2006/01/11(水)「輝く断片」
休みだが、風邪で体がだるいので、映画には行かず、昨日届いた「輝く断片」(シオドア・スタージョン)を読む。8編が収録されており、最初の2編は昨日、寝る前に読んだ。最初の「取り替え子」は遺産相続に赤ん坊が必要だった若い夫婦が川で赤ん坊を拾う話。その赤ん坊は取り替え子(赤ん坊と入れ替わった妖精)で大人のような口をきく。この描写を読んで、「ロジャー・ラビット」に出てきた赤ん坊ベイビー・ハーマンを思い出した。ああいう乱暴な口をきくのである。気楽に読めたのはこれと次の「ミドリザルとの情事」までで、あとは(特に後半の4編は)切なく重い話である。
最後に収録された表題作は世間から用なしと思われている50代の男が通りで瀕死の重傷を負った女を見つけ、アパートに連れ帰って懸命に看病をする話。傷口の描写が細かいので、もしかしてこれはネクロフィリア(死体愛好症)の男の話かと思えてくるが、やがて女は意識が戻る。男にとっては女の世話をすることが生き甲斐になる。生来の醜い容貌で親からも見捨てられ、軍にも入れてもらえず、同僚からもバカにされる男にとってこの女は人生の輝く断片(Bright Segment)なのだ。自分が必要とされている存在であることを自覚できるからだ。「シン・シティ」のマーヴ(ミッキー・ローク)を思わせる主人公はマーヴ以上にあまりにも空虚な人生を送っており、その絶望的な孤独感が悲しい。
社会に不適格な主人公という設定は「ルウェリンの犯罪」「マエストロを殺せ」「ニュースの時間です」にも共通する。「マエストロを殺せ」の主人公も醜い容貌という設定である。こうした主人公の設定には不遇の時代が長かったというスタージョンの人生が反映されているのかもしれない。帯に「シオドア・スタージョン ミステリ名作選」とあり、「このミス」の4位にも入ったが、この短編集をミステリとして読む人は少ないのではないか。
大森望の解説を読むと、「輝く断片」はミステリマガジンの1989年8月号(400号記念特大号)にリバイバル掲載されたとある。僕はこの号を買っているはず。普段は雑誌掲載の短編を読まないとはいっても、記念特大号には名作・傑作が収録されているのでいくつかは読む。それでも読んでいないということは当時は食指が動かなかったのか。ちなみにミステリマガジンは2月号がちょうど600号。記念特大号の特集は3月号で2005年ミステリ総決算と合わせてやるらしい。
2006/01/05(木)「ゴジラとアメリカの半世紀」
「ミステリマガジン」1月号のレビューで紹介されていたので読んだ。レビューではGodzillaの接尾語zillaがアメリカではあらゆるものに付けられるほどポピュラーになったゴジラの影響力を中心に紹介してあり、確かにこの本の4章「『ゴジラ』は如何にして、アメリカで『ガッズィラ』になったか」と5章「ゴジラファンであるということ」にはそうした側面の分析・紹介があるのだけれども、この本、それ以前に立派なゴジラ映画論になっている。
1章から3章まで(「いとしのゴジラ」「ゴジラの誕生」「シリーズの歩み」)は間然するところのないゴジラ映画の的確な論評である。著者のウィリアム・M・ツツイはカンザス大学歴史学部の準教授で専攻は現代日本史。名前からして日系人だろう。アメリカではゴジラ映画を配給会社で編集・削除した上で公開することが多い(第1作にレイモンド・バーが“出演”したのは有名だ)が、著者はすべて元の映画を見ているようだ。第1作でゴジラを演じたのが大部屋俳優でスタントマンだった中島春雄であるとか、製作の背景であるとか、日本人以上に詳しくマニアックである。
