2004/04/22(木)「ジョゼと虎と魚たち」
2つのセリフが心に残る。
「壊れもんには壊れもんの分というもんがあるやろ」
「『帰れ』と言われてすぐに帰るようなやつは帰れ」
前者はジョゼ(池脇千鶴)のおばあ(新屋英子)が言う言葉。後者はジョゼが恒夫(妻夫木聡)に言う言葉。この映画が素晴らしいのはきれい事でも何でもなく、人の本質を突いているセリフや行動が至る所にあるからにほかならない。ジョゼのおばあは歩けないジョゼのことを「壊れもん」と考えている。だから昼間は外に出さず、ジョゼが乳母車で散歩に出るのは早朝だけである。
こういう人間に育てられたらたまらないと思う半面、おばあはジョゼのために必ず春には1年分の教科書をゴミ捨て場から持ってきてくれる。おばあの壊れもんという言葉よりも健常者の口から言われる「障害者のくせに」という言葉の方がよほど毒を持っている。おばあの「壊れもん」はそれ以上でも以下でもなく、単なる形容なのである。
そのおばあが死んだと聞かされた恒夫はジョゼの家に行き、そこでジョゼから悲痛な話を聞かされる。隣のいやらしいおっちゃんに「乳さわらせたら、ゴミ捨てに行ったる」と言われて乳さわらせたら、毎朝ゴミを捨てに行ってくれるという話。「福祉の人に頼めばいいじゃん!」と言う恒夫に対して「福祉の人が来んのは昼や! 朝の回収には間にあわへんがな!」というジョゼの答えに恒夫は口ごもることになる。そして「帰れ」と言われて帰ろうとする。
ジョゼはその恒夫の背中をたたきながら、上記のセリフを言い、泣き崩れてしまう。「帰らんとって。ここにおって…ずっと」。
という風に書き始めたらきりがないけれど、この映画の描写やセリフの一つひとつは深い洞察力に満ちている。健常者と障害者のラブストーリーという泣かせどころ満載の話ながら、思わず背筋を伸ばして見ざるを得ないのは、そういうリアリティがあふれているからだろう。単純に泣かせる話にはなっていないし、そんな甘っちょろい話でもない。恒夫は立派な人間ではないし、恒夫とジョゼの関係もセックスを含めて十分に描写される。だから胸を打つのだ。
ジョゼは恒夫との幸せな日々が永遠に続くことを信じてはいない。それが壊れた時の絶望感は想像に余りあるものがあるけれど、それでも映画は乳母車から電動車いすに変わったジョゼの姿を映して、希望を持たせる。
池脇千鶴が素晴らしく良い。21歳(撮影時)で演技派というのは極めてまれなことだ。犬童一心監督の演出は細部の描写が際だっている。朝食のだし巻きとかアジの開きのおいしそうなこととか、そういう描写が大事なのだと思う。細部のリアリティに支えられた問答無用の傑作。
2004/04/18(日)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」
しんのすけたちが鬼ごっこに興じているうちに入った路地の奥に映画館「カスカベ座」がそびえているのをジャーンと見せてオープニングの粘土アニメに入る呼吸が良く、おお今回は期待できるかと思った。その期待はほぼかなえられ、面白い映画に仕上がった。惜しいのは前半の西部劇映画世界の時間が止まった描写で、長すぎてやや退屈。映画の世界に取り込まれた人々がしんのすけたちの呼びかけで我に返り、脱出へ動き始めると同時に映画も動き始め、クライマックスのつるべ打ちのアクションの痛快さにはひたすら拍手拍手である。昨年の「栄光のヤキニクロード」は普通のギャグアニメすぎてがっかりしたけれど(この日記に感想さえ書いていない)、今回はとても面白かった。昨年から監督を務める水島努は十分に汚名を返上してお釣りが来る作品に仕上げている。
しんのすけたち5人の「かすかべ防衛隊」が「カスカベ座」に入ると、西部劇らしい荒い粒子の映画が上映されている(これは一瞬「リング」かと思った)。トイレに行ったしんのすけが劇場に帰ると、4人の姿がない。先に帰ったのかと思ったしんのすけは家に帰るが、4人が帰宅していないことを知らされる。両親と妹のひまわりとともにカスカベ座に戻ったしんのすけたちは気が付くと、西部劇の世界にいた。そこには横暴な知事ジャスティスが支配している街があった。風間くんはなぜか保安官をしている。マサオくんとネネちゃんは夫婦になっている。ボーちゃんはインディアン。この世界、長くいると、だんだん元の世界の記憶をなくしてしまうらしい。しんのすけたちは何とかこの世界を抜け出してカスカベに帰ろうと、奮闘する。
