2007/05/22(火)「時をかける少女」

 見終わってすぐに最初から見たくなる。優れた時間テーマSFの常でちゃんと最初の方に伏線が張ってあり、美術館に間宮千昭がいる描写が2度も出てきた。この脚本には感心した。SFの部分もいいが、青春映画としてきっちり作ってあるところにとても好感が持てる。いやあ、素晴らしい。

 リメイクではなく、原作の20年後を舞台にした続編。前作の主人公・芳山和子は今回の主人公・紺野真琴の叔母役で出てくる(といっても映画の中では名前を名乗るシーンはなかったと思う。エンドクレジットには出てきた)。原作者の筒井康隆も正統な続編と認めているという。毎日映画コンクールアニメーション映画賞をはじめ内外で多くの受賞をしていることを見ても分かるように、それほど出来がいいのだ。

 高校3年生の紺野真琴はクラスメートの間宮千昭、津田功介と野球を通じて仲の良い男女を超えた関係を築いている。ある日、真琴は理科の実験室で気を失い、自分がタイムリープ(時間跳躍)の能力を身につけたことを知る。千昭から告白されそうになった真琴は過去に戻って告白させないようにする。聖なるトライアングルを壊したくないのだ。真琴は失敗しても何度も過去に戻ってやり直せる能力に最初は有頂天になるが、やがてやり直すことで別の人間が自分の代わりになっていることを知る。

 中盤にあるのは人生の岐路をやり直すことの意味。自分は不幸を免れるが、その代わりとなる人間がいることに真琴は悩む。何度も何度もやり直すシーンはケン・グリムウッドの「リプレイ」を思い出すのだが、この映画は終盤に前作のような切ない展開を迎え、成長した真琴の姿を映して終わる。

 「今の関係がずっと続けばいいのに」と考えている真琴は「ずっと今が続けばいいのにね」という「ロボコン」の長澤まさみと同じく青春の中にいる。主人公の明るくアクティブなキャラクターとその必死さが映画に輝きを与えている。

 キャラクターデザインは「エヴァンゲリオン」の貞本義行。監督の細田守は評価の高かった(僕はそれほどとは思わなかった)「劇場版デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」や「ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」(これは未見)を監督しているが、これほどの作品を作るとは思わなかった。

2007/04/25(水)「奇談」

 諸星大二郎「生命の木」の映画化で2005年の作品。妖怪ハンター稗田礼二郎の映画としては「妖怪ハンター ヒルコ」(1991年、塚本晋也監督)に続いて2作目か。

 この映画の中にも「ヒルコの里の稗田先生ですか」というセリフが出てくる。「ヒルコ」では稗田を沢田研二が演じたが、今回は阿部寛。イメージ的には悪くない。一番興味があったクライマックスの生命の木の描写の仕方もまあまあか。「ぱらいそ」「いんへるの」といった言葉が出てくるのがいかにもな感じである。ただ、全体的に作りが安く感じる。さーっと流して表面的なものに終わっている。諸星大二郎の世界だったら、もっと濃密に映画化した方がいいと思う。監督は小松隆志、プロデューサーは一瀬隆重(「呪怨」「リング」)。

 映画の冒頭に隠れ切支丹が弾圧から逃れて独自の宗教に発展していったという説明が入る。これ、諸星大二郎の別の作品でもあったと記憶している。

2007/02/10(土)「幸福な食卓」

 「幸福な食卓」パンフレットこのタイトルと「父さんは、今日で父さんを辞めようと思う」というとんでもないセリフで始まる映画なので、これは家族の問題を扱った映画なのだろうと思ってしまうのだが、この映画、家族の問題の追求部分は決して深くはない。例えば、マイク・リーあたりの映画に比べるべくもないぐらいの深みである。しかし、これは幸福な家族の食卓にかつていて、今は壊れた家族の食卓にいる主人公・中原佐和子(北乃きい)の話であると割り切ってしまえば、好感の持てる作品だと思う。

 佐和子と席が隣になった大浦勉学(勝地涼)との関係が心地よい。佐和子はきりっとしたまっすぐにまじめな少女であり、大浦は佐和子を守るように包み込むように佐和子に接する。大浦は金持ちの息子で、母親がベンツで塾へ送り迎えするという、普通に考えれば、お坊ちゃまなタイプのひ弱なやつと思えるのだが、そのキャラクターの根幹はかつてのガキ大将っぽい男らしい男なのである。2人を接近させることになる給食のサバのエピソードがそれを象徴しており、佐和子に自分が稼いだ金でクリスマスプレゼントを贈るために新聞配達のアルバイトをするというのも大浦のキャラクターをよく表している。北乃きいと勝地涼のキャラクターの魅力で見せる映画であり、よくできた青春映画と受け取ってしまっていいのではないかと思う。堤防を歩く北乃きいを延々と映し続けるラストシーンなどはアイドル映画のような趣で、小松隆志監督は北乃きいをとても魅力的に撮っている。他の描写すべてが北乃きいを引き立たせる道具になり、壊れた家族の再生が背景に退いてしまっているのだが、それでもいいと思えてくる映画である。

