が基になっており、これにアシモフの「われはロボット」や「鋼鉄都市」などを組み合わせたという。ロボットが犯人とみられる殺人事件によって始まり、ロボット工学三原則をメインにしたプロットから、アクションたっぷりのスケールの大きな話に展開していく。この脚本の完成度が高い。知的なプロットであるばかりでなく、ミステリとしても良くできており、しかも大衆向けの視線をずらしていないので、同じような展開を見せた押井守「イノセンス」より分かりやすい。ロボットのVFXはレベルが高いし、ロボットを嫌悪する主人公のキャラクターも彫りの深いものになっている。しっかりしたSFになっている点でここ数年のSF映画では最も充実感があり、数少ないロボットテーマのSF映画に限れば、スピルバーグ「A.I.」など軽く越えてこれがベストだろう。
三原則とは言うまでもなく、
1.ロボットは人間に危害を加えてはならない
2.ロボットは人間から与えられた命令に服従しなければならない
3.ロボットは第1条、第2条に反する恐れのない限り、自分を守らなければならない
の3項である(ポール・バーホーベン「ロボコップ」では独自のものに置き換えて使ってあった)。アシモフの小説ではこれに矛盾する状況が現出し、ミステリ的に展開されることが多い。アシモフはミステリ方面でも評価の高い作家で、「黒後家蜘蛛の会」シリーズなど非SFのミステリもある。
「アイ,ロボット」も三原則との矛盾が発端となる。2035年のシカゴ、ロボット工学の権威であるラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)がビルから転落死する。博士の死の状況から刑事のスプーナー(ウィル・スミス)は他殺を疑う。その第一容疑者がUSロボティクス(USR)社の新型ロボットNS-5のサニーだった。サニーは逃走するが、警察によって署に連行される。スプーナーの尋問に対し、サニーはロボットが持つはずのない怒りの感情を見せた。サニーはラニング博士によって感情回路をインプットされたユニークな存在らしい。警察はサニーの犯行と断定。しかし、ロボットに殺人罪は適用されないと主張するUSR社の社長ロバートソン(ブルース・グリーンウッド)によって、社に連れ帰られ、廃棄処分を受けることになる。USR社はそれまでのNS-4型に代わって、NS-5型の量産を進めていた。世界中に2億体のNS-5が送り込まれていく。スプーナーはNS-4型のロボットが格納された地域で、NS-5がNS-4を破壊している光景を見る。そして大量のNS-5たちが人間に対して反乱を起こし始める。
三原則があるのに、なぜサニーは博士を殺せたのか、なぜ博士はサニーをユニークな存在にしたのか、なぜロボットたちは反乱を起こしたのか、その背後にいるのは誰なのかという謎を散りばめつつ、ストーリーは進行する。加えて、主人公スプーナーにも三原則を頑固に守ったロボットに絡む哀しい過去がある。スプーナーはロボットを毛嫌いし、アナログな生活を送っている男なのである。さまざまな状況をタイトにまとめ、ユーモアを織り込みつつ映画を作り上げたプロヤスの演出は見事で、つくづくSFを分かっている監督だなと思う。
プロヤスは「アイ,ロボット」に飽きたらず、純粋なアシモフ作品を映画化したい希望を持っているそうだ。それならば、同じロボットシリーズで、人は本能的に宇宙を目指すものだという力強い主張に彩られた傑作「はだかの太陽」をぜひぜひ映画化してほしいと思う。
2004/09/17(金)「バイオハザードII アポカリプス」
前作のラスト、目覚めたアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が荒れ果てた街を目にする場面から始まるのかと思ったら、映画はそれより少し前、アンブレラ社の地下研究所ハイブに完全装備の特殊部隊が入っていくところから始まる。案の定、それによってアンデッド(ゾンビ)たちが地上にあふれ出てきて、ラクーンシティはパニック状態、人々は次々にアンデッドになっていく。そこでアリスが目覚める場面へとつながる。アリスが目覚めた理由は実は、というのが映画の中心主題で、今回はアンデッドは少し背景に退き、アンブレラ社が行っていたT-ウィルスの研究とそれによって生まれたモンスター、その目的が明らかになっていく。前作よりSF度は増しており、これはゾンビ映画というよりもSFアクション。B級テイストたっぷりの出来の良いノンストップアクションである。
