2007/08/13(月)「夕凪の街 桜の国」

 「夕凪の街 桜の国」は絶賛評が多く、映画生活でも満足度ランキングのトップになっている。被爆者と被爆二世を描いて充実した話だと思うが、映画に関して言えば、僕は佐々部清監督の浪花節的体質が邪魔をしているように思えた。見ていて描写の仕方に引っかかる部分が多すぎるのである。

 前半の「夕凪の街」は主人公が「自分だけが生き残って申し訳ない」との思いに責めさいなまれている点で黒木和雄「父と暮せば」を思い起こさせるけれど、演出の差は歴然としている。黒木和雄の端正で静かな描写(にもかかわらず主人公の思いは痛切に伝わる)に比べると、この映画の描写は安っぽい。悲劇を強調した音楽の使い方や俳優の演技に問題があるのだろう。メロドラマと大差ないレベルの演出だ。

 もちろん、良い部分もある。「(広島に)原爆は落ちたんじゃなくて、落とされたんよ」「原爆を落とした人は12年たって、また一人殺せたと喜んでいるんかねえ」という主人公の怒りは十分に共感できる。ただ、これは原作の力なのではないかと思う。

 舞台が現代に変わる後半の「桜の国」は演出のタッチが違い、コメディ的な部分があるのがまた引っかかる。堺正章はミスキャストに近いと思う。ここで描かれるのは被爆二世への差別などまだ終わっていない原爆の悲劇だ。僕は田中麗奈が好きなので、田中麗奈が悲劇的エピソードの中を飄々と歩いていても別に構わないのだが、本来ならもっとメインに来るはずの弟とその恋人のエピソードの情感が今ひとつになった。

 だいたい、映画の最初に「広島のある 日本のある この世界を 愛するすべての人へ」と余計な字幕を出す佐々部清のセンスを僕は疑う。監督自身の思いなど観客にとってはどうでもいいし、それは映画に込めればいいことだ。監督がこうだから余計なセンチメンタリズムが映画に入り込むのだろう。

2007/07/19(木)「涙そうそう」

 古いパターン。これは昭和30年代の映画かと思えるような古いパターンにもかかわらず、土井裕泰監督はしっかりした演出で最後まで見せる。

 絵に描いたような好青年と血のつながっていない妹の話。兄は妹を大学に行かせるために働きづめに働く。昼間は市場で、夜は居酒屋で。ようやく自分の店を持てたかと思ったら、詐欺に遭っていたことが分かる。舞台が東京だったらパロディにしかならないような古いパターンの話を成立させるために土井監督は沖縄を舞台に選んだのだろう。終盤にある設定もこれまた普通に描かれたら怒るところだが、映画の流れから言えば、こうするしかないだろう。

 映画を支えているのが妻夫木聡と長澤まさみの好演であることは言うまでもない。ひたすら明るく人がよい妻夫木もいいのだが、長澤まさみはそれ以上によく、麻生久美子と並ぶ場面では麻生久美子がかわいそうになってくるほどの魅力。だいたい比較するのが間違いで、これは女優とスターの違いと言っていい。

 小林信彦は週刊文春のコラムをまとめた「昭和が遠くなって」の「天成のスターは映画の枠を超える」という文章の中でこの映画の長澤まさみについてこう書いている。

 「ヒロインとしての長澤まさみも、船の舳先で手をふる陽気な登場シーンから、兄に向かって『本当に好きだよ』と言って去ってゆくシーンまで、みごとである。アップになった時の視線の微妙な動き、抜群の表情に、演技の進歩(というのは失礼だが)が見て取れる。スター映画を観る喜びはそういうものであり、観客は一瞬たりとも気を緩めることができない」

 長澤まさみはそういう存在であり、もっともっと映画に出るべきだと僕は思う。

 ところで、上の文章に続けて、小林信彦は「そういうスター、少なくともスター候補は、もう一人いる」と書いている。

 「昨年、『ALWAYS 三丁目の夕日』の中で、昭和三十年代にはあり得ない広い幅の道を車で通り抜け、戦前の松竹映画のようなゴミゴミした町に入っていった集団就職の少女である」。

