2008/09/15(月)「おくりびと」
モントリオール世界映画祭でグランプリ、アカデミー外国語映画賞の日本代表作品、中国最大の映画賞である金鶏百花賞の観客賞で作品、監督、主演男優賞を受賞した。モントリオールに関しては海外の評価なんて分からんぞ、と思っていたのだが、実際に映画を見て、これは海外でも評価されるのも当然だと思った。死者の尊厳を大事にする納棺師の仕事はどこの国でも共感を得るのに違いない。家族を亡くして悲しみに沈む遺族の気持ちを損なわないように、慎重な振る舞いでてきぱきと死体の身繕いと化粧を施す本木雅弘が素晴らしい。その所作の中にさまざまな思いが交錯するから素晴らしいのだ。「5分遅れたぞ。あんたら死体で食ってんだろう」と遅刻を怒っていた妻を亡くした男(山田辰夫)は納棺師2人の仕事ぶりを見て、「家内は一番きれいだった。ありがとう」と礼を言うことになる。それが納得できるほど死者への敬意に満ちた仕事なのである。そして納棺師の仕事に気が進まなかった主人公はこれをきっかけに仕事に誇りを持つようになる。
チェロ奏者だった主人公が楽団の解散に伴って、妻(広末涼子)と一緒に故郷の山形に帰る。「旅のお手伝い」と書かれた広告でNKエージェントという小さな会社に就職面接に行くと、社長の山崎努は一発で採用を決める。ところが、広告は「旅立ちのお手伝い」の誤植で、NKは納棺の略ということが分かる。高い給与もあって、主人公は妻には仕事の内容を伏せて納棺師として働くことになる。というこの出だしはいかにも滝田洋二郎の映画らしいユーモアだ。映画はその後もユーモアを散りばめ、納棺師の仕事とそれに理解のない周辺を描写しながら、成長する主人公の姿を描いていく。
題材のユニークさを除けば、これが初の映画という放送作家・小山薫堂の脚本はオーソドックスなまとめ方で特に際だった部分はないように思う。クライマックスがこうなるのはほぼ想像がついた。優れているのはまとめ方ではなく、具体的なエピソード。主人公が6歳のころに家を出た父親が主人公と交わした石文(いしぶみ)を大事に持っているのを見せる場面は、ここだけで家を出た後の父親の孤独な生き方が浮き彫りになる名シーンだ。同時にここには父親と息子の届かなかったお互いの思いが凝縮されている。
何よりの成功は出演者たちの充実した演技にあるだろう。山崎努のさすがの演技をはじめ、事務所の余貴美子、銭湯のおばちゃんの吉行和子、そこに通う笹野高史、幼なじみの杉本哲多などなどがそれぞれに場面を背負って、映画を際だたせている。もちろん、本木雅弘は主演男優賞候補の筆頭だろう。チェロの演奏も納棺師としての仕事もプロでやっていけそうなぐらいにリアルだ。真剣に役柄に取り組む俳優だなと改めて思った。端役かと思われた余貴美子にはちゃんとクライマックス前に見せ場が用意されており、これがまた泣かせる。「行ってあげて!」というセリフが自身の生き方と重なって泣かせるのだ。唯一、あまり評価の高くない広末涼子も僕は悪くないと思った。チェロを中心にした久石譲の音楽も久石作品の中でベストではないかと思える出来栄えである。
こうした要素のどれが欠けても映画はこれほどの作品にはならなかっただろう。地味な題材でありながら、笑って泣いてというエンタテインメント映画の王道として仕上げられており、多くの人に感動を与え、愛される作品だと思う。「陰陽師」のころはどうなることかと思ったが、滝田洋二郎は昨年の「バッテリー」に続いて絶好調と言うほかない。大作ではなく、身近な題材の方が素質を発揮する監督なのだと思う。
2008/09/07(日)デトロイト・メタル・シティ
おしゃれなポップス歌手を夢見た青年が悪魔系デスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ(DMC)」のボーカルをさせられるという設定だけを借りて、原作とは違う話になっているらしい。原作がまだ終わっていないためもあるが、漫画の脚色としてこれはうまいと思う。最初の方に出てくる「ノー・ミュージック、ノー・ドリーム」というテーマをきっちりと描いている。芯がしっかりしているのでまとまりも良くなるのだ。主人公が思いを寄せる女(加藤ローサ)に正体を知られないようにあたふたする姿を見て、これ、「スーパーマン」のバリエーションだなと思った。
出演者の中で良かったのは「フラガール」に続いて松雪泰子で、たばこの火を舌に押しつけてジュッと消し、「あたしゃ、そんなんじゃ濡れねえんだよ」と言うこの女社長の弾け方はおかしいおかしい。しかも色っぽい。映画としてはベストテンには入らないかもしれないが、密かに松雪泰子は助演女優賞候補に決めた。
