2009/10/03(土)「子供の情景」
19歳でこの映画を監督したハナ・マフマルバフによれば、いろいろな人物から破られる主人公のノートはアフガニスタンの文化を象徴しているのだという。タリバンによる仏像の爆破シーンに始まり、同じく仏像の爆破シーンで終わるこの映画の原題は「BUDDHA COLLAPSED OUT OF SHAME」。ハナの父親で映画監督・作家のモフセン・マフマルバフの著書「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」から取っている。
子供の世界に仮託してアフガニスタンの現状を描くという狙いは悪くないが、僕には比喩が幼すぎるように思えた。タリバンの真似をして戦争ごっこをする男の子たち。ノートが破られる場面で決まって流れる深刻な音楽。そしてラストの「自由になりたかったら死ね」という皮肉なセリフ。映画そのものの技術のレベルから言えば、これは習作の域を出ていないと思う。それにもかかわらず評価すべきなのはアフガンの現状を伝えようとする意志があるからだろう。というか、そこしか評価するところはない。ハナ監督、次は比喩に頼らず、正面からアフガンの現状を取り上げて欲しい。食い足りない気分が残ったので、昨日、amazonに注文したモフセンの著書を読んでみようと思う。
破壊された石像が瓦礫となって残るバーミヤン。主人公のバクタイ(ニクバクト・ノルーズ)は6歳の女の子で岩場の洞窟が家である。隣に住む少年アッバス(アッバス・アリジョメ)の影響で学校に行きたいと思ったバクタイは学校で必要なノートを買うために家のニワトリが生んだ卵を市場で売ろうとするが、誰も買ってくれない。卵をパンと交換したバクタイはようやくノートを手に入れ、学校に行く。そこは男子校で教師はバクタイに川の向こうにある女子の学校へ行けという。女子校に向かったバクタイは途中で戦争ごっこに興じる少年たちに囲まれ、「女は勉強しちゃダメだ」と言われ、ノートを破られる。石打ちの処刑にされそうになったところへアッバスが通りかかり、バクタイはなんとか難を逃れて学校へたどり着く。
現実のアフガンを舞台にしながら、ストーリーは寓意に満ちている。バクタイが学校に行きたいと思うのはアッバスが読んでいた教科書のストーリーに引かれたからだ。「ある男が木の下で寝ていたら、頭にクルミが落ちてきた。目をさました男は、クルミで良かった。カボチャだったら死んでいたところだと言った」。この話もソ連、タリバン、アメリカから支配され続けてきた現実のアフガンの寓意にほかならない。しかし、映画全体を比喩で覆ってしまうと、何も知らない人にはメッセージが伝わりにくくなるだろう。現実を伝えるには現実をそのまま描写した方が良かったと思う。
2009/09/30(水)「あの日、欲望の大地で」
ファーストショットは平原で燃え上がるトレーラーハウス。原題の「Burning Plain」はパンフレットの表紙にもなっているこの場面から取ったものだろう。このトレーラーハウスが悲劇の始まりとなったわけだから当然だ。邦題の「あの日、欲望の大地で」は良くない。登場人物の誰も欲望で動いているわけではないからだ。夫と子どもがありながら妻子ある男と密会を続ける主人公の母親(キム・ベイシンガー)は不実で自堕落な女に見えるが、後で描かれる2つの悲痛なショットでそうではないことが分かってくる。レストランのマネージャーを務めながら、男と行きずりの関係を続ける主人公のシルヴィア(シャーリーズ・セロン)もまた行動の根幹にあるのは欲望ではない。
「21グラム」「バベル」の脚本家で、これが長編映画監督デビューとなるギジェルモ・アリアガはこれまでの脚本と同じように時系列をバラバラにして断片の描写を積み上げていく。現在のパートは青を基調とした寒々とした色彩で、過去のパートは温かな色彩でと分けてはいるのだけれど、並列的に描かれるため最初は人間関係もエピソードのつながりもまったく分からない。「21グラム」を見た時に僕は「物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ」と思った。この映画に関してはこの手法で良かったと思う。ミステリアスな雰囲気が作品に奥行きを与えているからだ。悲劇が横たわる母と娘、その娘とそのまた娘との関係をアリアガは重厚なタッチで描いている。断片を積み重ねる手法にもかかわらず、見ていて映画への興味が薄れないのは映像に力があるからだろう。