ポール・W・S・アンダーソンからバトンタッチした監督デビューのアレクサンダー・ウィットはスピーディーな演出で物語を語っていく。その反動か、喜怒哀楽の感情描写はどこかに置き忘れたようだが、アクション中心なのだから、それほどの不満は感じない。ビジュアルな題材をビジュアルに撮ることに徹して、ウィットは十分な演出を見せている。
前作はアンデッドに汚染されたハイブからの脱出を描くサバイバルものだったが、今回も核兵器によって消滅させられるラクーンシティからの脱出がメインプロットとなる。アリスやバレンタインたちはT-ウィルスを開発したアシュフォード博士(ジャレッド・ハリス)の依頼で、脱出路を教えてもらう代わりにシティで行方不明となった娘アンジェラ(ソフィー・ヴァヴァサー)を助けることになる。シティにはアンデッドのほか、T-ウィルスに感染してモンスター化した犬ケルベロスや生物兵器のネメシスがアリスたちの前に立ちはだかる。果たしてアリスたちは脱出できるのか。
SF度を増したのはアリスの設定で、前作では普通の人間だったが、今回は超常能力を持つスーパーヒロインとなっている。この能力を得た秘密が物語と関わっており、ネメシスの正体もまたそうである。腕のある監督なら、このあたりの悲劇性をもっと前面に出したはずで、その点がウィット演出の弱いところではある。また、アクション場面でカットを割りすぎるきらいがある。ジョヴォヴィッチにハードアクションが(たぶん)できないのだろうが、もっとじっくり見せてくれと言いたくなる。
注目すべきは今回初登場のジル・バレンタイン役シエンナ・ギロリーの抜群のカッコよさ。ゲームからそのまま出てきたような髪型、スタイル、コスチューム、身のこなしでアクションをこなし、ジョヴォヴィッチに負けない魅力を放つ(「ラブ・アクチュアリー」にも出ているそうだ)。この2人、ともにいかつい顔つきが似ていて、ひたすらクール。この2人が出るのなら、当然作られるであろう3作目にも期待を抱かせる。
2004/09/16(木)「ヴィレッジ」
「僕が恐ろしいのは君が危険な目に遭うことだ。だから、今このポーチにいる」。中盤、主人公のルシアス(ホアキン・フェニックス)がアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)に話す。村を外界と隔てる森には得体の知れない魔物が住んでいると言われる。その魔物から守るためにルシアスはアイヴィーの家のポーチで寝ずの番をしていたのだ。M・ナイト・シャマラン監督が初めて恋愛映画的要素を取り入れたというこのルシアスとアイヴィーの描写がいい。秘めた思いを表面に出さない奥ゆかしさというのはアメリカ映画では新鮮である。この後、ルシアスはアイヴィーに促されて結婚を申し込むことになる。そしてそれが悲劇を生む。本筋とはあまり関係のないこの2人の描写に感心した。シャマランは描写がうまいと思う。
「ホラーの装いをまとってはいるが、プロットは純然たるミステリ」とシャマランの出世作「シックス・センス」(1999年)の映画評に書いたのだけれど、それと同じことがこの「ヴィレッジ」にも当てはまる。予告編ではホラーのパッケージングが施されていたが、これはミステリ以外の何物でもない。「アンブレイカブル」(2000年)を見た時、僕はシャマランをSFの人と思ったが、それは勘違いで、SF的設定を強化した前作「サイン」(2002年)のバカバカしさによって、シャマランはSFに理解がないことを露呈してしまった。それが本来の得意なジャンルに戻ったら、破綻のない映画が出来上がった。これを見て「騙された」とか「ラストでがっかりした」と怒る人は本格ミステリとは一生縁がない人である。
映画は葬儀の場面で始まる。死んだのは子どもで、墓石に刻まれた文字から時代が19世紀末と分かる。ペンシルベニア州のその小さな村には60人ほどが住んでいる。村人たちは近くにある町を汚れた場所と信じて、外とは交流を断った生活をしていた。しかも町へ続く森の中には何か凶暴な魔物がいると言われている。魔物は村人が森に入らない限り、襲ってくることはない。主人公のルシアスは外界への好奇心を持ち、ある日、森の中に入る。その晩、村を魔物が襲い、家畜が犠牲になった。ルシアスは盲目のアイヴィーを密かに愛していた。ミステリの性格上、詳しく書くのは避けるが、この後、事件に巻き込まれて重傷を負ったルシアスを助けるため、アイヴィーは町へ薬を取りに行こうと、禁断の森に入ることになる。
