2011/08/23(火)「ツリー・オブ・ライフ」
テレンス・マリック監督の「ニュー・ワールド」以来6年ぶりの作品で、カンヌ映画祭パルムドールを受賞した。隕石が地球に落ち、生命が生まれ、生物に進化して恐竜が出現するという序盤の長いシークエンスを見て、ああ、「ツリー・オブ・ライフ」のライフとは人生ではなく、生命のことかと、やっと分かったのだが、実はこのタイトル、エデンの園にある生命の木から取ったのだそうだ。そういうことも知らない聖書の門外漢にはちょっとつらい映画ではある。
もっとも、テレンス・マリック、普通のドラマとしてこの映画を撮ってはいない。特に物語がよく見えてこない序盤はそうで、30分ぐらいで劇場を出て行く人がいる(僕が見た時に1人いた。ネットの感想を読むと、けっこう多いらしい)のはドラマが盛り上がっていかないからだ。マリックは物語ではなく、自分のビジョンを見せている。エモーションが持続しにくいのはビジョンとドラマの融合が技術的にうまくいっていないのが要因で、それ以上の意味はないように思える。ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンを世界中に派遣して撮らせたというさまざまな映像は美しく、思索をこめた作品ではあるが、端的にドラマの構築に失敗している。
映画を見ながら思い浮かべたのはケン・ラッセル「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」やイングマール・ベルイマンの「沈黙」「夜の儀式」といった初期の作品だった。キリスト教のモチーフが至る所にあるからで、苦悩する人間に対して神は沈黙している。分かりにくいのはブラッド・ピットの強権的な父親が支配する家族の姿と、進化のシークエンスや地球の表情が並列に描かれることで、これをミクロとマクロという凡庸な視点で論じるのはどうかと思う。マリックは宇宙や地球のスケールに対して人間の営みはあまりにも小さいという極めて当たり前のことを言いたかったのか。そうであれば、こちらとしては冷笑的な気分にならざるを得ないのだ。
一つの明確な解を持たない映画だが、そういう映画であるがゆえの利点はあって、観客の脳内補完の余地が大きくなり、好きな解釈ができる。観客は映画を見ながら、シーンとシーンの間に自分で「しかし」とか「そして」とか「または」とかの接続詞を入れながら見ているわけだが、この映画のシーンとシーンの間にあるのはほとんどがandだ。だから観客の頭の中にはそれぞれに別の映画が出来上がることになる。ある人の感想が他の人にまったく説得力を持たないのは、脳内に出来上がった映画が違うからにほかならない。
映画の構成は成長した長男(ショーン・ペン)の回想であり、その意識の流れを映像化したためにシーンを並べたドラマの断片が多くなったのだろう。もちろん、マリックはそれを意識的に行っているのだが、それを積極的に行う意味が僕には見えてこなかった。
2011/05/05(木)「マイレージ、マイライフ」
ジェイソン・ライトマンは父親のアイバン・ライトマンより才能あるなと思う。冒頭、短いショットを重ねて出張の準備をする場面で乗せられてしまう。後は一気呵成の展開。主人公のライアン(ジョージ・クルーニー)は家庭を持たず、出張で全国を飛び回る解雇請負人。会社に代わって、不要な社員に解雇を通告するのが仕事だ。同じような生き方をしているアレックス(ヴェラ・ファーミガ)との出会い、教育を担当させられた新入社員ナタリー(アナ・ケンドリック)との交流を通じてライアンは自分の生き方を見つめ直す。大人の女性を演じるファーミガがいい。
知り合いがFacebookでこの映画のラストについて議論になっていると書いていた。果たして主人公は出張を続けるのか、辞めるのか。キャリーバッグの取っ手から手を離す場面があるからだ。主人公がどうするかは最後のナレーションから明らかではないかと思う。
「今夜、人々は家族の待つ家に帰り、1日の話をして眠りにつく。昼間隠れていた星が輝く中、ひときわ輝く光がある。僕を乗せた翼だ」。