ローランド・エメリッヒが監督したハリウッド版ゴジラについて「度が過ぎる失敗作で、世界中のゴジラファンの期待をことごとく裏切る結果となった。もっと率直に言わせてもらうと、怪獣王の伝統、キャラクター、精神を冒涜してしまったのだ」と酷評している。これを見ると、著者が真性のゴジラファンであることが分かる。ちなみに著者が評価しているのは第1作と金子修介監督の「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」それにシリーズの他の作品とは異質で“一種独特の雰囲気を持っている”「ゴジラ対ヘドラ」である(この異質さのために監督の坂野義光はプロデューサーの田中友幸からおしかりを受け、その後長編映画を撮っていないという<%=fn '日本映画データベースによると、この後は「ノストラダムスの大予言」に協力監督とのクレジットがあるのみ。' %>)。公害をテーマにしたヘドラは僕も公開当時に見てショックを受けた。内容やテーマ性よりも面白かったのは劇中に流れる歌をはじめとしたポップで現代的な作りだった。ゴジラシリーズの中では上位に来る作品と思っているので、著者の評価はとてもうれしい。
ここにはチャチな特撮への冷笑も物語の非現実性への異議申し立てもない。著者は長所も短所も見極めた上で心の底からゴジラ映画とその巨大な影響力(ゴジラに影響を与えた「キング・コング」や「原子怪獣現わる」をはるかに超えた巨大な影響力)を評価しているのだ。だから読んでいて気持ちがいい。本書に書かれているアメリカのゴジラファンの活動を読むと、日本より熱狂的である。アメリカのファンが好んでいるのは平成シリーズでも新生シリーズでもなく、60年代から70年代にかけてゴジラが正義の味方として活躍した映画群なのだという。これは意外だった。そのころのゴジラ映画が繰り返しテレビで放映され、平均すると、週に一度はテレビで流されていたことが大きいようだ。
中公叢書に入っているので、こうした堅いタイトルになったのだろうが、原題は“Godzilla on My Mind”(わが心のゴジラ)。これはゴジラへの熱烈なラブレターなのである。中身も読みやすくユーモラスかつ詳しく、本来ならば、普通のハードカバーで表紙にゴジラのイラストや写真を入れて柔らかく作った方がいい本だったと思う。ゴジラシリーズのファンは必読の名著。
2006/01/02(月)「容疑者Xの献身」
「このミス」と週刊文春で1位になった東野圭吾のミステリ。僕はこの小説を読んで、まずトリックが先にあって、それに沿った容疑者を設定したのだろうと思った。このトリックを成立させるためには容疑者のキャラクターが、トリックを行うのに不自然に思わせないものであることが必要だからだ。ここまでやるキャラクターに説得力を持たせることが要求されるのだ。しかし、東野圭吾は「このミス」のインタビューで、「少なくともトリックが先ということは絶対にありません」と語っている。「最初に作るのはキャラクターや世界観ですね。今回で言えば、まず湯川を長編で使うという前提と、さらにその強敵を設定する、ということが大きかったですね」
容疑者側が天才なら探偵側も天才。本格ミステリにぴったりの構図である。こうした設定の下、東野圭吾は容疑者、というか事件の隠蔽に尽力する高校教師に筆を割く。思いを寄せる女が発作的に犯した殺人を隠蔽するために天才的な高校の数学教師・石神が協力する。事件を捜査する刑事・草薙の友人で天才的な物理学者の湯川学はその石神と大学時代に親しかった。石神が怪しいとにらんだ湯川は推理を働かせる。
よくできた本格ミステリで1位にも異論はないが、ぜいたくを言えば、もっと石神のキャラクターを掘り下げた方が良かったと思う。キャラクターよりもまだトリックの方が浮いて見えるのだ。社会に認められなかった天才数学者の悲哀をもっと掘り下げれば、小説としての完成度をさらに高めることができたのではないかと思う。これの倍ぐらいの長さになってもかまわないから、そうした部分を詳細に描いた方が良かった。一気に読まされてある程度満足したにもかかわらず、そんな思いが残った。