ネットに氾濫するネタバレ感想によって、大まかなネタは知っていた。ネタの盗用問題が云々されているのも知っていた。だから僕がこの映画に臨む姿勢には「貶してやろう」とのバイアスがかかっていた。そのネタが成立するには、どうしても回避すべきことがあるのだ。しかし、それは映画の終盤、いつものようにゲスト出演しているシャマラン自身の言葉によって、ちゃんと説明された。なるほどね。そこまで気を遣っているなら、これは褒めるべき映画でしょう。傑作と胸を張るほどの作品ではないし、小味ではあるけれど、きちんとまとまったミステリだと思う。
ネタの盗用に関しては、僕は元ネタの映画を見ていないので何とも言えない。ただ、その元ネタの作品よりもこちらの方が面白いのではないかと思う。ミステリに関しては何を語るかよりも、どう語るかが重要な場合もある。過去にあったトリックを上手に再利用することは悪いことではない(知らないふりをして盗用するのはもちろん非難されるべきことだが、黒沢明だって「用心棒」で「血の収穫」のプロットを借りているのだ)。付け加えれば、シャマランは「刑事ジョン・ブック 目撃者」あたりもヒントにしたのではないかと思う。
アイヴィーを演じるブライス・ダラス・ハワードはロン・ハワードの娘という。途中から実質的な主人公となるハワードはこの映画の魅力の一つでもある。このほか、シガニー・ウィーバーやウィリアム・ハートも村の年長者を過不足なく演じている。「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディは本来的にはこの映画のような役柄が合っているのだろう。
2004/09/10(金)「ヴァン・ヘルシング」
「ハムナプトラ」シリーズのスティーブン・ソマーズ監督がドラキュラの好敵手ヴァン・ヘルシングを主人公にしたホラーアクション。本来のヴァン・ヘルシングは教授のはずだが、この映画ではヴァチカンの指令でモンスター退治に動く007のような存在。ちゃんと秘密兵器も持っている。ジキルとハイドやフランケンシュタインのモンスター、狼男も登場するが、メインの敵はやはりドラキュラ。これまでのドラキュラ映画を多少スケールアップし、「エイリアン」風の描写を取り入れただけで、目新しさには欠け、これ以外に話の作り方はなかったのかと思えてくる。同じく多数のモンスターを登場させた昨年の「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」同様、出来の方は芳しくない。
主人公ヘルシングを演じるのはヒュー・ジャックマン。これに協力するのが、「アンダーワールド」で狼男と戦う女吸血鬼の戦士をカッコよく演じたケイト・ベッキンセールである。ベッキンセール、同じようなタイプの映画に出ることに抵抗はなかったのだろうか。
映画はフランケンシュタイン博士がモンスターの創造に成功するモノクロ場面から始まる。「It's Alive!」と叫ぶフランケンシュタイン博士がいかにもな感じである。研究に資金協力しているのがドラキュラ(リチャード・ロクスバーグ)で、その研究を盗み、モンスターを連れ去ろうとするが、モンスターは逃げ出し、村人に追われて風車小屋の中で火に包まれる。1年後、舞台はパリ。ヴァン・ヘルシングが凶暴なハイドを苦労の末倒す。ヘルシングはヴァチカンの命令で邪悪な存在を倒しているのだが、モンスターが死ぬ時は人間の姿になるため、世間からは人殺しと思われているという設定。ダークなヒーローなのである。ヴァチカンに戻ったヘルシングに新たな指令が下る。トランシルバニアでドラキュラと長年対決してきたヴァレリアス一族のヴェルカン(ウィル・ケンプ)とアナ(ベッキンセール)に協力して、ドラキュラを倒す任務だった。そのころ、ヴェルカンは狼男と戦い、崖の下に落ちてしまう。船と馬を乗り継いで、トランシルバニアにやってきたヘルシングと助手の修道僧カール(デヴィッド・ウェンハム)は、いきなりドラキュラの花嫁の女吸血鬼たちに襲われる。女吸血鬼はアナを狙っていた。ヘルシングとアナは協力し、ドラキュラ打倒を目指すことになるが、ヴェルカンが狼男になっていたことが分かる。
