2015/05/17(日)「映画 ビリギャル」
大学受験の成功例を描いて文部省特選にしたいぐらいの感動作だが、高校の先生が主人公をクズ呼ばわりするのに比べて、生徒を褒め、良いところを伸ばそうとする塾の先生の方がどう見ても優れているので文部省が勧めるわけにはいかないだろう。
ベストセラーとなった実話「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」を土井裕泰監督で映画化した。主演の有村架純が素直に好演し、土井監督が得意のホームドラマを絡めて笑わせて泣かせる話に仕上げている。夢を持つこと、それをあきらめないことの大切さを訴え、土井監督としては「いま、会いにゆきます」以来のクリーンヒットになったと思う。
2015/05/10(日)「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」
アカデミー脚色賞を受賞したこの映画の若き脚本家グレアム・ムーアは授賞式のスピーチでこう話した。
「主人公アラン・チューリングはこんな大舞台で表彰されなかった。でも僕はここにいる。なんて不公平なんだ。だから短い時間だけど、一つだけ言わせてほしい。
僕は16歳で自殺未遂をした。自分の居場所がないような気がして。それが今ここに立っている。
だから、自分は変わり者で居場所がないと感じている若者たちへ。そのままの自分で大丈夫、輝くときがくる」
映画の中で2度繰り返されるセリフ、「誰も想像しないような人物が誰もできなかったような偉業を成し遂げる」というセリフはムーアの強い思いを託したものなのだろう。
変わり者で孤独な天才数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)を主人公にナチス・ドイツの暗号エニグマを解読する英国チームの物語。この映画の成功はムーアの素晴らしい脚本が一番の要因だ。ムーアはチューリングの生い立ちを絡めながら、暗号解読の過程を描き、同時に空襲にさらされる戦時下のロンドンを点描し、チーム内の人間関係によりスパイ映画のようなサスペンスとミステリの要素を取り入れている。仲間と入った酒場でエニグマの復号キーに気づく場面のドラマティックな描写、終盤の悲劇的な展開、さらに心を揺さぶるエピソードをちりばめてあり、エンタテインメント映画の脚本としてまったく欠点の付けようがない。設計図がここまで完璧ならば、映画の成功はほぼ決まったようなものだ。
映画の序盤、仲間から昼食に誘われたチューリングの不器用で頓珍漢な受け答えを見ると、どうもチューリング、アスペルガー症候群か、少なくとも広義の自閉症スペクトラムだった可能性がある。他人の言葉を字義通りに受け取り、裏の意味が読み取れないチューリングは周囲に理解されず、孤独は深かっただろう。だからこそ、パートナーとなったジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)の存在が心にしみる。ジョーンはチューリングの人柄と才能を理解し、仲間と仲良くするようアドバイスする。「ジョーンに言われた」と言って林檎を配るチューリングに対して仲間が打ち解けていく場面はハートウォーミングな良い場面だ。
チューリングの暗号解読によって、戦争終結が早まり、1400万人の命が救われたとされる。暗号解読器(クリストファーと呼ばれる)のチューリングマシンはコンピューターの原型となった。しかし、戦後、暗号解読器は廃棄され、チューリングの功績は長い間、世間に知られないままだった。戦後のチューリングの運命には涙を禁じ得ない。不運なチューリングの名誉が回復されたのは2009年だという。
シャーロック・ホームズ役でブレイクしたカンバーバッチはホームズのように天才的なチューリングを繊細に演じてアカデミー主演男優賞にノミネート。パズルを解くことに抜群の才能を見せ、女性の社会進出が難しかった時代に自立した意識を持ったジョーンを演じたナイトレイは助演女優賞にノミネートされた。この映画は閉鎖的な時代と人を阻む壁にもがき、抗う2人を描いた映画でもある。ムーアはチューリングの生涯にかつての自分を重ねたに違いない。だからこんなに胸を打つドラマに仕上がったのだろう。
