2021/05/02(日)人を幸福にする傑作「街の上で」
いや、もちろん城定監督はコアな日本映画ファンの間では以前から有名な監督ではあったのだけれど、「アルプススタンド…」以前だったら、名字の例として一般には通用しなかっただろう。主人公の若葉竜也とそれに絡む4人の女優が公開延期の1年の間に大きく成長して、公開延期が結果的に映画に客を呼ぶ力になったと今泉監督は公開初日の舞台あいさつで話したが、それは城定という名字にも言えることなのだった。何が言いたいかと言えば、この映画、公開延期が少しもマイナスにはならず、プラスになったということだ。本当に優れた映画は1年や2年、5年や10年寝かされても腐ることはない。
下北沢に住み、古着屋で働く主人公・荒川青(若葉竜也)とその周辺の人たちの日常をユーモラスに描くという映画の作りはジム・ジャームッシュを思わせる。ジャームッシュと違うのは女優が極めて魅力的に撮られていることだ。映画撮影の打ち上げの飲み会で知り合ったその夜に、イハのアパートでイハと青はそれぞれの恋愛経験を話し込む。映画というのはカットを割るものだから、僕は長回しや長いカットをあまり評価しない。だが、この場面の固定カメラによる長いワンカット撮影はとても効果を上げていると思う。2人の話は微笑ましくておかしくて楽しい。話している本人たちの感情が観客に伝わってくるようだ。
青は初めての恋人の川瀬雪(穂志もえか)に浮気された上に「別れたい」と言われて一方的にふられたばかりだったし、笑顔がキュートで関西弁のイハは過去に3人の男と付き合ったが、今はフリー。2人の間に恋が芽生えるのかと思わせるいい雰囲気で、この雰囲気を断ち切りたくないと思わせるのだ。
古着屋にTシャツを買いに来たカップルのシーンなど、映画にはクスっと笑えるシーンが散りばめられているが、このアパートのシーンと登場人物の多くがそろい、男女関係の誤解と思いやりが爆笑を生むクライマックスはとても良く、映画の好感度を大いに高めている。脚本は今泉監督と漫画家の大橋裕之の共同。監督はこのクライマックスの削除も考えたが、大橋裕之が止めたそうだ。残して大正解で、こんなに笑ったシーンは最近ない。
青に卒業制作の映画への出演を依頼する大学生で監督の高橋町子を演じるのは昨年7本の映画に出演し、成長著しい萩原みのり。古書店の店員・田辺冬子役に古川琴音。今泉監督は4人の女優にそれぞれの見せ場を作り、魅力を引き出している。「パンとバスと2度目のハツコイ」の深川麻衣や「mellow」の岡崎紗絵や「his」の松本若菜など監督の過去の映画にもこれは言えることで、女優はみんな今泉監督の映画に出たくなるのではないか。今泉力哉の映画は今、出演者と観客の双方を幸福にする映画になっている。
2021/04/24(土)構成が疑問の「るろうに剣心 最終章 The Final」
京都所司代・見廻組の清里明良(窪田正孝)は、“人斬り抜刀斎”の異名を持つ緋村剣心(佐藤健)に斬られた後、必死の抵抗をする。雪代巴との祝言が控えていたからだ。清里は剣心の頬に切り傷を与えるが、とどめを刺されて絶命する。その壮絶な死に方と翌日、巴が清里の亡骸に泣き崩れる姿を見て、剣心は人斬りの仕事に疑問を覚える。「るろうに剣心」シリーズ第1作(2012年)で、剣心の回想として描かれたのが以上のエピソードだ。剣心がこの時受けた傷は縦1本。これがなぜ十字傷になったのかを描くのが今回の最終章2部作、「The Final」と「The Beginning」になる。
アクションはいいけれども、ドラマが弱いというレビューが散見するのはそのためだ。話の時系列からすれば、「The Beginning」を先に見ておいた方がいいのだが、公開をあえて逆の順番にしたことに奇をてらう以上の理由があるとは思えない。撮影は時系列に沿って行ったそうだ。役者の演技を考えれば、過去を演じた上で現在を演じた方が感情を込めやすいから当然の措置と言えるだろう。だからこそこの2部作の構成には疑問を持たざるを得ない。脚本は監督の大友啓史が書いている。だれか、うまい脚本家の協力を得て、構成を練った方が良かったと思う。
