2004/04/09(金)「きょうのできごと a day on the planet」

 柴崎友香の原作を「GO」の行定勲監督が映画化した。若者たちのある1日を淡々とユーモラスに綴った作品である。見ていてジム・ジャームッシュの作品に似ているなと思った。案の定、パンフレットにも「スタッフたちが現代の若者たちの日常を映像化するのに参考にしたのはジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』だった」とある。おまけに原作(河出文庫)の解説も「ジャームッシュ以降の作家」というタイトルである。ジャームッシュ風の原作をジャームッシュ風に映画化したわけだ(ユーモアの質は少し違う。ジャームッシュの作品にあるのは微妙なおかしさだが、この映画はもっとユーモアに積極的である)。サブタイトルもジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」のアレンジだろう。

 実は映画は1にも2にも3にもスジだと思っているので、ジャームッシュの映画はあまり好きではない。個人的にはこの映画も成功しているとは言い難い。

 本当になんでもない日常が描かれる。中心になるのは3つのエピソード。友人の大学院入学祝いに駆けつける中沢(妻夫木聡)と恋人の真紀(田中麗奈)、幼なじみのけいと(伊藤歩)、警察から逃げようとしてビルの間に挟まった哲(大倉考二)、砂浜に打ち上げられたクジラとそれを助けようとする少女―の3つである。このうちクジラのエピソードは原作にはなく、脚本の益子昌一が付け加えたものという。このクジラは物語が収斂する場面につながっており、フェリーニ「甘い生活」の怪魚に当たるものだと思う。

 この3つのエピソードのさわりをタイトル前にさらっと描いた後、映画は時間を戻して若者たちの1日を描いていく。もっとも長い入学祝いのエピソードは他愛ない日常のおかしさに満ちており、ユーモラスに描きながら、中沢と真紀とけいとの関係が浮かび上がる。田中麗奈をはじめとして出演者の関西弁がいい感じである。ただし、章ごとに視点が変わる原作を意識したためか、けいとがアタックするかわち(松尾敏伸)とその恋人のちよ(池脇千鶴)の動物園でのエピソード(これ自体は面白い)や中沢たちが帰った後の正道(柏原収史)たちのエピソードが長々と描かれると、スジ重視の者としてはなんだか落ち着かなくなる。映画には群像劇の趣もあるのでこの構成も分かるのだが、明確に中沢と真紀とけいとをメインにしてしまった方が良かったのではないか。

 原作を端折った部分もあるにせよ、セリフを含めてかなり原作に忠実な映画化となっている。僕の好みの作品ではないが、映画で描かれるエピソードは、金はないが暇だけはたくさんあった学生時代を思い起こさせてくれた。

2004/04/04(日)「サラマンダー」

 火を吐く竜が大量に繁殖して人類滅亡の危機に陥る話。設定は悪くないが、スケールが小さい。大量の竜と戦う場面を期待したら、1匹との戦いが数回あるだけ。竜の造型は良いのに、VFXにそんなにお金がかけられなかったのか?

 竜のオスは1匹だけで、あとは全部メスというのはリアリティを欠く(というか、都合のいい設定)。なぜサラマンダーが復活したのかの説明もほとんどない(獲物が繁殖するまで眠っていた、というだけではどうもね)。「生き残りたいなら、空だけ見てろ」というのはうまいキャッチコピーと思ったが、内容はB級だった。

 主演はクリスチャン・ベール、マシュー・マコノヒー。監督は「Xファイル」のロブ・ボウマン。

2004/04/02(金)「恋愛適齢期」

 ダイアン・キートンが出てきた時に、これはダイアン・キートンではなくてダイアン・キートンによく似ているどこかのおばあちゃんがキートンを演じているに違いないと思ったが、キートンその人だった。IMDBによると1946年1月5日生まれだから58歳だが、70歳と言われても通る。アカデミーの授賞式ではもっと若く見えたから、これは役作りのためにわざと老けのメイクアップをしているのだろう(あるいは素顔をさらしているのだろう)と同情的に考えておく。監督のナンシー・メイヤーズは54歳。パンフレットではキートンより美人に見える。

 そのナンシー・メイヤーズの自伝的な要素のある作品だそうだ。といっても年齢が近くて子持ち、バツイチ、脚本家というところが共通しているだけのようだ。63歳の男と50代半ばの女の恋を描くコメディで、笑える場面は多いし、主演の2人も好演しているが、どうも冗長さを感じる。もっとすっきりした話にまとめられるはずなのである。この内容で2時間8分もかける意味が見あたらない。

 30歳以下の女性しか相手にしないプレイボーイのハリー(ジャック・ニコルソン)が、ガールフレンドのマリン(アマンダ・ピート)と別荘に行き、そこでマリンの母親で脚本家のエリカ(ダイアン・キートン)と出会う。最初はお互いに嫌悪感を持つが、ハリーが心臓発作で倒れ、別荘で静養することになったことから、2人の関係は急速に変化を見せる。人生経験豊富な熟年同士の恋愛だから話は早いのである。しかもハリーを診察した医師(キアヌ・リーブス)がエリカに好意を持ち、三角関係的な様相になっていく。

 このキアヌ・リーブスを出した意味があまりない。本格的な三角関係になるわけではなく、男とは無縁と思っていた熟年女性が突然、両手に花的状況になるだけである。2人の間で揺れ動くわけでもなく、一方がダメになったからもう一方へと流れるだけ。ニコルソンの視点で進行しながら、核心は女性の立場で物語が組み上がっている。やはり女性監督だからだろう。それならば、最初からキートンの視点で描けば良かったのにと思う。ビリングのトップはニコルソンだし、キートンを本格的に主演にすると、興行的に難しい面もあるだろうから仕方のない選択ではあるのだろうが。

