2021/03/30(火)「ノマドランド」に漂う諦観

 エンジンがかからなくなった車の修理費の工面に苦労する主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)の姿を見て、大学の学費が足りずに苦労する映画があったよなと思い、Netflixの「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」であることを思い出した。「ノマドランド」と「ヒルビリー・エレジー」はどちらも白人の貧困層を描き、ノンフィクションが原作であることも共通している。違うのは「ヒルビリー・エレジー」が俳優の演技を除いて酷評されているのに対して、「ノマドランド」はアカデミー作品賞にノミネートされるなど高い評価を得ていることだ。

 「ヒルビリー・エレジー」の主人公は貧困から抜け出すことに成功し、投資会社の社長になった(だから自叙伝のような本が出版できた)。「ノマドランド」に登場する車上生活の高齢者たちは死ぬまで働かないと暮らして行けない。「12歳から働いて娘2人を育て上げたのに、年金は500ドルしかもらえない」と登場人物の1人は嘆く。息子と和解して息子の家で暮らすことになったデイブ(デヴィッド・ストラザーン)は恵まれている方で、家族を持たない多くのノマドの人たちに将来の展望はないだろう。映画はそうしたノマドの生活を詳細に淡々と描いていく。登場するのも本当のノマドたちでドキュメントのような様相もある。



 ファーンの夫はネヴァダ州のUSジプサム社に勤めていたが、リーマンショックの影響で工場と社宅が閉鎖され、企業城下町だったエンパイアは町ごとなくなった。代用教員だったファーンは夫の死後、車上生活を余儀なくされる。アメリカは家賃の高騰で中流階級であっても、ちょっとしたことですぐにホームレスになってしまうそうだ。ファーンはショッピングセンターで出会った知り合いの娘から「ホームレスなの?」と聞かれて「ハウスレスよ」と答える。端から見れば、両者は同じように思えるが、ハウスレスは積極的に家を持たない生き方であるというファーンの矜持なのかもしれない。

 ファーンが働くのはamazonの配送センターなどだ。amazonは過酷な職場と言われるが、映画にそうした描写はない。それを描くことが目的ではないという理由以上にそうした描写があったら、amazonが映画に協力することはあり得ないだろう。amazonが恒常的に雇ってくれればいいが、高齢労働者が働けるのはクリスマスシーズンなど忙しい時期だけのようだ。amazonの駐車場は働いているうちは電気と水道が使えるが、職を失うと月に300ドル以上かかる(350ドルだったか)。

 都会には車を駐める場所はない。車中泊をしていると、警官に注意される。必然、ノマドは荒野に集まることになる。荒野がなければ、ノマドという生き方は成立しないのだろう。映画にはアメリカの広大で美しい風景がたびたび出てくる。一種、ロードムービーの趣があり、風景と絡めて60年代から70年代にかけてのアメリカン・ニューシネマを思わせたりもするけれど、ニューシネマに登場したのは若者だった。高齢者が刹那的な生き方に追い込まれた状況には複雑な思いを持たざるを得ない。

 監督のクロエ・ジャオはマクドーマンドについて「私はフランを(伝説的コメディアンの)バスター・キートンと比べてしまいます。彼女は体をはったギャグがそれくらいうまいのです」と語っている。僕は別の意味でキートンを連想した。この映画のマクドーマンドの表情からは内面の真意が見えないのだ。他のノマドたちも同様だ。恐らくそれは現状を脱する手段が見つからないゆえの諦観が作用しているのだろう。死ぬまで安楽は訪れない生き方にノマドたちは諦観と静かな怒りを抱えているのだと思う。

 映画に流れるピアノ曲がルドヴィコ・エイナウディ(「最強のふたり」)のようだと思ったら、まさにエイナウディが音楽を担当していた。美しい音楽に惑わされて美しい映画だなどと思ってはいけない。厳しい現実を映した映画なのだ。

2021/03/28(日)ドキュメンタリーと演出

 アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた「オクトパスの神秘:海の賢者は語る」をNetflixで見た。南アフリカの藻場でタコを観察する映画製作者クレイグ・フォスターの1年間を描く南アフリカ映画。原題は“My Octopus Teacher”。直訳すると、「私のタコ先生」で、思わず笑ってしまいそうになるが、映画は大真面目だ。

 海中の魚や軟体動物などをとらえた映像は極めて美しく、途中まではふむふむと見ていたが、タコがサメに襲われる中盤のエピソードで疑問を覚えた。海底の岩場に潜ったタコの足をサメが食いちぎるエピソード。映画は穴に頭を突っ込んだサメ、サメの口の中に見えるタコの足、そして1本の足がないタコのショットを続けて見せる。サメがタコに食いついている直接的なシーンはないので、これ別々のシーンをつないだだけの演出ではないかと思えてくるのだ。