第1作の公開から9年だが、映画の中では1年後の明治12年(1879年)の東京が舞台。剣心たちがよく行く牛鍋屋「赤べこ」を何者かが砲撃し、町が炎上する。犯人は剣心に復讐心を燃やし、今は上海マフィアの頭目になった雪代縁の一味だった。薫(武井咲)のいる神谷道場や警察署長の自宅など剣心の仲間たちは次々に襲われる。そして気球を使った東京への総攻撃が始まる。
アクション監督は今回も谷垣健治。佐藤健の走る、跳ぶ、斬るのアクションはスピードとダイナミズムにあふれる。新田真剣佑の筋肉質の体と動きの速さは見事だし、土屋太鳳に思う存分アクションをやらせているのもいい。日本のアクション映画として最高峰の位置をキープしているのは間違いないだろう。
青木崇高や蒼井優、江口洋介らおなじみの俳優が集結したのも良かった。四乃森蒼紫役で伊勢谷友介が登場したのは意外だったが、撮影は2018年から始まったそうなので昨年秋の逮捕時点で撮影済みだったのだろうし、何も問題はないと思う。「The Beginning」ではこうしたキャストは出てこないだろう。ドラマ性を重視したという内容を楽しみに待ちたい。
2021/04/17(土)「彼女」と10年前のレシート
中村珍(中村キヨ)の原作コミック「羣青」(ぐんじょう)を「彼女の人生は間違いじゃない」の廣木隆一が監督したNetflixオリジナル作品。殺した女・永澤レイを水原希子、頼んだ女・篠田七恵をさとうほなみ(「ゲスの極み乙女。」のドラムス担当ほな・いこか)が演じる。2人の女優の演技の熱量がただ事ではなく、印象的なショットを織り交ぜた廣木監督の的確な演出と相俟って見応えのある作品に仕上がった。
高校時代、レイは陸上部の七恵に引かれながらも遠くから見るだけだったが、ある日、一緒に帰ることになる。スポーツショップに立ち寄った七恵はランニングシューズを万引き。店員に追われ、走って逃げる途中で転倒する。追いついたレイは店員に代金を渡して警察への届け出を止めたが、七恵は足にけがをして陸上部を退部する。同時に家が貧しく授業料が払えないため高校も辞めることになる。裕福な家のレイは七恵の学費を払うことで退学を思いとどまらせる。七恵は高校卒業後に金持ちの男と結婚し、レイをカフェに呼び出して借金の300万円を返す。「もう会うことはないから」。そう言った七恵はカフェの2人分の代金1100円を払おうとするレイを止め、割り勘分だけをもらう。
それから10年。整形外科医として働き、別の女(真木よう子)と同棲しているレイに七恵から「会いたい」と電話がかかってくる。そして七恵の夫がひどいDV男であることを知るのだ。
「これからどうしたい? 一緒に死ぬでもいいし、警察に行くでもいいよ」。事件後、レイと七恵はBMWの赤いオープンカーで逃走する。女2人がオープンカーで逃走と来れば、「テルマ&ルイーズ」(1991年)を想起せずにはいられない。「テルマ&ルイーズ」同様、この映画も女同士が連帯するシスターフッド映画なのだと思う(水原希子にとっては「あのこは貴族」に続いてのシスターフッド映画だ)。
レイはレズビアンだが、七恵はそうではない。原作には七恵がレイのことを「バカなレズ女」とつぶやく場面があるが、映画ではレイが自分を卑下してそう言う。この変更は重要だ。七恵は自分を好きなのをいいことに、レイを利用したわけでない。映画の終盤、レイは七恵のタバコケースの中にレシートと550円があるのを見つける。それは10年前、2人が最後に会ったカフェのレシートとレイが渡した割り勘のお金だった。七恵はレイとの思い出を大切にしていたのだ。