時系列をバラバラにするのは「21グラム」「バベル」の監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの趣味かと思ってきたが、考えてみれば、脚本を書いたアリアガの手法であることは当然なのだった。小説家でもあるアリアガの物語を語る手法は完成されている。語り口が身上とも言える映画なので、時系列に沿ってストーリーを紹介すると、映画の面白みも半減してしまう。何も知らずに見た方が良い映画と言える。
アリアガの演出・脚本は優れているが、映画を支えているのは何よりもシャーリーズ・セロンだ。美貌とスタイルに恵まれたセロンはアイドル的な映画スターになることも簡単だったが、それを拒否して13キロ体重を増やし、過剰なメイクを施して「モンスター」に出演した。「モンスター」での演技力は評価されてしかるべきものだったけれど、同時に僕はやりすぎではないかとも思った。演技が人工的で主人公の造型にも無理があった。その後の「スタンドアップ」にも僕は無理を感じたが、それに比べてこの映画のセロンは自然体である。虚無感漂う主人公を演じて間然とするところがない。しかも化粧っ気がないにもかかわらず美しい。悲しみに彩られた主人公にしっかりとリアリティを与えている。
脚本で惜しいと思ったのは過去と決別し、自傷行為を行う主人公の行動がやや説得力を欠くことか。映画の構成に凝る前にここをしっかりと補強した方が良かったと思う。
2009/09/26(土)「インスタント沼」
脱力系の緩いギャグを詰め込んだコメディ。食後の眠気を完全に吹き飛ばすほどではなかったが、変わったキャラクターが多数登場し、”ウルトラスーパーミラクルアルティメイテッド”な展開に笑った。
インスタント沼とは主人公の沈丁花ハナメ(麻生久美子)が父親から贈られた(100万円で買った)土蔵の中に詰まっていた土に水をかけて作った沼のこと。ハナメは10杯のミロに10CCの牛乳をかけてドロドロの状態にして飲むのが好きで(ハナメはこれをシオシオミロと呼ぶ)、土蔵の土がかつての沼の土を集めたものであり、水をかければ沼が出来上がるインスタントな沼の成分であることを察知する。クライマックス、このインスタント沼からドドドドドーっとあれが登場するシーンはなんとなく「千と千尋の神隠し」を想起させた。非日常のファンタジックな描写を含みつつ、底なし沼のようにジリ貧のOLが元気になっていく姿を描いてまず楽しめた。いや頭の隅にはもっと楽しませてくれてもいいんじゃない、という思いは残るのだけれど、三木聡監督の映画には他の誰にもないユニークな個性があり、そのユニークさが面白かった。
ハナメは雑誌の編集長だったが、返品の山を築いて雑誌は休刊。ハナメは会社をやめ、荷物を整理していたところで古い手紙を発見する。それは母親(松坂慶子)が若い頃、ハナメの本当の父親に宛てた手紙だった。その母親は河童を探しに行った池で溺れ、意識不明となる。手紙の宛名は沈丁花ノブロウ。住所を探し当てノブロウを訪ねると、父親は風変わりな骨董店「電球商会」を営み、電球のおっさんと呼ばれていた。風間杜夫がこの父親を演じてほとんど怪演と言って良い演技を見せる。電球の店によく来るパンクロッカーのガス(加瀬亮)と仲良くなり、父親にも影響されて貯金の100万円をはたいて骨董店を始める。店はなかなかうまくいかない。父親はハナメに「うまくいかない時は水道の蛇口をひねれ」とアドバイスする。
なぜ水道の蛇口をひねるのかというと、水がたまる間にジュースを買いに行ったり、食事に行くのである。帰って水があふれていなかったら成功。ほとんど意味がないとも思える行為に熱中することで、なんとなくハナメは元気になっていく。三木聡が狙っているのは爆笑ではなく、微妙なおかしさだろう。この微妙なユーモア、ずれたおかしさが映画にはあふれている。くだらないと言ってしまえば、それまでのことだけれども、このユーモア、愛すべきものがある。緩い展開に緩いギャグ。日常から離れるにはそうしたものが必要なのだろう。
麻生久美子が今年出た映画は小さな役まで含めると5本らしい。「おと・な・り」「ウルトラミラクルラブストーリー」とこの映画の3本を見た限りでは、この映画の役が一番溌剌としていて良かった。鴨居に何度も頭をぶつけるリサイクルショップの松重豊とか、会社の部長の笹野高史、同僚のふせえりなどが微妙におかしい世界の構築に貢献している。
2009/09/22(火)「男と女の不都合な真実」