話のポイントはドラキュラがなぜフランケンシュタインの研究を必要にしていたのか、というところにある。これはまずまずのアイデアだが、ここでVFXが炸裂すべきところなのに、冒頭から連続してVFXを見せられると、クライマックスあたりで、飽きてくるのである。その意味でメリハリがないというか、演出が一本調子なところがある。ドラマティックな盛り上がりがなく、ヘルシングのキャラクター描写も通り一遍という感じである。ラストの処理も何か勘違いしているとしか思えない。VFXは充実しているのに、なぜこの程度の出来に終わるのか。ソマーズの捲土重来を期待したいところだ。
2004/09/03(金)「LOVERS」
「石井のおとうさんありがとう」とか「忍者ハットリくん The Movie」など、どこか壊れた映画を見た後ではチャン・イーモウ演出は一級品に見える。映画はこう撮るんだよ、という見本みたいに美しい場面が多い。当たり前のことだが、映画はショットの積み重ねなのであって、この映画のようにワンショット、ワンショットを計算し尽くして撮るのが本来的な在り方なのだろう。最近、それをないがしろにした映画が多すぎるのだ。
序盤にあるチャン・ツィイーの華麗な舞踊から始まって、竹林や平原で繰り広げられるアクション場面がどれもこれも素晴らしい。この美しく極めて映画的な映像で描かれる話が結局、三角関係に収斂していくことには不満もあるのだが、「十面埋伏」(四方八方に伏兵がいるという意味)というアクション映画的な原題を海外用として「LOVERS」というタイトルにしたのだから、これは恋人たちの話であっても別にかまわないわけである。たっぷり見せてくれるチャン・ツィイーの美しさと金城武のいい男ぶりに比べて、「3年間思い続けてきたのに」と恩着せがましく言うアンディ・ラウがしつこい中年おやじみたいにしか見えないのはかわいそうなのだけれど、キャラクターの心情を繊細に微妙な部分まで演出したチャン・イーモウには拍手を送りたい。身振りや言葉とは裏腹な真意をすくい取って見せる演出はそうあるものではない。その点で話が上滑りした「HERO」より僕には面白かった。
反政府組織が乱立した中国、唐の時代。その中で最大勢力の飛刀門の重要人物が遊郭の牡丹坊に潜入しているとの情報を朝廷の捕吏・金(ジン=金城武)と劉(リウ=アンディ・ラウ)がつかむ。飛刀門を殲滅するため、金は牡丹坊で客になりすます。潜入しているのは盲目の踊り子・小妹(シャオメイ=チャン・ツィイー)らしい。激しい戦いの果てに劉は小妹の捕獲に成功するが、小妹は口を割らない。劉は金に命じて小妹を牢から連れ出し、逃亡させる。信用させて飛刀門の本拠地を突き止める計画だった。北へ逃げる金と小妹に朝廷の追っ手が波状攻撃を掛けてくる。その戦いの中で金と小妹の間には愛が芽生え始める。多数の追っ手の攻撃で、竹林の中で絶体絶命の危機に陥った2人を飛刀門の首領が救出。連れてこられた本拠地で金は意外な事実を知らされる。
キネマ旬報9月上旬号の「刻み込まれたのはアニタ・ムイの不在」という記事によれば、当初、飛刀門の首領にはアニタ・ムイがキャスティングされていた。しかし、病状の悪化から1場面も出演することなく、アニタ・ムイは亡くなった。チャン・イーモウは代役を立てず、脚本を書き換えることで、映画を完成させたという(最後に「アニタ・ムイに捧げる」という献辞が出る)。だから映画の結末は本来の物語とは違うものになっている。確かにアニタ・ムイを登場させれば、クライマックス以降はもっとスペクタクルなものになっていたはずだ。朝廷と飛刀門との戦いも詳しく描かれたはずである。アクション映画としてはだから残念な結果なのだが、物語はスケールダウンしたものの、破綻はしていない。三者三様に本心を隠して進行する物語の中で、金と小妹に本当の愛が芽生えたことが悲劇を生むことになる。任務と愛情の間で心が揺れ動く金と小妹の描写がいい。大変深みのある描写であり、演技であると思う。この一直線の魅力を見せる2人に対抗するには、劉のキャラクターにもうひとひねりあった方が良かっただろう。
ワイヤーアクションを使った竹林の中での戦いは全体の白眉。この映画、アクションの撮り方に関しては他の追随を許さない完成度があると思う。一部吹き替えはあるが、踊れてアクションもできるチャン・ツィイーの魅力も十分に伝えている。飛刀門はその名の通り、短刀を投げて相手を倒す技術に長けている。CGも使って表現されるこの短刀の描写が面白い。金城武の矢の放ち方は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスに負けないくらいスマートで、アクションも申し分なかった。