2015/05/09(土)「フォックスキャッチャー」
アメリカでは有名な事件らしいので予告編でも描かれているし、紹介記事にも書かれていることだが、僕はどういう事件か知らずに見た。そしてクライマックスで驚くことになった。そういう事件だったのか。この犯人はサイコパス(精神病質)じゃないか(実際には統合失調症だったとのこと)。そういう話であるのなら、大富豪でありながら何を考えているのか分からない男を演じるスティーブ・カレルの演技にも十分納得がいく。
カレルはデュポン財閥の御曹司でアマチュアレスリングで金メダルを取る選手を育てることに意欲を燃やすジョン・デュポンを演じ、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。ジョンはロス五輪レスリングの金メダリスト、マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)にソウル五輪で金メダル獲得を目指すチーム(これがフォックスキャッチャーと名づけてある)に入るよう誘う。マークは金メダリストでありながら苦しい生活を送っていた。質素なアパートでインスタントラーメンを食べる姿がわびしい。アメリカではアマチュアレスリングが盛んとは言えないので、金メダリストであってもああいうものなのだろう。マークは参加するが、妻と2人の子供を持つ兄のデイヴ(マーク・ラファロ)は誘いを断る。ジョンの豪華な邸宅の敷地内に住まいと練習場が整備され、最初はうまくいっていたマークとジョンの関係は次第に険悪なものに変わっていく。
この険悪な関係になる理由を映画は明確には描いていない。2人の間に同性愛の関係があることを匂わせるのだが、それもはっきりしない。マークとデイヴの兄弟が映画の冒頭、練習場で組み合う場面からそういう雰囲気は立ちこめている。ただし、実際にはマークに同性愛の気はなかったそうだし、ジョンとの関係もそうではなかったという。つまり映画の脚色なのだが、これも含めて3人の関係を子細に見つめ、微妙な感情の揺らぎを描いた脚本の出来は見事と言って良い。
この3人を描く一方で映画はジョンと母親(バネッサ・レッドグレイブ=そこにいるだけで貫禄の演技だ)の関係を浮かび上がらせる。一流の競走馬を所有する母親は息子も息子が好きなレスリングもバカにしている。ジョンはそんな母親になんとか認められたいと思っている。練習の見学に来た母親の前で急に選手を指導するふりをするジョンの姿が悲しい。ノーマン・ベイツのように喜怒哀楽を表に出さないジョンはノーマン・ベイツのようにマザーコンプレックスなのだろう。
ベネット・ミラー監督作品としては「カポーティ」「マネーボール」を超えて最も良い出来だ。スティーブ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロの演技がいずれも充実している。特にカレルの演技が素晴らしい。
2015/05/04(月)「セッション」
名門音楽大学にあるジャズのビッグバンドの厳しい指導者とジャズドラマーを目指す生徒をめぐる話である。見終わって思い浮かべたのは「アマデウス」。ただし、この映画にはアマデウスことモーツァルトは登場しない。出てくるのはサリエリ(以下の人々)である。天才がいなくなった(出てこなくなった)世界で天才の域に達することは金輪際ないであろう2人の凡才が敵対する話。そう受け止めてまず間違いではない。
天才には確かにインスピレーションのほかに汗が必要なのだろうが、ここで教師フレッチャー(J・K・シモンズ=アカデミー助演男優賞受賞)が要求する汗は多分に間違っている。フレッチャーの低俗で独善的な人間性があらわになるクライマックスで監督・脚本のデイミアン・チャゼルはそう言っているように思える。厳しい教師には立派な人間性を備えていてほしいものだが、それは幻想なのだろう。主人公のアンドリュー(マイルズ・テラー)もまた自分のジャズの道に邪魔になるからという理由でガールフレンドに別れを切り出すバカで浅はかな男なのだから救いようがない。天才が登場しないのと同じ意味合いで映画には正義も真っ当な人間も登場しない。結局、俗物同士の対決の映画なのだ。
