2004/02/12(木)「嗤う伊右衛門」
「恨めしや、伊右衛門さま」。
隠亡堀で再会した伊右衛門(唐沢寿明)に岩(小雪)がつぶやく。これほど「恨めしや」が逆説的に響く映画はないだろう。岩は愛する伊右衛門のために自ら身を退いて家を出た。伊右衛門は上司の与力・伊東喜兵衛(椎名桔平)の命令で伊東の愛人・梅(松尾玲央)を妻に迎えるが、形式的な夫婦である。しかし、子供だけは、自分の血を分けた子供ではないのに大切にしている。なぜか、というのが映画の中核をなすもので、自分は身を退いたのに未だに自分を愛して、民谷家を守るだけで幸せにはなっていない伊右衛門の姿が岩には「恨めしい」のである。従来の「四谷怪談」なら恐怖の絶頂となるこのシーンを究極の愛の姿に変えた演出は素晴らしい。それにも増して小雪の演技が素晴らしい。顔に大きなアザを持ちながら、心に澱んだところがなく、前向きにまっすぐに強く生きていく女性を演じて「ラスト・サムライ」以上の充実感がある。
京極夏彦の原作は7年前、発売と同時に読んだ(直木賞の候補にもなった)。印象に残っているのは、澱んだドブ川のようなどす黒い心を持つ伊東の極悪人ぶりである。原作は「四谷怪談」を語り直したもので、岩のアザは伊右衛門に毒薬を飲まされたためではなく病気のためで、伊右衛門はもちろん宅悦(六平直政)や直助(池内博之)も悪人ではない。境野伊右衛門は切腹を命じられた父親の介錯をした後、浪人に身を落とした。御行の又市(香川照之)から民谷家への婿入り話を持ちかけられ、岩の顔を見ることなく、夫婦となる。最初はふとした感情の行き違いからののしり合うが、次第に伊右衛門は岩のまっすぐな心情を理解し、互いに愛し合うようになる。かつて岩を差し出すように岩の父親(井川比佐志)に命じていた伊東にはこれが面白くない。伊東は奸計を企て、岩と伊右衛門の仲を引き裂く。
「魔性の夏」以来23年ぶりの「四谷怪談」の映画化となる監督の蜷川幸雄は筒井ともみの脚本を得て、原作にほぼ忠実な映画に仕上げた。御行の又市が宅悦と棺桶をかついで走るシーンの夕陽に染まった赤い画面や伊東の屋敷にある大きな壺に挿された紅葉など演劇的な要素も盛り込まれているのだが、それ以上に蜷川幸雄は3作目にして代表作と呼べる映画を監督したなという感じである。俳優たちの一人ひとりがくっきりと描き分けられ、緊張感を伴うドラマを展開していく。
ただ、贅沢を言わせてもらえば、純愛の描写が少し足りないと思う。このためクローネンバーグ「ザ・フライ」のようにグロテスクでも純愛というほどテーマが昇華してはいない。描き方にもよるのだが、直助が自分の顔の皮を剥ぐシーンやクライマックスの殺伐とした復讐シーンはもう少しあっさりしていても良かったのではないか。
2004/02/11(水)「千年女優」
「東京ゴッドファーザーズ」がキネ旬読者のベストテンで3位に入った今敏監督作品。引退した女優・藤原千代子が取材にきたスタッフに自分の人生を語り始める。回想は女優が主演した映画と重なり、時代を超えていき、事実と映画が入り混じる。恋した男を時代を超えて追い求める女、という感じのストーリーに仕上がっている。全然設定は異なるが、たぶんブラッドベリの短編で、聖人に会いたい男が追いかけているのに数分(数秒)の差で絶対に追いつけないという話を思い出した。
主人公は原節子がモデルのよう。「あしたのジョー」とか、パロディ的シーンもちらほら。面白い構成で語り口のテンポもいい。もう少しSFにシフトしていると、ずっと好みの映画になったかもしれない。SFに突き抜けていかない踏ん切りの悪さが惜しい。
2004/02/05(木)「青春の殺人者」
実話を基に中上健次が書いた小説「蛇淫」を映画化した長谷川和彦監督のデビュー作。1976年度のキネ旬ベストテン1位。
前半の両親殺しのシーンが凄まじい。父親(内田良平)を殺した息子(水谷豊)を最初はかばっていた母親(市原悦子)がちょっとした感情の行き違いから息子を殺して自分も死のうとし、それを防ぐために息子は結局、母親をも刺し殺してしまう。エディプス・コンプレックス的描写を含めたこの長い2人芝居のシーンが凄すぎるために、死体を処理する後半の展開が普通の青春映画のように思えてくる。