 足が1本ないタコの姿は痛々しいが、しばらくして小さな足が生えてきているのを発見した主人公のフォスターは大喜びする。タコを観察している人なら、タコの足が再生することぐらい知ってるでしょう。何をそんなに喜んでいるのか。タコは危機が迫ると、トカゲが尻尾を切り離すように自分で足を切り離すこともあるのだそうだ。サメに噛みちぎられたのではなく、噛まれたので自分で切り離した可能性もある。

 サメ対タコの対決は終盤にもある。タコは身を守るために体中に貝殻を付ける。サメはかまわず貝殻ごとタコを加えて振り回す。ここで撮影していた主人公は息継ぎのために海上へ(アクアラングは着けていない)。再び潜ってみると、タコが攻撃を防ぐためにサメの背中に乗っていた。うーん。本当か、それ。

 この後、タコは交尾をして、卵を産み、そこで息絶える。主人公は涙をにじませながら、タコとの別れを話すのだ。センチメンタルな音楽まで流す念の入れようだ。

 動物を擬人的に扱うドキュメンタリーには昔から批判が多い。以前読んだ筒井康隆さんの動物に関するエッセイには動物学者が動物の行動を判断する場合には人間の行動から一番遠い判断をするのが正しいと書かれていたと記憶する。この映画、タコを擬人化しすぎではないか。にもかかわらず、IMDbの評価は8.2、メタスコア76、ロッテントマト100%と、すこぶる高い。皆さん、コロッと騙されているのではないですか。

2021/03/20(土)絶妙の掛け合いが楽しい「まともじゃないのは君も一緒」

 「うまくいくわけねーだろ」と高をくくっていた大野(成田凌)と美奈子(泉里香)の関係がどういうわけだか、うまくいきそうになって香住(清原果耶)は焦り出す。こんなはずではなかったのに…。

 香住は18歳の高校生。大野は予備校の数学講師で香住の担当の先生だ。容姿は人並み以上なのに数学に打ち込みすぎてコミュニケーション能力ゼロの変わり者である大野に対して香住は常々、「もったいないね」「先生は普通以下」と言っている。美奈子は香住が憧れる青年実業家・宮本(小泉孝太郎)の婚約者で、香住は2人の中を裂くことを意図して大野に練習のつもりで美奈子にアタックさせる。2人であれやこれや作戦を練っているうちに、香住は大野から両肩をつかまれ、「(普通になるために)僕には君が必要なんだ」と言われたことで、自分が大野を好きになっていることに気づく。だから大野と美奈子のまさかの急接近に焦り始めるのだ。
「まともじゃないのは君も一緒」パンフレット
「まときみ」のパンフレット

 こういうシチュエーション・コメディならほかにもありそうだが、この映画が際立っているのは成田凌と清原果耶の会話がとても小気味よいことだ。前田弘二監督は漫才のようになることを避けたそうだが、ボケとツッコミのようにテンポがよくておかしく楽しい。2人の噛み合わない会話をいつまでもいつまでも聞いていたい見ていたい。会話のテンポは映画のテンポの良さにもなっていて、だからこの映画、98分できっちりまとまっている。

 「きみはいい子」「オーバー・フェンス」などシリアス路線が続いていた高田亮のオリジナル脚本がまず絶妙で、それを前田監督が緩急を的確に演出している。これに成田凌と清原果耶という演技派の2人が加わって、隙のない完成度の作品に仕上がった。この2人をキャスティングできた段階で、映画は成功したも同然だっただろう。

 パンフレットのインタビューで成田凌は清原果耶に関してこう言っている。
山田孝之さんがインタビューで、清原さんのことを「天才だ」と絶賛していたのを覚えていました。「本当に?」と思って共演したら、「本当に!」天才でした。脚本に対して真摯に向き合っていて、素晴らしいなと思いました。まだ20歳にもなっていないのに、末恐ろしいです。
 脚本の直しは香住のセリフの4カ所だけで、いずれも清原果耶の指摘で直したというのがすごい。19歳の女優に普通そういうことができるか。脚本に「真摯に向き合って」という成田凌の言葉はこうした部分を指しているのだろう。その成田凌も清原果耶のマシンガンのようなツッコミを受け止め、息を吸いながら引きつったように笑う奇妙な笑い方(香住に「それ、やめた方がいいから」と言われる)などキャラクターの作りこみが感心するほどうまい。

 「君が言っている普通は何かをあきらめるための口実なのか」。普通じゃないことを否定し続けてきた香住に対して大野が反撃するクライマックスにはじわりと感動させられた。映画製作がこんなにうまくいくことはあまりないことなのかもしれないが、このスタッフ、キャストでまた撮ってほしい。そう強く思わせる面白さだった。