罵詈雑言を吐き、生徒の人間性を徹底的に否定する教師の姿は「愛と青春の旅立ち」のルイス・ゴゼット・ジュニアかと思ったら、「フルメタル・ジャケット」のR・リー・アーメイになり、さらにその先まで行っているところが映画の新しさ。これは音楽ドラマである前にとても興味深い人間ドラマだ。どうもこの映画、というか監督には人間不信が根底にあるようだ。そういう部分がこの先鋭的なドラマを生んだ要因かもしれない。
先鋭的だから面白いのかと言われれば、そうでもなかった。これ、ジャズでなくても成立する話であり、そこに普遍性があって良く出来ていると思うのだけれど、映画が面白くなるのとは別次元の話であったりする。プロの音楽家からはこの映画の音楽の部分について酷評が出ている。しかし、一般人にはほぼ分からないので支障はない。プロの指摘は映画をリアルにする上では有用だけれども、音楽がダメだからといって映画全体がダメになるわけでもない。
フレッチャーは「グッジョブ」という言葉が、天才が出なくなった理由だと言う。安易な褒め言葉は人をダメにするという信念の持ち主なのだ。それは一面で真理ではあろうと思うが、「褒めて育てる」という言葉もありますからね。軍隊式の厳しさだけでは天才は生まれない。軍隊式を結局否定しているという意味ではこの映画、「愛と青春の旅立ち」「フルメタル・ジャケット」と共通しているのだった。デイミアン・チャゼル監督にあるのは人間不信ではなく、軍隊不信なのかもしれない。
2015/04/15(水)「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」
全編ワンカットの映画と聞いて感じるのは息苦しさだ。映画というのはカットを割ってリズムを作っていくのが普通だから、長回しには基本的に無理がある。カットを割らないためだけに不要に人物を追うカメラワークは不自然だし、絵的にも面白くない。ところが、「バードマン」には不自然なところがない。何も知らない人が見たら、冒頭とラストを除いてほぼ全編ワンカットの映画であることに気づかないかもしれない。
ワンカット映画の嚆矢であるヒッチコックの「ロープ」(1948年)は一つの部屋の中だけで進行する話だったから、全編がワンシーンワンカットの映画となっていた。つまり映画の上映時間と物語の時間の進行が一致していた。
「バードマン」はワンカットの中で回想はあるし、場所も頻繁に変わるし、場面の中心となる人物も変わる。時間の経過も数日間に及んでいる。フィルムの制約から10分ぐらいしか連続して撮れなかった「ロープ」の時代と違って、デジタルなら連続撮影時間に制限はなく、シーンのつなぎ目にも合成が使えるから、こうした撮影が可能になったのだろう。気になったのはシーンのつなぎ目。「ロープ」はフィルムを取り替える際に人物がカメラを覆ったりして黒みを入れて処理していた。「バードマン」も同様にシーンのつなぎ目に黒みを入れる場面があるが、つなぎ方はそれだけではなく、カメラのパンの途中で切り替えるなど工夫している。まあ、それにしても移動は多いし、撮影は大変だっただろう。
物語は過去に「バードマン」というヒーロー映画で人気を得たが、それ以後ヒット作のない初老の役者リーガン・トムソン(マイケル・キートン)がブロードウェーの舞台で復活をかける話。リーガンはレイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」を脚色・演出・主演で舞台化しようとするが、開幕までにさまざまなトラブルが起き、次第に精神的に追い詰められていく。終盤にスペクタクルなシーンを入れているし、笑いも随所にあって観客へのサービスは怠りないのだが、こういう話であれば、普通にカットを割って撮影しても良かったのではないかという気もする。
ビルの屋上からカメラが降りてきて窓を通って部屋の中に入ってくるというワンカットも、以前ならそのカメラワークだけで驚いたものだが、合成で何でもできるようになった今は驚けない。映画の撮影技法は物語を効果的に語るために使うべきで、ヒッチコックが「ロープ」を撮ったのは実験的な意味合いが大きかったと思う。「バードマン」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥはシリアスなドラマが多い監督だが、意外にヒッチコックのように映像の遊びが好きな人なのかもしれない。