 つまり、堀北真希のことを小林信彦は長澤まさみに匹敵すると言っているのだ。大淀川さんは反論するでしょうが、これは僕も同感。

2007/07/18(水)「雲のむこう、約束の場所」

 端的に言って傑作。「秒速5センチメートル」や「ほしのこえ」に感じた物語の未完成さが微塵もない。立派にSFしているところに好感。「ハウルの動く城」を抑えて2004年の毎日映画コンクールでアニメーション映画賞を受賞したのも当然か。

 Wikipediaから引用しつつストーリーを紹介する。津軽海峡で分断された日本が舞台。北海道は「ユニオン」に占領され、「蝦夷」(えぞ)と名前を変えていた。ユニオンは蝦夷に天空高く聳え立つ謎の「塔」を建設しており、その存在はアメリカと「ユニオン」の間に軍事的緊張をもたらしていた。青森に住む中学3年生の藤沢浩紀(吉岡秀隆)と白川拓也(萩原聖人)は、海の向こうの「塔」にあこがれ、ヴェラシーラ(白い翼の意)と名づけた真っ白い飛行機を自力で組立て、いつか「塔」へ飛ぶことを夢見ていた。

 2人は、同級生の沢渡佐由理(南里侑香)にヴェラシーラを見せ、いつか一緒に「塔」まで飛ぶことを約束する。しかし、佐由理は何の連絡も無いまま2人の前から姿を消す。ショックで2人は飛行機作りを止めてしまう。喪失感を埋め合わせるように浩紀は東京の高校へ進学し、拓也は地元の高校へ進学して勉学に打ち込むことになる。

 3年後、「ユニオン」とアメリカの緊張は高まり、戦争が現実になりそうな気配の中、「塔」の秘密が明かになる。それは近接する平行宇宙との間で空間を交換し、世界を裏返して書き換えてしまう超兵器であった。

 一方、佐由理の行方も明らかになる。彼女は中学三年の夏から三年間もの間、原因不明のまま眠りつづけており、東京の病院へ入院していたのだ。やがて「塔」と佐由理の関係が明らかになると、この事実を知った浩紀と拓也はヴェラシーラを塔まで飛ばす決意をする。宣戦布告後の戦闘のさなか、ヴェラシーラは津軽海峡を越えて北海道の「塔」へ飛ぶ。佐由理と世界を救うために。

 最初の30分近くはいつもの新海誠の映画のタッチで中学生3人の交流が描かれる。ああ、またこういうパターンかい、と思って見ていたら、いきなりハードなSFの設定に移行した。この世界に住む科学者は平行世界の存在に気づいており、平行世界とこの世界で「砂粒程度」の空間の置換に成功している。塔はそれをより大きなレベルで実現する兵器だったのだ。世界は平行世界を夢見ている、という設定は大変魅力的だ。

 少女を救うことが世界を救うという展開はいわゆる「セカイ系」といわれるパターンに属する。だからというわけではないが、ハードな設定が姿を現した時の驚きに比べると、その後の展開はまあ予測できる程度のものである。

 しかし、いつもの新海誠の絵のタッチの良さにきちんとした物語が組み合わさっていることで、これは大変まとまりのある作品になった。新海誠だけで作ったわけではなく、他のスタッフがかかわったからこそ完成度の高い作品になったのだろう。新海誠自身は共同作業があまり好きではないのかもしれないが、このレベルの作品を生み出すには協力するスタッフが必要だ。こういう製作方法で新作を撮ってほしいと思う。

2007/07/05(木)「ほしのこえ」

 新海誠が注目を浴びるきっかけになった25分足らずの短編アニメ。

 異星人タルシアンと戦うために国連軍に入った少女ミカコと地球で待ち続ける少年ノボルの携帯メールでのやり取りを描く。地球に届くまで数日かかっていたメールはミカコが冥王星付近に移動すると1年以上かかるようになり、シリウス星系に移動した後は8年以上かかるようになる。それだけのワンアイデア・ストーリー。時間と空間に引き裂かれた恋人たちを叙情性あふれるタッチで描くのは「秒速5センチメートル」と同じだ。

 2046年の携帯があんなに古くさい形のはずはないとか、超光速移動ができるなら超光速通信もできるだろうというツッコミはいくらでもできる。新海誠はそういう技術的な話よりも8年後にメールが届くというロマンティシズムにしか興味がないようだから、仕方がない。SF的なセンス・オブ・ワンダーは皆無だが、それでも好きな人は好きなのだろう。