だんだん記憶をなくしてしまうという設定はまるで「千と千尋の神隠し」で、脚本も担当した水島努はそのあたりにインスパイアされたのかと思ったが、後半のアクションになると、もはや独壇場。「荒野の7人」の面々まで登場させ、息つく暇ないアクションを見せてくれる。しんのすけたちが赤いパンツをはいたことで超人的な力を得るあたり、「ゼブラーマン」と同じ快感がある。そして本当の力を得るには元の世界での「かすかべ防衛隊」の合言葉が必要なのだった。~
いつものようにギャグを散りばめて進むストーリー。今回は予告編にあったしんのすけの必殺技がズバリと決まる場面をちゃんと見せている(いつもの「クレしん」はギャグで構成した予告編と実際の本編とはまるで関係ないのだ)。しんのすけのほのかな恋とか、風間クンが元の世界への不満をぽろりと漏らす本音とか、記憶を失ってしまうことの怖さとかを描きつつ、あくまでもしんのすけ一家を中心にして進む物語は、同じくそれを意図しながらも、原恵一監督の「オトナ帝国の逆襲」「アッパレ!戦国大合戦」に比べて失敗に終わった前作の捲土重来的な意味合いもあるのだと思う。
2004/04/09(金)「きょうのできごと a day on the planet」
柴崎友香の原作を「GO」の行定勲監督が映画化した。若者たちのある1日を淡々とユーモラスに綴った作品である。見ていてジム・ジャームッシュの作品に似ているなと思った。案の定、パンフレットにも「スタッフたちが現代の若者たちの日常を映像化するのに参考にしたのはジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』だった」とある。おまけに原作(河出文庫)の解説も「ジャームッシュ以降の作家」というタイトルである。ジャームッシュ風の原作をジャームッシュ風に映画化したわけだ(ユーモアの質は少し違う。ジャームッシュの作品にあるのは微妙なおかしさだが、この映画はもっとユーモアに積極的である)。サブタイトルもジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」のアレンジだろう。
実は映画は1にも2にも3にもスジだと思っているので、ジャームッシュの映画はあまり好きではない。個人的にはこの映画も成功しているとは言い難い。
本当になんでもない日常が描かれる。中心になるのは3つのエピソード。友人の大学院入学祝いに駆けつける中沢(妻夫木聡)と恋人の真紀(田中麗奈)、幼なじみのけいと(伊藤歩)、警察から逃げようとしてビルの間に挟まった哲(大倉考二)、砂浜に打ち上げられたクジラとそれを助けようとする少女―の3つである。このうちクジラのエピソードは原作にはなく、脚本の益子昌一が付け加えたものという。このクジラは物語が収斂する場面につながっており、フェリーニ「甘い生活」の怪魚に当たるものだと思う。
この3つのエピソードのさわりをタイトル前にさらっと描いた後、映画は時間を戻して若者たちの1日を描いていく。もっとも長い入学祝いのエピソードは他愛ない日常のおかしさに満ちており、ユーモラスに描きながら、中沢と真紀とけいとの関係が浮かび上がる。田中麗奈をはじめとして出演者の関西弁がいい感じである。ただし、章ごとに視点が変わる原作を意識したためか、けいとがアタックするかわち(松尾敏伸)とその恋人のちよ(池脇千鶴)の動物園でのエピソード(これ自体は面白い)や中沢たちが帰った後の正道(柏原収史)たちのエピソードが長々と描かれると、スジ重視の者としてはなんだか落ち着かなくなる。映画には群像劇の趣もあるのでこの構成も分かるのだが、明確に中沢と真紀とけいとをメインにしてしまった方が良かったのではないか。