原田美枝子の無花果とヤツデのエピソードとか、母親が連れ込んだ男との関係をセリフでしゃべるあたりに深いものがある。デビュー作らしい瑕瑾はあるものの、面白いですねえ。原田美枝子は「半落ち」の今の演技を見ると、上手に年を取ったなという感じがする。
2004/02/02(月)「太陽を盗んだ男」
25年ぶりに見る。いやテレビ放映時には見ているが、完全版じゃないでしょ。
公開当時、井上尭之の音楽にしびれてサントラを買った。池上季実子は記憶よりもきれいで、セリフのしゃべり方がいかにも70年代風。などなど懐かしさに浸りながら見ることになったが、面白さは変わらない。
今、こういう映画を作ると、テロ対国家という視点になるかもしれない。長谷川和彦監督は全共闘世代だから、テロリスト(しかし、思想的背景はない)の側に立って映画を組み立てている。70年代を引きずりつつ、エンタテインメントにした手腕は今も新しいと思う。
助監督に相米慎二、製作進行に黒沢清がクレジットされている。キネ旬2位。当時買っていた「ロードショー」では読者の投票で1位になった(故大黒東洋士が「1位になるほどの作品か」と噛みついた)。ちなみにこの時のキネ旬1位は「復讐するは我にあり」。
DVDは「コンポーネント・デジタル・ニューマスター使用の究極の高画質を実現したプレミアム版」とされているが、画質はそれほどでもなく、音が割れる場面もあった。
2004/01/27(火)「半落ち」
原作に忠実な作りで前半はあまり感心する部分もないなと思いながら見ていた。原作は取り調べに当たる刑事・志木や検事・佐瀬のハードなキャラクターに面白さがあったが、柴田恭平、伊原剛志ではやや軟弱な感じがあるのだ。しかし、クライマックスで佐々部清得意の演出が炸裂する。梶総一郎(寺尾聰)が妻を殺すに至った経緯と殺してからの2日間の秘密が法廷で明らかになる場面。それまでの抑えた演出とは打って変わって佐々部清はここを情感たっぷりに演出するのだ。アルツハイマーの妻役・原田美枝子の自然な演技と樹木希林の熱演が加わって胸を打つ場面になっている。こういう大衆性が佐々部清の利点と言えるだろう。このあたりからおじさん、おばさんが詰めかけた場内はすすり泣きである。
ただ、クライマックスの人を動かす演出に感心しながらも、全体としては凡庸な部分も目に付く。映画にゲスト出演している原作者の横山秀夫は「映画『半落ち』はですから、佐々部監督率いる『佐々部組』の『読み方』であり『感じ方』であるということができます」と書いている。その通りで、これは佐々部清の解釈なのであり、題材を自分に引き寄せた映画化なのである。佐々部清はミステリーよりも人情の方に重点を置いた。というか、これまでの2作「陽はまた昇る」と「チルソクの夏」を見ても、そこに重点を置くしかなかったのだと思う。それが悪いとは思わないし、大衆性を備えたことによってこの映画はヒットしているのだから、勝てば官軍ではあるのだが、割り切れない部分も残る。佐々部清は自分流の演出で映画を成功させたけれど、同時に一通りの演出法しか持っていないという限界も見せてしまったようだ。
原作は6人の視点から語られる。映画は一番最後の刑務官を登場させず、裁判の場面にクライマックスを持ってきた。上映時間が限られる以上、この脚本(田部俊行、佐々部清)の処理は悪くないが、残念なのは警察と検察の裏取引や記者と警察の取引が通り一遍の描写になってしまったことと、弁護士や裁判官のキャラクターの掘り下げが(國村隼、吉岡秀隆の好演を持ってしても)足りないことだ。十分に描く時間がないなら、もう少しスッキリとまとめた方が良かっただろう。
映画の本筋は骨髄移植とアルツハイマーを通した命の絆や「誰のために生きるのか」という問いかけ、魂を失った人間は生きているのか死んでいるのかという設問にあるのだから、こうした部分をもっと前面に持ってきた方が良かった。同時に梶が妻を殺さなければならなかった苦悩も描き込む必要があった。深刻な顔をし続ける寺尾聰だけでは弱いのである。
僕は佐々部清の演出が嫌いではない。1、2作目を手堅くこなした後の3作目の今回はホップ・ステップ・ジャンプになるはずが、ホップ・ステップ・ステップにとどまったなという印象がある。次作では本当のジャンプになることを期待したい。