2021/03/19(金)「さらば映画の友よ インディアンサマー」の感慨

 「俺の目標は1年に365本映画を見ること。それを20年続けること」。

 原田眞人監督のデビュー作「さらば映画の友よ インディアンサマー」(1979年)のダンさん(川谷拓三)はそう言う。僕も365本の映画を見ることを今年の目標にしたが、劇場のほかに配信とDVD、テレビ録画も含めての数字だ。ダンさんの場合は劇場だけでカウントしているから、1年で365本はけっこう大変な数字ではある。映画の時代設定の1968年当時はまだ名画座が健在だったから、こうしたこともできたのだろう。映画は数多く見れば良いというものではない。しかし、数多く見ておかなければ、分からないことだってある。



 1979年度のキネマ旬報ベストテン49位。はっきり言ってキネ旬ベストテンの30位以下にはあまり意味がない。投票者が少なくなるからで、この映画に票を入れたのは2人だけだった(南俊子と渡辺武信)。もちろん、ベストテンに入れたくなる映画というのはどこかに魅力があるのだ。

 静岡県沼津市が舞台。予備校よりも映画館に多く通っているシューマ(重田尚彦)は映画館で中年の映画ファン、ダンさんに出会う。映画館の中でおしゃべりしていた女子学生たちを注意したダンさんは痴漢扱いされ、その窮地をシューマが救ったのだ。「死の接吻」のリチャード・ウィドマークのセリフを引用したことで、ダンさんが根っからの映画ファンであることが分かり、2人は意気投合する。この2人に絡むのが17歳の少女ミナミ(浅野温子)。シューマはミナミを好きになるが、ミナミにはヤクザが付いているらしい。

 沼津は原田監督の出身地だから体験的な部分も入っているとのことだが、終盤はフィクションの度合いを強める。ダンさんは拳銃を手に入れて、1人でヤクザの親分の屋敷に殴り込みをかけるのだ。

 出演者の多くは既に亡くなっている。川谷拓三、重田尚彦、トビー門口、原田芳雄、鈴木ヒロミツ、室田日出男、そして映画評論家で最初の方に出てくる映画館主役の石上三登志。SFに詳しい石上さんはキネ旬などによく映画評や長い評論を書いていて、それを読むのが僕は好きだった。42年前の映画だから亡くなった俳優が多いのは仕方がないが、感慨を持たざるを得ない。

 この映画も長い間、見ることができなかった。ファンの要望を受けて、ようやくDVDが発売されたのは昨年9月。原田監督が監修に当たったそうだが、元のフィルムが劣化していたためか、全体的に赤みがかっていて、画質的に満足できる仕上がりではないだろう。

 内容に関して原田監督は日記にこう書いている。
「さらば」は演出的には稚拙なパーツ満載の映画ではあるが、20代で撮った作品はこれ一本。駆け出し監督の痛点を見てもらえればありがたい。
 いやいや、イタいところなんてないですよ。時代背景も含めて僕には懐かしい映画でした。


2021/03/14(日)ようやく見た「極私的エロス・恋歌1974」

 Huluで原一男監督のドキュメンタリー4本の配信が始まった。「さよならCP」「極私的エロス・恋歌1974」「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」の4本で、このほかに「ニッポン国VS泉南石綿村」も以前からある。このうち、僕は「ゆきゆきて、神軍」しか見ていない。以前から見たかった「極私的エロス・恋歌1974」をようやく見た。強烈で、しかも感動的な映画だった。



 公開当時、映画雑誌の「ロードショー」で短い紹介記事を読み、印象に残ったが、地方では公開されず、その後も触れる機会がなかった。2015年に再DVD化されているので見ようと思えば、見られる作品だが、僕はこの10年ほどDVDレンタルから遠ざかっていた。

 amazonの内容紹介を引用すると、以下のようになる。
監督自らが、かつて一緒に暮らし、子供を産んだ女を、そして今自らが共に暮らしている女を執拗にカメラで追いつづけ、「極私」の極致へと到達したこの映画は、未踏のドキュメンタリーとして歴史にその名を刻んだ。
原一男監督が「一世一代のミス」と後悔した、衝撃の出産シーンは必見!
 普通の男が出産シーンを見られるのは自分の奥さんのものぐらいだろう。僕は見たくなかったので遠慮した。だからこの映画で初めて見たのだが、生命が生まれる瞬間というのは感動的なものだと思った。昨年公開された「娘は戦場で生まれた」にあった、帝王切開で仮死状態で生まれた赤ん坊が息を吹き返すシーンと同じ感動を味わった。

 しかもただの出産シーンではない。場所はアパートの一室。助産師さんはいない。この女性(かつて原監督の恋人だった武田美由紀)は誰の助けもなく、1人で出産するのだ。部屋には原監督がいてカメラを回しているし、製作の小林佐智子がマイクを向けているのだが、どちらも手助けはしない。武田美由紀にとっては2人目の子どもなので慣れてはいるが、それまでの言動を見てもたくましい女性なのである。

 内容紹介に「一世一代のミス」とあるのは出産シーンの一部がピンボケになっているため。わざとそうしたわけではないらしい。1974年度のキネマ旬報ベストテン11位。