原作を端折った部分もあるにせよ、セリフを含めてかなり原作に忠実な映画化となっている。僕の好みの作品ではないが、映画で描かれるエピソードは、金はないが暇だけはたくさんあった学生時代を思い起こさせてくれた。
2004/03/28(日)「PERFECT BLUE」
今敏監督の6年前の作品。どんな映画か知らずに見たら、とても面白かった。アイドルグループを抜けて女優を目指した女をめぐって起こる連続殺人を描くサイコホラーで、ミステリとしてしっかり作ってある。終盤の真犯人登場シーンは、その扮装で謎のすべてが氷解する。衝撃的で、良くできていると感心。
この話は元がいいのだろうと思ったが、原作者の竹内義和はこう書いている。
「原作は、アイドルと、アイドルをつけ狙う変態ストーカーの対決という、とてもシンプルでハリウッド的ストーリーだが、アニメの方は、アイドルの心理的な葛藤が中心となって展開するヨーロッパ映画的ホラーとなっている」。
その通りで、今敏監督は現実と幻想を織り交ぜて、女優を目指す女の悩みを描き、深みのある映画にした。話としては「千年女優」よりもこちらの方がうまくまとまっている。
同じ原作は一昨年、サトウトシキ監督が実写で映画化している。予告編をみると、こちらは原作通りの映画化のようだ。
2004/03/19(金)「花とアリス」
岩井俊二の前作「リリイ・シュシュのすべて」と同様に、この映画もデジタルのカメラ(HD24pか?)を使って撮影したそうだ。画面の色合いがくすんだ感じなのはそのためだろう。デジタルからアナログ35ミリフィルムに転換する際の技術がまだ確立されていないのか、カメラそのものの性能が悪いのか知らないが、このダメダメな色彩は何とかしてほしいものだ。色の悪さが気になって、主演2人のキャラクターを紹介する序盤はなかなか映画に集中できなかった。
しかし、話が動いてくると、面白くなる。2人の女の子(ハナこと荒井花と、アリスこと有栖川徹子)の中学から高校にかけての友情と三角関係を仔細に描いて、おかしくて切ない物語に仕上がった。鈴木杏と蒼井優の持ち味が十分に引き出され、とても魅力的に撮られている。岩井俊二は「Love Letter」(1995年)で中山美穂を主演にしたことがあるから、少女の思いをうまく描いたことも別に意外ではないのだが、2人それぞれにクライマックスを用意したところがいい。
ハナのクライマックスは文化祭の舞台の袖で進行する。先輩の宮本(郭智博)に軽い記憶喪失と思い込ませ、「自分に(好きだ」と)告白した」と嘘をついていたハナは泣きながら本当のことを打ち明ける。
「先輩が、あたしを、好きだったことは、ありません…」
これに対する宮本の言葉が良く、映画はこれで終わるのかと思ったら、さらにアリスのクライマックスがある。4人が参加した雑誌の表紙撮影のオーディション。カメラマンは最初の3人を簡単に落とす。バレエの得意なアリスも落とされそうになるが、「ちゃんと踊っていいですか」と言ったアリスはトゥシューズの代わりに紙コップを履き、バレエを存分に見せるのだ。ここがほれぼれするほど素晴らしい。これは踊りそのものが良いからではなく、アリスのひたむきな思いが踊りを通して伝わってくるからだろう。「ちょっと見ただけで人を判断しないで」「自分のすべてを分かって」という少女の気持ちがこもったバレエだと思う。
ハナの静的なクライマックスとアリスの動的なクライマックスが見事に対になっている。花がいっぱいのハナの家と散らかり放題に散らかったアリスの家。岩井俊二は2人のキャラクターを明確に描き分けながら、少女たちの些細な日常(しかし、本人たちにとっては大きな事件)を描いて共感の持てる作品に仕上げた。話の決着をどうつけるのかと思ったら、冒頭と同様にちゃんと2人の友情の描写で終わらせていくのもいい。
このほか、アリスの父親・平泉成や母親・相田翔子も好演。「リリイ・シュシュ」が僕は大嫌いだが、この映画には感心するところが多かった。構成というか話の進め方は決してうまくはないのに描写で見せる。だから、このデジタルの安っぽい色が残念すぎる。普通の35ミリカメラで撮れば良かったのにと、つくづく思わずにはいられない。