2007/05/27(日)「パッチギ! LOVE & PEACE」

 「パッチギ! LOVE & PEACE」パンレット大感動して帰ってきて、ネットの他の感想を見ると、毀誉褒貶が明確に分かれている。「反日映画」と決めつけた偏狭かつ、もの知らず的な見方の幼稚な感想は論外としても、ヒステリックな非難の要因は主義主張のはっきりした映画を見た経験が少ないためとしか思えない。映画は「パッチギ!」(2005年)の続編だが、キャストも違うし、前作とのつながりはほとんどなく、独立した作品である。

 描かれるのは東京に出てきたアンソン一家の出来事を中心にした在日への差別と権力への異議申し立て。アンソンは筋ジストロフィーであることが分かった子供の治療費を捻出するために奔走し、妹のキョンジャはスカウトされて芸能界に入る。在日への差別が厳しいのはこのキョンジャのパートで、キョンジャはタレントとして売り出すために在日であることを隠して活動せざるを得ない。差別を根本的に描くには、朝鮮人が日本に連れてこられた過去、つまり戦争中の描写に踏み込まざるを得ず、キョンジャが出演した特攻隊映画「太平洋のサムライ」と徴兵から逃げたキョンジャの父親の戦争中の描写が対照的に描かれていくことになる。嘘っぱちの「君のために死ぬ」などという「太平洋のサムライ」のセリフが白々しく感じられるの言うまでもない。この映画が優れているのはこうしたテーマに真摯に向き合っていると同時にエンタテインメントにくるんで仕上げていることで、最初と最後にある乱闘シーンは実に気持ちよく、陰湿な差別意識を吹き飛ばす爽快感にあふれている。加えて、このシーン、前作同様に殴り合わなければ本当の理解は進まないという端的な主張を表してもいるのだ。

 僕は前作よりも面白かった。というよりも井筒和幸のベストではないかと思う。こうした普通の主義主張を言うのに今の日本は困難な時代になっている。でなければ、ヒステリックな非難など出てくるはずがない。反権力・反権威に貫かれた映画なので、権力に追従することに気持ちよさを覚える人、権威にただひれ伏す人には不快なのだろう。当然のことながら、差別主義者と権威主義者がイコールなのはよく知られた事実なのである。

 1974年から1975年にかけての東京・枝川が舞台。叔父の経営するサンダル屋で働いているアンソン(井坂俊哉)は妻を白血病で亡くし、息子のチャンス(今井悠貴)は筋ジストロフィーであることが分かる。妹のキョンジャ(中村ゆり)は焼き肉屋で働いていたが、あるプロダクションの男にスカウトされ、芸能界に入ることになる。オモニ(キムラ緑子)や叔父さん(風間杜夫)、その妻(手塚理美)、地区の長老(米倉斉加年)、朝鮮将棋のおじさん(村田雄浩)らのキャストの充実ぶりが大したもので、これは下町の人情劇としても機能しているのが素晴らしい。監督の言う「あの時代をこうやって懸命に生きてきた家族がいたんだよということを描こうと」したという言葉が本音であるかどうかはともかく、描写の具体性は人情劇としても十分通用するのである。この地区に転がり込んできた国鉄職員の佐藤(藤井隆)もまた、小さいころに母親に捨てられた過去を持ち、人情劇の側面を補強している。同時に映画にはそうした人々が不当な差別にさらされた怒りと鬱屈を描いていもいる。クライマックス、キョンジャが映画館の観客の前で自分の出自を明らかにするシーンはそうした不当な差別への異議申し立てを表していると同時に間違った社会への抗議にほかならない。

 井筒和幸は映画の端々に小さな批判と怒りを込めている。筋ジストロフィーをドラマの設定に描くことには難病ものと似たり寄ったりではないかという疑問も感じるのだけれど、瑕疵だろう。思えば、キョンジャが「必ず生きて帰ってきてください」という映画のセリフの変更に反発するシーンは黒木和雄「紙屋悦子の青春」にそのまま通じるシーンなのである。チャラチャラした作品の多い日本映画の中で、芯の揺るがない作品に出会うこと自体が珍しく、それだけでも貴重な作品と思える。在日うんぬんの前に権力への盲目的な追従を批判した映画であり、右傾化した現在の日本への警鐘鳴らす作品でもある。井筒和幸の主張は極めて真っ当なもので、この痛快で正直な作品がヒットしない現状には疑問を感じざるを得ない。反発精神、反骨精神にあふれた映画である。