メッセージ

2005年10月31日の記事

2005/10/31(月)「四月の雪」

 「四月の雪」パンフレット省略が洗練を感じさせ、寡黙さが余韻を生む。描写によって物語を語るのが映画の基本とすれば、ホ・ジノの演出は映像表現の高度な部分を兼ね備えている。セリフで心情を説明するような野暮なことはしていないし、単なる不倫を純愛とも悲恋とも声高に主張したりはせず、ただただ2人の行動を静かに綴るのみだ。これが唯一崩れるのは主演の2人が交通事故死した若者の葬儀に行く場面。ここの類型的な演出は映画のトーンから浮いている。ここは2人が心を通わせる契機となる場面なので、なおさら慎重な演出が必要だっただろう。描写のあまりの自然さは逆に多少の不満にもつながっていて、物語にもう少しひねりを加えてくれないと、日常的な描写ばかりでは一般的な面白みには欠ける。物語をどう表現するかにホ・ジノの関心はあり、物語自体をどう面白くするかに心を砕いてはいないようだ。もちろん、そういう映画の方法もあるので、これは単に好みの問題なのだが、それならば、所々にウェットなピアノ曲など流さない方が良かったと思う。意識的に劇的効果を廃するのならば、音楽は最小限にとどめた方が良かった。

 最も残念なのは、これは監督の責任ではないけれど、韓流ブームの中核的な映画としてパッケージングされていることだ。主演がペ・ヨンジュンである必要はなかったし、そうでない方が下手な反発にはさらされず、映画の本質は見極めやすくなっただろう。

 キネ旬10月上旬号のインタビューでホ・ジノはヨンジュンについて、こう語っている。

 「後半になって、インスが能動的に動くのが難しい状況に追い込まれてからは、私はもう少し間接的で深みのある演技をしてほしかったけれど、俳優としては何か積極的に動ける表現がしたかったようです。これは私の映画に出演する俳優たちが共通して持つ希望ですけれど……」

 感情表現を俳優にはできる限り抑えさせ、それを別の描写によって表現するというホ・ジノの方法がヨンジュンには理解できなかったらしい。ヨンジュンが溌剌とするのは不倫の一線を踏み越えた後に見せる笑顔であり、この脳天気な笑顔がヨンジュンという俳優のキャラクター的限界を表しているように思う(「スキャンダル」の時のようにメガネを外せば何とかなったか)。監督の意図を理解できなかったのは“韓国の宝石”と称されるソン・イェジンにも言えることかもしれない。得意の泣く演技を封じられたイェジンはそれによって、別の魅力を引き出されることになった。ヨンジュンと会う前にシャワーを浴びる女心やベッドシーンのエロティシズム。清純さとは異なるそうした大人の女の魅力をイェジンは見せており、クロースアップを多用した撮影がそれを余すところなく伝えている。

 ホ・ジノはこの映画を長く撮ってたくさん切ったという。無駄な部分を切りつめていく作業こそが洗練を生む。それをよく理解しているのだと思う。饒舌を廃した寡黙な映画。かつてはそういう映画が邦画にもあったが、今はほとんど見かけることがなくなった。しかし、この何ということもないストーリーの映画を支えているのはそうした方法論なのである。ほとんど純文学のノリに近いこの方法では大衆性を得ることは難しいと思う。だからといって、ホ・ジノの価値が損なわれることがないのもまた確かなことではある。