下ネタ満載のラブコメ。テレビ局の有能な女性プロデューサーと本音のトークで人気の下品でHな恋愛カウンセラーのおかしなラブストーリーを描く。four letter wordsがポンポン飛び出し、これはセリフによるR15+指定なのだろうが、そうした過激さが痛快にはなり得ていないのが惜しい。バイブレーター付きの下着を身につけたために、レストランで起こる騒動など何やってるんだと思う。
話の進め方、エピソードの組み立て方が洗練されていないし、ロマンティックなものが欠けている。何より主演のキャサリン・ハイグルにいまひとつ魅力がない。こういう役柄なら、メグ・ライアンやゴールディ・ホーン、リース・ウィザースプーンのようなキュートでコケティッシュなものが欲しい。相手役のジェラルド・バトラーの懐の広さに比べると、随分見劣りがして、バトラーの良さのみが目立った。監督は「キューティ・ブロンド」のロバート・ルケティック。
アビー(キャサリン・ハイグル)はサクラメントにある地方テレビ局のプロデューサーで朝のニュース番組を担当している。有能だが、私生活では理想が高すぎて男性に縁がない。番組の視聴率も2%台に下降してしまう。上司は視聴率を上げるため、人気上昇中のマイク(ジェラルド・バトラー)をコメンテーターとして起用する。マイクの「Ugly Truth」というコーナーは既成の恋愛観を打ち砕く本音のトークで反響を巻き起こし、視聴率が上がるが、理想の男性とは正反対の粗野なマイクにアビーは反発を繰り返す。そんな時、アビーの家の隣にハンサムな医師コリン(エリック・ウィンター)が引っ越してくる。コリンこそ理想のタイプと舞い上がったアビーはマイクのアドバイスを受けて、男が求める理想の女性を装い、コリンと親しくなっていく。それを見て、マイクは複雑な心境になってくる。
下品な外見の下にナイーブなものを秘めたマイクをジェラルド・バトラーはうまく演じている。前半に比べて後半が面白いのはそうしたマイクのキャラクターに深みが顔をのぞかせるからだが、映画自体には深みは生まれない。脚本家デビューのニコール・イーストマンの原案・脚本に「キューティ・ブロンド」の女性脚本家カレン・マックラー・ラッツとキルステン・スミスのコンビが共同脚本としてクレジットされている。高ビーな女の子が奮起してハーバード・ロー・スクールに入る「キューティ・ブロンド」は軽くて面白かったが、今回はやや不発気味。
こういう簡単なプロットの場合、エピソードにどんなものを持ってくるかで映画の出来が決まる。コリンと出会ったアビーがうれしくて飛び跳ねるシーンはリチャード・カーティス「ラブ・アクチュアリー」に同じようなシーンがあったが、「ラブ・アクチュアリー」のような粋な映画とはかけ離れた出来に終わっている。
2009/09/11(金)「ちゃんと伝える」
「史郎君、君が癌だ」。主人公の北史郎(AKIRA)は癌の父親(奥田瑛二)が入院した病院の医師からそう告知される。父親より重く、父親より先に死ぬかもしれない。予告編でも流れたこの場面からどう展開するかという部分に興味があった。
タイトルの「ちゃんと伝える」が出てくるまでに20分以上あるこの映画、タイトル前の部分で既に主人公は自分が癌であることを知っていることが後で分かる。園子音監督は時間を前後させて、物語を語っていく。しかし、どうも今ひとつ、主人公の切実さがちゃんと伝わってこないきらいがある。父親と息子の話の深め方が足りないと思う。描写の仕方に破綻はないが、印象としては平板なものがつきまとい、フツーの映画というややネガティブな結論になってしまう。
主人公は父親が元気になったら2人で釣りに行くことを約束する。それは結局、かなえられない。そこで主人公が行う奇異な行動は父親との約束を果たすためではなく、恐らく自分のため、父親との思い出を何か形にして残しておきたかったためだろう。サッカー部のコーチで厳しかった父親と主人公はこれまで必ずしも仲の良い親子とは言えなかった。それを取り戻すかのように主人公は入院した父親のもとに毎日通うようになる。一緒に釣りに行くことは父親の希望であると同時に主人公の強い希望でもある。自分が癌にかかったことが分かった後ではなおさらだ。
というようなことは分かるのだけれど、やや説得力を欠く。恋人(伊藤歩)とのエピソードを抑え、父と息子に限った方が話の深みは出たのではないかと思う。出演者たちは悪くない。脚本の段階で、さらに一工夫欲しいところだった。