2001/02/14(水)「アンブレイカブル」
大惨事となった列車脱線事故で一人の男だけが生き残る。しかも、その男デヴィッド(ブルース・ウィリス)はかすり傷一つなかった。なぜ自分だけ、と疑問に思うデヴィッドにある日、置き手紙が届く。「君は今まで病気にかかったことがあるか?」。差出人はコミックの収集家イライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)。イライジャは骨のもろい特異体質で両手両足が骨折した状態で生まれた。そしてデヴィッドに恐るべき事実を打ち明ける。
と、これ以上は書けない。「シックス・センス」のように結末をふせるべき映画だが、「シックス・センス」のような意外性はない。中盤の展開にもう一ひねりほしいところ。ここがやや単調なのである。「シックス・センス」は基本的に叙述ミステリの構成だったが、今回は違う。そこが評価の分かれ目のようだ。
「シックス・センス」と共通する部分もあり、M・ナイト・シャマラン、このテーマが好きなのだろうなと思わせられる。僕はスティーブン・キングの某作品を思い浮かべた(映画化もされている)。ただし、その作品に比べてSF味は薄い。端的に今回は脚本・演出に緩い部分があり、「シックス・センス」のような緻密さには欠けるのである。
ただし、「シックス・センス」は始まって10分ほどで仕掛けが分かったが、今回の結末は予想していなかった。というより、もっと主人公の秘密にかかわる部分での結末を予想していたんですけどね。
2001/02/06(火)「ペイ・フォワード 可能の王国」
社会科教師シモネット(ケヴィン・スペイシー)から世界を変える方法を考えろ、という課題を出された中学生トレバー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)が善意の先贈り(ペイ・フォワード)のアイデアを実践する。1人が3人に善意を与える。与えられた3人はそれぞれ3人に対して同じく善行を行う。つまり善意のチェーンレターで、人々がこれを実践すれば、“クソみたいな”世界は素晴らしい世界に変わるというわけである。
トレバーはまずホームレスの男(ジム・カヴィーゼル)に食事と洋服の代金を与える。そして母親アーリーン(ヘレン・ハント)とシモネット先生をなんとか結びつけようとする。このアーリーンとシモネットの描写がなかなかいい。アーリーンはアル中、シモネットは顔にやけどの跡があり、自分の生活に他人が入り込むのを嫌う男なのである。それぞれに傷を負った人生を送ってきた中年男女が互いに相手を必要とし、ゆっくりと関係を深めていく。
単純なペイ・フォワードの広がりを描いた映画ではなく、冴えた人間描写が見どころ。2人の傷はいずれも家庭から発している。その意味でこれは大変よくできた家庭ドラマであり、ラブストーリーなのである。問題はラストの処理で、こういう結末はないんじゃないかなと思う。ドラマ上はほとんど意味がないのである。観客を泣かせるためなのか? あるいは製作者たちはかつてのフランク・キャプラのような善意が実現するドラマを信じることができなかったのか。原作もそうなっているのかもしれないけれど、映画としては著しく興ざめである。ラスト・ショットは「フィールド・オブ・ドリームス」のパクリではないか?
監督は「ピース・メーカー」「ディープ・インパクト」のミミ・レダー。トレバーの祖母役でなんとアンジー・ディキンソンが出ている。
2001/02/01(木)「勇気凛々ルリの色 福音について」
浅田次郎の連載エッセイの3冊目。文庫に入ったので読んだ。相変わらず爆笑に次ぐ爆笑、そしてホロリとさせる好エッセイ集だ。直木賞を受賞した前後の1年間の出来事が綴られている。「蒼穹の昴」で直木賞に落選したその夜、女性編集者が叱咤する場面がいい。
「書くのよ。今すぐ、書くのよ。あなたから小説を取ったら、骨のかけらも残らない」
頭の中がまっしろで、何も書くことができなかった。書けない、書けない、書けない、と私は泣いた。
「書けないのなら、今まで書けなかったことを書けばいい。どうしても小説にできないことを書くのは、今しかない。今日しかない。私はあなたの原稿を三年も待った。あと二日だけ待ってやる。さあ、書くのよ」
立ち上がることすらできぬまま、私はペンを執り、思い出すだにおぞましい幼児体験を小説にした。
そうして出来上がったのが直木賞を受賞した短編集「鉄道員」の中で最も完成度の高い「角筈にて」だったというのが実に良くできた話である。
いとことの思い出を綴った「ヒロシの死について」は伯父からもらった10円を握りしめて、いとこたちとみやげもの屋に行く話。浅田次郎は店についた時、10円をなくしていることに気づき、石段で膝を抱えて泣く。いとこたちはあめ玉を買ってほとんど帰ってしまったが、ただ1人年長のヒロシが必死に落とした10円を探し始める。
