2010/09/20(月)「悪人」

「そがん風にして生きていかんば。そがん風に人を笑うて生きていかんば」。

 柄本明演じる佳乃(満島ひかり)の父親が佳乃を山道に置き去りにした増尾(岡田将生)に怒りを込めて言う。薄っぺらで見栄っ張りに生きている佳乃と増尾。それとは対照的な地味で控えめに生きざるを得ない清水祐一(妻夫木聡)と馬込光代(深津絵里)。一つの殺人事件を巡る人々を奥深く描いて、「悪人」は間然するところのない出来である。

 李相日監督は極めて映画的なショット(例えば、病院で柄本明から娘の死を伝えられた宮崎美子演じる妻がくずおれる場面をセリフなしのシルエットで演出する)でシーンを構成し、社会から見れば取るに足りない存在、どこにでもいる取り柄のない男女の逃避行を描いて、痛切な青春映画として結実させた。情感を込めた久石譲の音楽も素晴らしく良い。モントリオール世界映画祭での深津絵里の主演女優賞受賞は作品全体に対して与えられたものなのだろう。さまざまなテーマを盛り込みながら、そのスタンスは一般庶民の立場に立ったものであり、だからこの映画のいろいろなショットは強く胸を打つのだ。この大衆性は李相日の前作「フラガール」とも無縁ではない。

 長崎、佐賀、福岡を舞台にしたこの映画は方言で語られる言葉や描写の一つひとつにとても重みがある。映画を見終わった後に細部を振り返りながら、この重さと切実さは野坂昭如「心中弁天島」を映画化した増村保造「遊び」(1971年)に似ていると思った。関根恵子と大門正明の出会いとその道行きの切実さ。それはやはり若い2人の逃避行を描き、青春映画として帰結した「闇の列車、光の旅」(2009年、キャリー・ジョージ・フクナガ監督)とも通じるものだ。「闇の列車…」を見た時、貧しさが背景にあるこういう切実な青春映画は今の日本映画ではもう撮れないだろうと思わざるを得なかった。「悪人」はその考えを見事に打ち砕いてくれた。貧しさは絶対条件ではない。日常に満たされない思いとやりきれなさを抱いた男女の出会いがあればいいのだ。

 もちろん、主演の2人の境遇が十分に豊かなわけではない。光代は佐賀県内の紳士服のフタタに勤め、妹とアパートで暮らしている。冷たい雨の中、自転車で帰れば、妹は男を引っ張り込んでいて、ドアにはチェーンロックがかかっている。ガタガタと寒さに震える光代の姿は凍えそうに空虚な日常を象徴しているようだ。幼稚園も学校も職場も家も国道のそばにあり、光代の人生はこの狭い範囲から外へ出たことがない。一方、祐一は幼い頃に母親(余貴美子)から捨てられ、長崎県の漁村で祖父母(井川比佐志、樹木希林)に育てられた。病気がちの祖父を病院に連れて行き、建物解体の土木作業員として毎日黙々と働き、家計を支える。唯一の趣味は(恐らく中古の)日産スカイラインGTRだ。「海のそばにある家なんていいわね」と言う光代に対して、祐一は「海が目の前にあると、ここから先にはどこにも行けないような気になる」と答える。

 日常に縛られてどこにも行けない人生。どん詰まりの人生を生きている2人が出会い系サイトで知り合い、深く理解し、求め合う。もっと早く出会っていれば良かったのに、と思う。しかし、その時、既に祐一は悲劇的な殺人を犯しているのだ。自首しようとする祐一を光代は引き留め、灯台に向かう。灯台は祐一と母親の悲しい思い出につながる場所だ。灯台でのひとときはそれが終わりを迎えることが分かっているからこそ痛ましい。いったん警察に保護された光代は隙を見て逃げだし、傷だらけになりながら再び祐一のいる灯台、初めて生きる充実感を与えてくれた祐一のいる灯台を目指す。

 佳乃の父親は久留米の寂れた理容店の店主である。軽薄な娘の父親ではあっても、むしろ祐一の側に立つ人間だ。だから怒りの矛先は増尾に向かうのだろう。映画は善良に生きている庶民の立場に立って組み立てられている。李相日と原作者の吉田修一が書いた脚本にはこの点でまったくブレがない。加えて、マスコミに追いかけられる樹木希林の祖母を通して、君塚良一「誰も守ってくれない」のように犯罪加害者の家族の問題も盛り込んでいる。樹木希林の演技は絶妙と言うほかなく、助演女優賞は決まりではないかと思う。

 増尾が乗る車は原作ではアウディA6となっているが、映画に登場するのはアウディQ5。普通の若者には手に入らない高級車であることに違いはない。目の前で佳乃が増尾のこの高級車に乗るのを見た祐一は一瞬、顔を歪ませて激怒する。妻夫木聡、この表情がとてもうまい。嫌な役柄を嫌なキャラクターとしてだけではない深みを交えて演じた満島ひかりと岡田将生も立派。出演者の演技がこれほど充実しまくった映画も珍しい。