2006/06/18(日)「グッドナイト&グッドラック」
アカデミー賞6部門ノミネート。1部門も取れなかったが、ジョージ・クルーニーの「シリアナ」での助演男優賞受賞はこれとの合わせ技と考えていいのかもしれない。最初と最後のエド・マローの演説は感動的で、マローがテレビに対して希望を捨てていないのがよく分かる。「テレビは人間を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を秘めている。だが、それはあくまでも使い手の自覚次第だ。そうでなければ、テレビはメカの詰まった“ただの箱”だ」。この映画もまたマローの言葉に沿うようにただの娯楽作品ではない。安っぽいヒロイズムやエモーションとは無縁の堅い演出で、圧力をはねのけてジョゼフ・マッカーシー上院議員を批判する番組を作るマローとそのスタッフの姿を真摯に描き出す。マッカーシーの赤狩りは恐怖政治と同じことで、刃向かえば自分の身に火の粉が降りかかかる。それに立ち向かう勇気の必要さを映画を訴えており、いつの時代にも通用する話である。マローを演じるデヴィッド・ストラザーンの厳しい硬質の演技に感心するが、それ以上にこれはクルーニーのスタンスをはっきりさせている映画だと思う。「シリアナ」とこれでクルーニーはハリウッドの良心を一人で背負って見せた。クルーニーはアメリカの自由を信じているのだろう。
パンフレットによれば、赤狩りは「時代と偶然が生んだデマゴーグ」という。共産主義への恐怖が広がっていた時代の潮流にマッカーシーは運良く乗った。実際には下品で知性も持ち合わせていなかったようだが、そんな人間でも時代によっては社会の中心になってしまうことがあるのだ。とりあえず反共は当時のアメリカでは正義だったろうし、共産主義への支持は悪とされる雰囲気が一気に広まっていった。CBSの報道番組「シー・イット・ナウ」のキャスターを務めていたマローはそんな中で地方紙の小さな記事に目を留める。空軍予備役士官のマイロ・ラドロヴィッチの家族が共産主義であることを疑われ、除隊処分にされかけているという記事。マローとプロデューサーのフレッド・フレンドリー(ジョージ・クルーニー)はこの事件を番組で取り上げ、真相は分からないのに、なぜ除隊処分になるのかと、マローは番組で呼びかける。これがマッカーシーとの戦いの始まり。マッカーシー側も反撃に出て番組スタッフにはさまざまな圧力がかかってくる。
デマゴーグを排除するのにジャーナリズムは知性と勇気で立ち向かう。そうとらえてもいいのだろうが、もっとこの映画は広い範囲を見つめているように思う。勇気と知性の重要さは何もジャーナリストだけには限らない。僕らはついつい権力者の言うことに流されてしまうけれども、マローやフレンドリーのように一人ひとりが物事の本質を見抜く能力を持たなくてはならないのだろう。デマであっても世間を席捲すれば、実際に被害は起きる。ハリウッドでも犠牲者が出た。僕はこの映画で初めてマッカーシーの映像を見た。マッカーシー役に既存の俳優を使わなかったことは正解で、それに合わせたモノクロームの映像がドキュメントタッチの効果を上げている。
先に挙げたマローの演説はジャーナリズムが世間に迎合することを戒めた言葉でもある。安い製作費で視聴率が取れるクイズ番組をCBS上層部は「シー・イット・ナウ」の代わりに放送することにする。報道機関にいる人間がすべてジャーナリストではない。ジャーナリストは外ばかりでなく、内でも戦わなければならない。これまた世間一般の組織にも当てはまることだろう。
2006/06/08(木)「情愛」
R18指定の韓国映画。確かにベッドシーンはそれなりだが、R18じゃなくてもいいような気がする。この映画、何がいいといってオム・ジョンファが良すぎる。“韓国のマドンナ”としてかなり有名らしいが、韓流にはうといので知らなかった。
オム・ジョンファは歌手で女優。今年35歳。「情愛」は2002年の映画だから30歳か31歳のころだろう。この映画、公式ファンサイトによると、原題は「結婚は、狂気の沙汰」というらしい。プレイボーイの男(カム・ウソン)がブラインドデートで美人の女(オム・ジョンファ)と出会う。2人は意気投合するが、男は結婚は考えていない。医師と結婚した女はそれでも男の元へ週末通ってくるようになる。
映画としてはまずまずの出来。カム・ウソンがプレイボーイに見えないところが誤算で、ここはもっとカッコイイ男優じゃないと説得力を欠く。しかし、オム・ジョンファに関して言えば、その魅力を堪能できる。清楚でセクシーというのがいいですね。
2006/06/02(金)「いちご白書」
