2005/01/03(月)「白いカラス」US公開版
日本公開版は見ていないが、こちらには「日本公開版では観られない、ニコールのセクシー・シーンを収録」とのことなので見てみた。どこがセクシー・シーンなんですかね。そのあたりを期待すると肩すかしを食いますね。
それはともかく、映画は退屈せずに見られた。賛否があるようだが、要するに題材を詰め込みすぎて失敗した感じがありあり。主人公アンソニー・ホプキンスの嘘で固めた人生の苦悩だけに絞れば良かったのだと思う。ホプキンスの人生最後の恋の相手役ニコール・キッドマンもホプキンスに劣らない苦悩を抱えているので焦点が分散してしまう。なにせ、継父からの性的虐待、夫からの暴力、子供の事故死という不幸の三点セットを抱えているのだ。しかし、それでもキッドマンはいつものようにすごく魅力的なのだから、キッドマンが悪いとも言えない。これに対してホプキンスはミスキャストに近いと思う。
原作はフィリップ・ロス。脚本を「スター・トレック カーンの逆襲」の監督ニコラス・メイヤーが書き、ロバート・ベントンが監督している。ゲイリー・シニーズが語り手の作家役で、エド・ハリスがキッドマンの夫役で出演。こういう一流スタッフ、キャストが携わりながら、映画がそれほど芳しくない出来に終わることもあるのだ。
ついでに書いておくと、邦題「白いカラス」は内容に合っているようで合っていない。白いカラスと言えば、アルビノだろうが、主人公はアルビノではないからだ。
2005/01/03(月)最初に見た映画の記憶
僕自身は記憶がない。というか、タイトルは分からない。親が連れて行った時代劇だったと思う。自分の子供に関しては覚えている。僕が連れて行ったからだ。長女=「ガメラ2 レギオン襲来」(1996年) 長男=「クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦」(1998年) 次女=「トイ・ストーリー2」(1999年、見たのは2000年)。長女は家内のお腹の中にいる時、「機動警察パトレイバー2 The Movie」(1993年)も体験している。
なぜこんなことを書いたかというと、昨日、WOWOWでガメラ3部作を一挙放映したから。長男は「ガメラ3 邪神覚醒」(1999年)を見たとき、映画館でガメラのソフビを買ったが、「あれはもう、壊れて捨てた」そうだ。
2005/01/03(月)「カンフーハッスル」
傑作「少林サッカー」以来2年ぶりの周星馳(チャウ・シンチー)の新作。序盤に、「大いなる力には責任が伴う」という「スパイダーマン」のようなセリフがある。カンフーの達人3人がナンバー2の殺し屋に負けて瀕死の重傷を負った際、大家夫婦に言うセリフ。この大家夫婦(ユン・ワーとユン・チウ)は世俗的な外見とは裏腹に凄腕のカンフーの達人であり、殺し屋2人を超人的な技で簡単にやっつけてしまう。そして主人公シン(チャウ・シンチー)にはどんな傷からも回復する力があり、やがて自分の本当の能力に覚醒していく。これを見ると、この映画がカンフー映画であると同時に超人映画であることが分かる(シンチーは「ドラゴンボール」のファンでもあるらしい)。序盤から徐々にエスカレーションし、デフォルメされていくアクション描写には快感があり、ドラマよりもカンフーアクションを見せることに徹した映画になっている。「少林サッカー」にあった泣きや浪花節的な場面はないけれど、この映画もしっかりと大衆に軸足を置いた作りであり、シンチーは今回も期待を裏切らなかった。ブラックで乾いた笑いと大がかりなアクションが融合したエンタテインメントの快作だと思う。
時代は文化大革命前の中国。警察も手を出せない悪がはびこり、斧を武器にした斧頭会(ふとうかい)が凶暴さでのし上がってくる。斧頭会は貧困地区には目もくれなかったが、豚小屋砦と呼ばれる集合住宅にチンピラ2人が訪れたことで豚小屋砦は斧頭会に目を付けられることになる。チンピラ2人はシンと相棒(ラム・ジーチョン)。シンが放った花火で頭を火傷した斧頭会のメンバーの怒りを買い、豚小屋砦に攻撃を仕掛けるのだ。しかし、砦には3人のカンフーの達人がいた。手下をボコボコにされた斧頭会の組長サム(チャン・クォックワン)は怒り、殺し屋ナンバー2を砦に差し向ける。
映画は善よりも悪の方が儲かるとして、斧頭会に入った主人公がやがて自分の力に目覚めていくという展開をたどる。中盤、シンが大家夫婦を倒そうとしてナイフを投げると、壁にぶつかって跳ね返ったナイフがシンの肩に突き刺さる。後を引き継いだ相棒がナイフを投げると、それがシンのもう片方の肩に突き刺さり、さらにもう1本投げようとして振りかぶると、それもシンに刺さってしまう(これは北野武「座頭市」の影響か)。このブラックなユーモアがとてもおかしい。さらにここにはだめ押しのギャグがあるのだが、この場面を見て思うのはシンチーの笑いがとても乾いているということ。キートンやロイドやマルクス兄弟の乾いた笑いよりも、チャップリンのペーソスの方が日本では人気があるけれど、ペーソスなどとは無縁のシンチーのギャグの才能は貴重だと思う。幼いころに助けた少女との交流も映画は描いているけれど、ここが物語の主軸に絡む場面なのにあまり効果を上げていないのは、シンチー、こういう描写が得意ではないからなのかもしれない。いや、それ以上にこの映画ではカンフーアクションそのものを描きたかったからなのだろう。
チャウ・シンチー映画の良さは貧しい庶民と正義に軸足を置いていることで、それを笑いにくるめながらも本気なのがよく分かる。「少林サッカー」でさえ渡ったCGはここでも存分に発揮され、クライマックスの悪の集団およびナンバーワンの殺し屋(ブルース・リャン)と主人公の対決は、「マトリックス」を凌駕していると言っていい(アクション監督は最初、サモ・ハンで途中から「マトリックス」のユエン・ウーピンに代わった)。シンチーは卑屈でいい加減なチンピラの役もよく似合うが、飛び切り強いカンフーの達人の役にも違和感がない。ジェット・リーともジャッキー・チェンとも違った庶民的なカンフースターなのだなと思う。