吉川菜美の脚本はごちゃごちゃした印象の原作をすっきりとまとめているほか、男っぽいキャラを原作とは逆のレイに割り当てた。見事といって良い脚色だと思う。真木よう子と母親役の烏丸せつこが同性愛について語る場面など本筋とはあまり関係ないのだが、同性愛の娘を深く理解する母親がいい感じで魅力的な場面になっている。水原希子とさとうほなみには最大限の拍手を送りたい。高校時代の2人を演じた南沙良と植村友結も好演している。
あんな激しい暴力に10年も耐えているのはおかしいとか、普通に警察に届けたり、離婚すれば殺さなくてもすむことではないかという原作由来の疑問点はあるが、女2人の関係の切実さは原作を大きく上回っていて良い出来だと思う。「待っているから」と叫ばずにはいられなかった七恵の姿には胸が熱くなる。
Filmarksの評価は3.3。Netflixなので当然、世界に配信されていて英語タイトルは“Ride or Die”となっている。IMDbの評価は5.5、メタスコアは64点と低いが、ロッテントマトは71%(ユーザー評価67%)とまずまずだった。
2021/04/10(土)「砕け散るところを見せてあげる」の場違い感
壮絶ないじめを受けている高校1年の少女と、いじめの現場を偶然見たことから少女にかかわっていく高校3年の男子。徐々に心を通わせていくこの2人の関係が胸を打つものだけに、非現実的なクライマックスが残念すぎる。その非現実から再び元の調子に戻るので、どう考えてもクライマックスの描写が浮いていて、場違いのものが出てきてしまった感じがあるのだ。
この導入部は嵐の視点で語られるが、ここから映画は父親、濱田清澄(中川大志)の視点とナレーションになる。つまり映画の語り手は死者なのだ。ビリー・ワイルダー「サンセット大通り」など過去にも例はあるが、「サンセット大通り」は死んだ直後の男がどうしてこうなったかを回想する形式だった。この映画の場合、25年前にさかのぼっての死者の回想であり、頻繁にナレーションが入るのでよく考えると変なのである。母親から聞いた話として過去が描かれるのなら話は分かるが、その後の展開を考えると母親視点での物語の構築は難しい。原作ではここに叙述トリックを用いて、語り手が嵐のままのように思わせているそうだ。こんなところにトリックを用いる必要はないように思うが、映画で叙述トリックは不可能なのでこういう変な形になってしまったのだろう。まあ、このあたり、気にしない人は気にしないと思う。
高校3年の清澄は遅刻し、朝礼をしている体育館にそっと入って最後尾に並ぶ。そこで一人の少女に周囲から紙くずや上履きやさまざまなものが投げつけられているのを見る。あんまりなので上履きを投げようとした男子生徒を止める。朝礼後に少女に声を掛けると、少女は「ワーっ」と叫びだしてしまう。前髪をたらして顔がよく見えない陰気なその少女は蔵本玻璃(石井杏奈)という名前だった。正義感の強い清澄は少女へのいじめを放っておけない。真冬の土曜日、バケツ4杯の水を掛けられて女子トイレの物置に閉じ込められた玻璃を発見して助けたことで玻璃は清澄に心を開いていく。玻璃の母親は4年前に家出して、父親と祖母の3人暮らしという。清澄の家に寄って帰りが遅くなった玻璃は清澄の母(矢田亜希子)から車で送ってもらう。その途中、父親の車が前を走っているのに気づく。車を降りてきた父親(堤真一)はどこか不気味な男だった。
玻璃のいじめられる要因がこの父親にあることは容易に分かるが、さて父親は何をしていたのか。ある夜、玻璃は清澄の家に来て「父が来るから逃げて」と頼む。その顔は血だらけだった。ああ、父親はDV男だったのかと思うのは早計で映画はそのはるか上を行く。強烈な場違い感を持ってしまうほどのあり得なさなのである。これはいくらなんでも極端ではないか。