別に傑作ではないのだが、60年代の学生運動の雰囲気は伝わってくる(映画の公開は1970年)。ノンポリのボート部の学生サイモン(ブルース・デイヴィソン)が何となく学生運動にかかわる。きれいな女子学生リンダ(キム・ダービー)に惹かれたせいもあるが、そのうちに大学の姿勢に怒りを感じて、本気でかかわるようになる。クライマックス、大学を占拠した学生たちを州兵が催涙ガスをまきながら強制排除するシーンは有名。
監督のスチュアート・ハグマンは「スパイ大作戦」などテレビの作品が多い。ジョニ・ミッチェルが歌う主題歌「サークル・ゲーム」はラジオでよく流れていたので懐かしかった。。
2006/06/01(木)「ナイロビの蜂」
レイチェル・ワイズとレイフ・ファインズがしみじみと良い。ファインズがイギリスに帰り、妻のいない寒々とした自宅で泣き崩れるシーンなどは胸が詰まる。最愛の者を亡くした男の喪失感がよく出ていた。
だが、あのとんでもない傑作「シティ・オブ・ゴッド」のフェルナンド・メイレレス監督作品としては物足りない。「シティ・オブ・ゴッド」は編集とカット割りに驚嘆させられたが、今回は技術的におっと思わせるシーンはなかった。オーソドックスな演出なのである。好みから言えば、主人公には復讐の鬼と化して欲しかったところ。それがそうならないのはジョン・ル・カレ原作だからだろう。
2006/05/28(日)「クラッシュ」
交通事故で始まり交通事故で終わる映画だが、タイトルの「クラッシュ」は人と人との衝突を意味しているようだ。毎日毎日、苛立ちながら暮らしている白人、黒人、ペルシャ人、中国人、メキシコ人たちのエピソードをポール・ハギス監督はロサンゼルスの縮図として描き、わずかな前進と希望を感動的に提示して映画を終える。これがロサンゼルスの映画人に支持されないはずはなく、アカデミー作品賞も納得できる。
ハギスはパンフレットで「この映画のテーマは人種や階級についてではなく、見知らぬ人間への恐怖についてである」と語っている。見知らぬ他人への恐怖が銃犯罪を生む。「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002年)でマイケル・ムーアが示した結論をフィクションとして描いた作品と言えるだろう。人種差別、社会的偏見を含めた相互無理解が悲劇を生んでいく。だから悲劇から一転して幸福感にあふれる透明マントの奇跡のようなエピソードは天使のいない街に天使が舞い降りた瞬間を描いたものとして胸を打つ。厳しさに足りない面はあるし、人間関係が接近しすぎていくところなどいくつかの弱点も見受けられるが、ハギスの脚本は優れたものだと思う。何より希望を捨てていないところがいい。ラスト、ロサンゼルスに降る雪は街の浄化を意味しているのだろうか。
映画には多数の人物が登場する。麻薬中毒の母親を持つ黒人刑事グラハム(ドン・チードル)と同僚の女性刑事リア(ジェニファー・エスポジット)、若い黒人の2人組アンソニー(リュダクリス)とピーター(ラレンツ・テイト)、検事のリック(ブレンダン・フレイザー)とジーン(サンドラ・ロック)夫婦、その家の鍵の修理に来たダニエル(マイケル・ペニャ)、ペルシャ人の雑貨店経営者ファハド(バハース・スーメク)、白人警官ライアン(マット・ディロン)とハンセン(ライアン・フィリップ)、テレビディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)とクリスティン(サンディ・ニュートン)の夫婦。序盤はこうしたキャラクターのエピソードがばらばらに描かれていき、ちょっと飽きたかなと思い始めたところで多重衝突事故が起こる。事故現場に駆けつけたライアンの行動がまず最初のエモーショナルな場面。それまでの描写で黒人差別主義者のように思われたライアンは転倒した車の中から黒人女性を必死に助けようとする。このライアンに限らず、ハギスの脚本は単純に人間を善悪に色分けしていない。だから話が真実味を帯びてくる。
俳優のビリングのトップはサンドラ・ロックだが、このいつも苛立ち、差別的発言を公言する女性のキャラクターは終盤にある出来事で変化するという場面が用意されていながらも、決して主人公ではない。貧困や差別や家庭の事情で登場人物たちにはそれぞれに苦悩があるが、中でもドン・チードルの役柄は他人の理解どころか、母親にさえ理解されていない点で悲痛である。しかも弟を助けようとした行為が少しも報われない。この弟が実は、という部分が終盤に明らかになる。そうした人間関係の接近は先に書いたように弱点ではあるのだけれど、ハギスはそれを承知の上でフィクションを構築したのだろう。伝統的なハリウッド映画というのはそういうものである。観客に現実の厳しさだけを見せるよりはいい気分で映画館を出させる。ハギスはハリウッド映画の範疇にとどまりながら、良心的な作品を作った。志の高さがこの映画の美点なのだと思う。