 ニコルソンの描き方がカリカチュアライズされているのに対してキートンの描き方には女性の本音が見える。「たとえうまくいかなくても、人は恋をするものなの。傷ついても、それが生きるということ」というセリフはなかなか若い女性には言えないだろうし、言っても説得力はない。ニコルソンとキートンのベッドインのシーンや眼鏡を巡るエピソードなどはおかしいと同時に真実みがあり、メイヤーズの体験的なものがあるのかもしれない。

 ジャック・ニコルソンは年齢的に「アバウト・シュミット」の延長のような役柄。相変わらず、うまいとは思うが、こういうコメディばかりに出ていていいものかどうか。

2004/03/31(水)「ドッグヴィル」

 ロッキー山脈のどん詰まりにある村ドッグヴィルを舞台に村人の虚飾と偽善と悪意を暴き出すラース・フォン・トリアー監督作品。チョークで線を引いただけの最小限のセットといい、ことごとく映画的なものを廃しているようだが、繰り広げられる人間ドラマは密度が濃い。しかも、まったく意外なことに後味が悪くない。これは村人たちに起こるカタストロフがヒロインおよび観客にとってはカタルシスとして作用するからだ。いじめ抜かれたヒロインが最後に復讐する話、と短絡的にも受け取れてしまうのである。トリアーの前作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように、ただただ悲劇に悲劇を重ねて気色悪くなるようなことはない。何よりもヒロインを演じるニコール・キッドマンが抜群の魅力を見せる。村人たちにローレン・バコールやベン・ギャザラやクロエ・セヴィニーなど芸達者をそろえたことで、ドラマは重厚さを増し、2時間57分が少しも長くない。~

 ヒロインは2発の銃声とともにドッグヴィルにやってくる。ワケありのその女グレース(ニコール・キッドマン)をかくまったトム(ポール・ベタニー)は女を探しに来たギャングから「見つけたら連絡をくれ。謝礼ははずむ」と名刺を渡される。若く美しいグレースに惹かれたトムは村人たちを集め、グレースを匿おうと提案する。2週間で村人全員から好意を得られなければ出て行ってもらうという条件付き。次の日からグレースは村の各家で働くようになる。大して仕事もないと思えたが、やらなくてもいいような仕事は大量にあり、グレースは必死に働く。2週間たち、村人は全員、グレースが残ることに同意する。しばらくは幸福な日々。しかし、徐々に村人たちの要求はエスカレートしていき、まるで奴隷のような扱いになる。ついにはリンゴ園を持つチャック(ステラン・スカルスゲート)がグレースをレイプする。トムの協力で村を出て行こうとしたグレースには車輪を鎖でつないだ首輪がはめられてしまう。トムはグレースを愛していると言いながら、協力したことはひた隠しにする。~

 ドッグヴィルは村人わずか十数人の貧しい村。そこに住む人々が善良と思えるのは最初の方だけで、閉鎖的な社会に渦巻く欲望と悪意が徐々に明らかになる。看守と囚人の役割を振った実験を題材にした「es[エス]」で描かれたように、人間は環境によって変わるものだ。この映画でも強者と弱者(支配者と被支配者)の役割が固定されたために、グレースへの村人の振る舞いは傲慢そのものになってしまう。夫を寝取られた(と誤解した)ヴェラ(パトリシア・クラークソン)が、グレースが大事にしていた7個の人形を1個1個たたき割るシーンなどはぞっとする(ヴェラはラストで、その数倍の仕返しを受けることになる)。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」というJ・E・アクトンの言葉を持ち出すまでもなく、人間は力を得た瞬間から腐臭を漂わせるものなのだろう。~

 異色の傑作という形容が実にぴたりと収まる映画。トリアーは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でアメリカのジャーナリストから「行ったこともない国の映画を作った」と非難されたことに怒り、アメリカを舞台にした3部作を作ろうと決意したという。「ドッグヴィル」はその第1作。しかし、これもアメリカ特有の話ではありえず、どこの小さな社会にも通用する内容になっている。その普遍性が良い。グレースの正体を慎重に隠して、それがラストに生きてくる脚本はうまく、これはトリアー作品の中ではベストではないかと思う。ただ、小さな不満を言わせてもらえば、やはり簡単なセットではなく、ちゃんとしたオープンセットで撮影し、微に入り細にわたった描写が欲しいところではある。

2004/03/28(日)「PERFECT BLUE」

 今敏監督の6年前の作品。どんな映画か知らずに見たら、とても面白かった。アイドルグループを抜けて女優を目指した女をめぐって起こる連続殺人を描くサイコホラーで、ミステリとしてしっかり作ってある。終盤の真犯人登場シーンは、その扮装で謎のすべてが氷解する。衝撃的で、良くできていると感心。

 この話は元がいいのだろうと思ったが、原作者の竹内義和はこう書いている。

「原作は、アイドルと、アイドルをつけ狙う変態ストーカーの対決という、とてもシンプルでハリウッド的ストーリーだが、アニメの方は、アイドルの心理的な葛藤が中心となって展開するヨーロッパ映画的ホラーとなっている」。

 その通りで、今敏監督は現実と幻想を織り交ぜて、女優を目指す女の悩みを描き、深みのある映画にした。話としては「千年女優」よりもこちらの方がうまくまとまっている。

 同じ原作は一昨年、サトウトシキ監督が実写で映画化している。予告編をみると、こちらは原作通りの映画化のようだ。