 原作は中学教師でもある瀬尾まいこ。父親(羽場裕一)が「父さんを辞める」と言い出した理由は徐々に明らかになる。父親は3年前、風呂場で自殺未遂を起こした。それが原因で、母親(石田ゆり子)は家を出てアパートで一人暮らしを始め、兄(平岡祐太)は成績がずっと一番であったにもかかわらず、大学進学をやめて農業を始めた。兄が語る「歪み」がこの映画のテーマの一つ。兄は一番を維持するためにだんだん自分の中で歪みが大きくなってきたと佐和子に告白する。その歪みを断つには死ぬしかないと、父親の姿を見て思ったというのがよく分かる。父母もまた、自分を押し殺して決められたレールの上に乗っているのが耐えられなくなったのである。レールを外れた家族はそれでも緩やかな関係を保っているけれど、佐和子が精神的なショック状態に陥ったことで再び、関係に変化が訪れる。「気づかないところで、中原っていろいろ守られてる」という大浦の言葉が示すように佐和子を守るために家族は元に戻ることになるのだろう。それを具体的に描かず、兆しで終わらせているところがいい。

 レールに乗った家族と対照的なのが兄の恋人の小林ヨシコ(さくら)で、兄のほかにも恋人を持つヨシコに佐和子は怒るのだが、ヨシコは自由だからこそ精神的には最も健全な立場にいる存在だ。小松隆志はこうした人間関係にはあまり深入りしていない。というか、説明過剰になることを避けて、抑制していると言うべきか。演出に緩みと思える部分も少しあるが、全体的には少女を中心にした物語としてうまくいっていると思う。

2007/01/28(日)「それでもボクはやってない」

 「それでもボクはやってない」素直に罪を認めれば、罰金刑で済み、午後までには釈放。否認すると、勾留が数カ月に及ぶこともある。痴漢のような軽犯罪であっても扱いは重罪犯と何ら変わらない。そういう現状を改めて詳細に描くとともに、映画は裁判自体の理不尽さを徹底して描く。日本の裁判に無罪の推定なんてない。警察からいったん犯人扱いされたら終わり。無実を証明するには被告人と弁護士、支援者に大変な労力が要求される。それでも無罪判決を勝ち取ることはまれだ。日本の裁判は有罪率99.9%なのだという。映画には推定無罪を信念とする裁判官も登場するが、弁護士によってそうした裁判官が少数派であることが説明される。なぜか。国家を敵に回す裁判官は昇進しないからだ。もう絶望的な気分になる状況を周防正行は怒りをこめて描き出す。満員電車の中で痴漢に間違われることなんていつ何時、自分に降りかかる災難か分かったものではない。だからこそ、この映画は怖い。周防正行は脚本を書くのに3年かけたという。チャラチャラしたお手軽な作品が多い最近の日本映画において、この映画が持つ重みは取材の充実が裏打ちしているのだと思う。11年ぶりの監督作に過去の作品とはまるで異なる社会派の題材を選んだ周防正行はそれを見事に成功させた。

 痴漢に間違われた青年(加瀬亮)が無実を主張し、裁判を闘うことになる。というプロットは簡単だ。監督の狙いは裁判そのものを描くことにあったのだから、余計な夾雑物は一切廃している。キネマ旬報2月上旬号によると、周防監督は中年のサラリーマンと若者を主人公にした脚本をそれぞれ5稿まで書いたそうだ。若者が主人公になったのは、中年が主人公になると家族の話まで広げざるを得なくなるからであり、それでは裁判自体を描くというテーマに沿うことができなくなるからだ。それでも脚本を見せた人からは「映画と講演つきで公民館などを回るしかないんじゃないか」と言われたという。一歩間違えれば、そうした文化・啓発映画にしかなりそうにない題材だが、主義主張だけでなく、映画をコントロールし、面白い映画に仕上げる技術が周防正行には備わっていた。

 過去のエンタテインメント作品で培った技術はここにも生かされている。それを端的に感じるのはおなじみの竹中直人であったり、主人公が留置場で知り合う本田博太郎のおかしなキャラクターであったりするのだが、弁護士役の役所広司、瀬戸朝香(「Death Note」に続いて好演)をはじめ、母親役のもたいまさこ、裁判官役の小日向文世、刑事の大森南朋らのキャラクターの作り方にも功を奏している。加えて、主人公に最初に接した当番弁護士が人権派の浜田(田中哲司)であるにもかかわらず、浜田は裁判制度にあきらめを感じつつあったために主人公に示談を勧めるという描写や、推定無罪を信条とする裁判官(正名僕蔵)が途中で交代させられる点、同じく痴漢冤罪事件で控訴審を闘う佐田(光石研)が主人公の支援に回るエピソードなどが積み重ねられ、映画を重層的なものにしている。

 正義の実現に努力する弁護士たちの姿にはよくある裁判劇のように胸を熱くするものがあるのだけれど、周防正行は決してそれを中心にせず、裁判制度の問題点のみに焦点を絞っていく。2時間23分は少し長いと思ったが、冗長な部分はなく、息抜きの場面を入れながら、テーマを掘り下げて描いた構成と演出力は大したものだと思う。2年後には裁判員制度が始まるが、一般から選ばれた裁判員がかかわる刑事裁判は重大事件に限られるので、こうした痴漢冤罪事件の構造は今後も変わらないだろう。映画の中で「痴漢冤罪事件には日本の刑事裁判の問題点がはっきりと表れている」と役所広司が言うが、その現状を変えたい、変えなくてはいけないという主張が明確に伝わる映画である。