山奥の冬の陽は、つるべ落としに昏れてしまった。
「あったよ! ジロウ、あった、あった」
ヒロシはそう言って、私に十円玉を握らせた。とたんに私は、ヒロシのやさしい笑顔を正視できずに、声を上げて泣いた。子供心にも、その十円玉の出所がわかったからである。それはヒロシのポケットの中の十円玉に違いなかった。
まるで「泥の河」のようなエピソードから現在のヒロシの話につながる。ヒロシは重度の障害を持って生まれた17歳の娘ミッチャンの世話をする傍ら、多忙な営業マンとして懸命に働き力つきた。その翌日、娘も死んでしまう。「残された家族のことを考えて、ヒロシはミッチャンを連れて行った」「ミッチャンは大好きなおとうさんについて行った」との解釈に対して浅田次郎はこう考える。
ヒロシは、医学的にはとうに終わっているはずのミッチャンの生命を、あらん限りの愛情を持って支えていたのだろう。そして、その死がついに支えきれぬところまで迫っていることを感じたあの夜、心のそこから、娘とともに逝くことを祈ったのであろう。天が、その真摯な祈りを聞き届けたのである。
そうでなければ、四十六歳の男の死顔があれほど安らかなはずはない。
浅田次郎は泣かせの天才だなと思う。小説ではそれがちょっと鼻につく部分もあって、僕は「鉄道員」以後の小説は読んでいないが、このエッセイは楽しみにしている。相変わらずのハゲ、巨頭の爆笑話もあって、このエッセイ、一つ泣いて読み終わったら、次は爆笑というまことに喜怒哀楽の激しい本である。売れっ子小説家の想像を絶する多忙さも分かる。風邪をひき、体力がないときに布団の中で読むには絶好の本だった。
2001/01/24(水)「ファイナル・デスティネーション」
搭乗する飛行機が爆発するのを予知夢で知った主人公と友人ら7人が離陸の直前に飛行機を降りて助かる。しかし、その7人は浴槽で滑ったり、交通事故に遭うなどいろいろな事故で一人一人死んでいく。死神が立てた死の筋書きは変えられず、死ぬはずだった7人に順番に死が訪れているらしい。主人公は死の法則を調べ、何とか免れようとするが、その間にも死は次々と訪れる。果たして主人公は…といったストーリー。
このストーリーだけで映画を作るには少し無理がある。ヒネリようのないアイデアなのである。死神を画面に出せば、陳腐になるだけだし、かといって何も敵の姿が見えないのでは面白くなるはずがない。勝てるはずのない相手に立ち向かっているわけだから、ま、どうしようもありませんね。
アメリカのティーンエイジャー向けであることがはっきりした作りで、よくあるスラッシャーと同じパターン。出演者もほとんど無名の若者たちである。監督・脚本のジェームズ・ウォンは「Xファイル」などの演出を経て、これが劇場用映画デビューだそうだ。「Xファイル」ぐらいSFしていれば、少しは何とかなったのにね。
主人公が墓場で会い、「死は避けられない」などと分かった風なことをいう黒人がその後登場しないのは不思議。「また会おう」と言っているのだから、当初はキーパースンの予定だったのではないか。
この映画のシチュエーション、近く公開されるM・ナイト・シャマラン「アンブレイカブル」に何だか似ている。あちらは毀誉褒貶もあるようだけれど、これよりは、はるかにアイデアを詰め込んでいるだろう。
2001/01/17(水)「レッド プラネット」
カール・セーガンの火星地球化計画をベースにしたSF映画。地球が汚染され尽くしたため、人類は火星に藻類を送り、酸素を作り出そうとする。その調査に出かけた宇宙船の乗組員が次々に危機にさらされる。昨年の「ミッション・トゥ・マーズ」に続いて火星を舞台にしている。いつものことながら、リアルな宇宙の描写は好ましいのだけれど、SF的アイデアの発展はこれまたいつものことながらない。
火星軌道上で太陽風の直撃を受けて宇宙船が機能停止、船長(キャリー・アン・モス)を除く乗組員が火星に脱出する。しかし、火星にあるはずの基地は破壊されていた。酸素がなくなる、連れてきたロボットが異常を起こして襲ってくるという危機をどう乗り越えるかが描かれる。あっと驚くような展開をアメリカのSF映画に期待するのはもう無理なのか。リアルの延長で話が地味だ。脚本にアイデアが足りない。
監督のアントニー・ホフマンはCMディレクター出身。いちおうの絵づくりはできるけれど、それだけのこと。こういう監督を起用するのはちょっと考えものだ。場面自体は良くても演出にメリハリがない。「スペース カウボーイ」のイーストウッド演出を少しは見習ってほしい。
キャリー・アン・モスは相変わらず美しくて良い。ただし、宇宙船にいたままなので、あまり活躍の場がないのは残念。