2008/09/07(日)「ぐるりのこと。」
「じゃ、口紅つけてよ」のシーンで血の通ったユーモアとリアリティに感心し、その後のどのシーンにも30代の夫婦のリアリティがあふれているのに驚く。橋口亮輔監督は主演の2人にエチュードと呼ぶ即興の芝居を何度もさせたそうで、それが2人の呼吸の良さにつながっているのだろう。口紅のシーンも即興かと思ってしまうが、ちゃんと脚本通りに演じているとのこと。脚本が脚本に見えないのがうまい。子供を亡くした妻が徐々に精神を病んでいくところに1993年から2001年までのさまざまな事件を法廷画家の夫に絡めて描く構成も良い。病んでいるのは妻だけでなく、日本の社会も同じだったのだ。
前半は2人のシーンを中心に長回しが多いが、後半、妻が健康になっていく過程はカットを短くし、音楽を加えてテンポが良くなる。気分的にうきうきした感じになり、ラストの小さな幸せをほんわかと描くあたりが心地よい。夫は裁判でまたも陰惨な事件に遭遇するが、2人の小さな幸せは変わらないだろう。リリー・フランキーは包容力というと硬くなるが、ほんわかした風情が良く、木村多江もいつもより随分きれいに見えた。
2008/08/30(土)「20世紀少年」
ほぼ失敗作。前半、少年時代と1997年を交互に描く部分がまるでダメである。ありえない話にどうリアリティを持たせるかが大事なのに、ここにはプロットはあっても描写はない。筋を追うのに精いっぱい。だからドラマが一向に盛り上がらない。あれほど多数の登場人物の誰一人にも輝きがない。見せ場がない。エモーションがない。ドラマの組み立てが弱いのは描写がないからにほかならない。
カルトな新興宗教集団「ともだち」の台頭と世界で起きる怪事件、それと主人公ケンヂの少年時代の「よげんの書」との関係をじっくり描くべきだった。特に重要なのは「ともだち」の怖さだったろう。脚本には原作者の浦沢直樹が加わっているが、これも間違いのように思える。やはり本職の脚本家が原作をばっさり省略して再構成してしまえば良かったのだ。最初から原作にひれ伏していてはそれを超える映画ができるはずがない。
堤幸彦には無理な題材だったのだとつくづく思う。こうした映画、山崎貴の方がふさわしいのではないか。
ラスト、3000人の中からオーディションで選ばれたというカンナ役・平愛梨のはつらつとした走りのみが第2章へのわずかな希望をつないだ。しかし、基本的には監督変えるべきだろう。今さら無理だろうけど。
2008/08/16(土)「アフタースクール」
ミステリで言うところの叙述トリックの映画。それまで見ていた話が突然、別の話になっていくのが快感で、アクロバティックな脚本に感心する。簡単にストーリーを書こうとすると、嘘が含まれてしまう。映画のパンフレットにあるストーリー紹介にも嘘がある。これはどうしようもないのだろう。つまり観客の思い込みで成り立ったストーリーだからだ。
かつて作家の都筑道夫はキネ旬の連載でビリー・ワイルダー「悲愁」のストーリーを紹介した際にわざとミスディレクション的な書き方をした。その方が観客の楽しみを奪わないからで、小林信彦はそれを評価していた。ミステリに精通した人じゃないとこういう書き方はできない。
映画にはもちろん、嘘はない。ある男が失踪して、それを男の会社と親友が探し始める。という発端はハードボイルド・ミステリによくある設定。だから探偵が出てくるのにもうなずける。失踪にはなにやら女とヤクザの影がちらついている。親友役の大泉洋のキャラクターがおかしいので、まあ退屈せずに見られるが、前半は取り立てて良くできているわけではない。終盤の大技がピタリと決まった後、映画はキャラの性格をそれまでとはがらりと変更し、ちょっぴりホロリとさせ、心温まるハッピーな結末を迎えることになる。
この部分があるから映画は好評なのだろう。ここがなければ、単なるパズル的な映画で終わっていた。個人的には大技に比べて、終盤の展開はややドラマ的に弱く、少しバランスが取れていない感じを受けた。ドラマ的な弱さは構成と関係してくるので難しいのだが、ここをもっと強化すれば、映画は完璧になっただろう。ただし、内田けんじ監督の良さはこういう軽いほのぼの感にあるのだと思う。
こうした凝った脚本は海外にもあまりない。そこは大いに評価すべきところだ。はったりだけの監督に成り下がったM・ナイト・シャマランにはこの映画を見て顔を洗って出直してきてほしい。
出演者の中ではナイーブさとほのぼのさを体現した堺雅人が良かった。今年、ブレイクというにふさわしい活躍だと思う。助演男優賞の筆頭候補じゃないかな。