一歩間違えれば珍品になるところを救っているのは前半のいじめの描写と中川大志、石井杏奈の好演、それに途中からいじめに反対するクラスメート清原果耶の存在だ(「うっす」という返事の仕方など実におかしくてうまい)。SABU監督は前半を的確な演出で見せており、前半はつくづく傑作だと思う。それだけにクライマックスが惜しい。父親は普通のDV男のレベルで何も不都合はなかったのに、かえすがえすも惜しい。
2021/04/06(火)「劇場版シグナル 長期未解決事件捜査班」の杜撰さ
犯人の犯行動機にまるで説得力がない。復讐に大勢の一般市民を巻き込むのは乱暴すぎる。その復讐の要因となったある事件に関する隠ぺい工作もそんなことをする理由が見当たらない。そしてそれ以上に過去と交信できる無線機というアイデアを何度もやられると、なぜそんなことができるのか説明が必要になってくるだろう。この映画の使い方だと単に御都合主義の道具にしかなっていないのだ。過去と現在を結ぶ時間テーマSFには緻密な組み立てが必要だ。この映画はSFではないが、SFの小道具を使う以上、こんな杜撰な作りではお話にならない。
映画の公開に先立ち、3月末に放送された「シグナル 長期未解決事件捜査班スペシャル」も見てみたら、同じように穴の多い脚本だった。それでもそれなりにまとまっていたのは演出の鈴木浩介の手腕があったからだろう。テレビドラマ版「シグナル」の演出を担当し、WOWOWのドラマでも見応えのある作品を作っている鈴木浩介に劇場版もまかせれば良かったのではないかと思う。
この「スペシャル」のラストは劇場版にもあるシーンだが、見ていなくても劇場版の話の理解にまったく支障はない。2021年、高速道路でハイヤーが暴走し、政府高官が死亡する。桜井(吉瀬美智子)率いる三枝(坂口健太郎)ら長期未解決事件捜査班は、事故は仕組まれたものではないかと疑う。その通り、運転手と政府高官は事故の前に毒物で死亡していたことが分かる。毒物は20年前のテロ事件で使われたヘロンだったが、テロの主犯は死刑判決を受けて既に刑が執行されていた。ヘロンを作る技術もそれとともに消えたはずだった。一方、2009年の東京でも相次いで政務官が交通事故死しており、警察は事故として発表する。偶然、事故の瞬間を目撃していた大山巡査部長(北村一輝)は事件性を疑う。23時23分、三枝の持つ無線機が再び鳴り始めた。大山からの連絡だった。
橋本一監督は「主人公・三枝健人が追い詰められていく中で必死になっていき、どのようにして反撃したり、切り抜けたりかするかという展開にこだわった」そうだ。クライマックスには坂口健太郎が血だらけになったアクションが展開される。しかし、そんなことにこだわるより、ストーリー展開と細部の作りにこだわってほしい。坂口健太郎も吉瀬美智子も北村一輝も悪くないのに、この脚本では好演が無駄になっている。
テレビドラマ版の「シグナル 長期未解決事件捜査班」は韓国のテレビドラマをリメイクしたものだが、韓国版が映画「オーロラの彼方へ」(2000年)を参考にしているのは明らかだ。「オーロラの彼方へ」の映画評を読み直してみたら「主人公の記憶に世界が変わる前と変わった後の2つが保持されているというのがポイントで、これが完全に変わってしまったら物語は成立しない」と僕は書いていた。2つの記憶が保持されるのは「シグナル」にも受け継がれている。というか、真似ている。
「オーロラの彼方へ」をアメリカでテレビドラマ化した「シグナル 時空を超えた捜査線」(WOWOWで放送済み)もある。韓国版はこのテレビドラマ版を参考にしたのかと思ってしまうが、テレビドラマに関しては韓国版の方が先に放送している(韓国版は2016年1月開始、米国版は2016年10月開始)。米国版の方がそれを参考にしているのだろう。