2008/05/25(日)「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
あさま山荘事件の時に僕は12歳。テレビをつければ、延々とこの中継をやっていたから見ているが、この後に明らかになった山岳ベース事件については当時はあまり知らなかった。ただ、総括が流行語になったのは覚えている。
映画は3つのパートに分かれている。1960年の安保闘争から連合赤軍が生まれるまでをニュース映像を中心に描いた部分を第1部とすると、第2部は12人の同志が総括や処刑で殺害された山岳ベース事件、第3部があさま山荘事件である。もちろん映画の焦点は第2部にあり、ここが最も見応えがある。映画としてはあさま山荘の部分をもっとコンパクトにした方が良かったかもしれない。若松孝二監督が所有する別荘を破壊しながら撮ったそうだが、予算に限りがあったようで山荘内部の描写に終始する。時折、インサートされる浅間山の遠景だけではなく、当時のニュース映像を使うと、効果的だったのではないか。ここが予想以上に長いので山岳ベース事件の陰惨な衝撃がやや薄れる結果になっている。もっとも、この部分、警察視点に終始して山荘内部をまったく描かなかった「突入せよ! あさま山荘事件」へのアンチテーゼでもあるのだろう。
山岳ベース事件はリーダーの器ではなかった卑小な男女がリーダーになってしまったために起きた事件だろう。森恒夫も永田洋子も共産主義と武力闘争に忠実であるように見えて実は自分勝手なだけである。赤軍派と革命左派の幹部が次々に逮捕されて組織が弱体化していたために生まれた連合赤軍はこういうバカな人間たちがリーダーにならざるを得なかったのが悲劇の始まりだ。
映画はなぜ次々に若者が殺されなければならなかったのかを詳細に描く。自己批判と総括自体は以前から行われていたそうだが、そのうちに総括を助けるとする総括援助が行われるようになり、気絶するまで殴る暴力が肯定されていく。反対すれば、自分に総括の順番が回ってくるという絶望的な状況。それは死を意味する。森と永田の唾棄すべき人格がこれをもたらしたのは間違いない。痛ましいのは自分で自分の顔を殴らされる遠山美枝子(坂井真紀)で、遠山は生き残りたいために必死に殴り続けるが、永田洋子(並木愛枝)から腫れ上がった顔を鏡で見せられ、悲痛な叫びを上げることになる。監督によれば、あの醜い顔は永田洋子の醜さのメタファーでもあるという。永田洋子役の並木愛枝が人をにらみつける場面は怖い。爬虫類のように冷たい視線だ。
革命の実現のために人を殺し、指導力を維持するために人を殺し、疑心暗鬼が募ってさらに人を殺す。狭いグループの崩壊はいつもこのように進むのだろう。革命のために同志を殺すというのはポル・ポト政権下のカンボジアを思い出してしまうが、それよりも強い権力を持った人間が横暴を振るって惨殺を続けた北九州の監禁殺人(7人が殺された)の方がこの状況には近いかもしれない。
日本の左翼運動はこの事件によって壊滅したと言っていい。若松孝二は「鬼畜大宴会」や「突入せよ!あさま山荘事件」「光の雨」など事件を部分的に捉えた一連の映画に我慢できず、この映画を撮ったという。安保闘争、なにそれ、という若い観客には格好のテキストになるだろう。それだけでもこの映画には十分な価値がある。歴史に残るのは常に勝者視点の出来事であり、当事者に近かった若松孝二が事件全体を総括することの意義は大きい。しかも、山岳ベース事件に関しては徹底して批判の立場を貫いている。残念ながら、劇場に来ていた観客は年配者が多かった。今の若い世代には連合赤軍事件なんて通用しないのかもしれない。来ている年配者にしてもノスタルジックな気分が皆無とは言えないだろう。
劇場でパンフレット「若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を買ったら、パンフではなく、本だった。B5判より大きく、A4判より少し小さい。A4変形判といったところか。シナリオ付きで217 ページ。これ、amazonでも販売していて買おうかどうか迷っていた。amazonには「公式ガイドブック」と書いてある。パンフレット代わりに売っているらしい。この本に収録されたロフトプラスワンでの座談会はめっぽう面白い。元共産主義者同盟赤軍派議長の塩見孝也と連合赤軍の植垣博弘が未だに対立しているのである。60年代から70年代初めまでは政治の季節だったのだなという思いを強くする。あの時代に比べれば、今の日本は社会全体がノンポリになってしまった。変革の兆しがあるとすれば、プレカリアートだろうが、思想的な根拠がないと、社会運動には発展しにくいのではないかと思う。
2008/05/06(火)「虹の女神」
鈍感で優柔不断な男(市原隼人)のラブストーリー。というか、青春映画そのもの。前半、上野樹里との関係も良かったが、後半、相田翔子とのエピソードが面白い。相田翔子が26歳の役って、それは無理があるだろうと思ったら、ああいう展開になる。相田翔子は1970年生まれだから、映画公開時には36歳。なるほど。これはいいキャスティングだ。こういう女性っていそうだ。家族ぐるみで嘘をついているというのもありそうだ。監督の熊澤尚人はロス・マクドナルド「さむけ」を読んでいるのではないか。といっても映画の原案・脚本は小説家の桜井亜美なのだが。
このエピソード、本筋から見れば浮いている。起承転結の転の部分に苦労して入れた感じ。ただし、このエピソードがあるから、市原隼人のキャラクターがくっきりと浮き彫りになった。熊澤尚人の演出は市原隼人と上野樹里の心の揺れ動きや通い合いそうで合わない部分を繊細に描いていてうまいと思う。おセンチではなく、ロマンティシズムですね。上野樹里は出演映画の中ではこれが一番、等身大な感じでいい。
2008/04/25(金)「銀幕版 スシ王子! ~ニューヨークへ行く~」
「スシ王子!」は昨年7月から全8話がテレ朝系で放送されたそうだ。当然、見ていない。主人公の米寿司(まいず・つかさ=堂本光一)は沖縄空手の自然(じねん)流の使い手。祖父も父も寿司職人だったが、子供の頃、その2人を海で亡くし、魚の目を見ると暴れ出す“ウオノメ症候群”にかかっている。司はニューヨークに寿司の修行に行き、江戸前寿司を握る俵源五郎(北大路欣也)が経営する寿司店「八十八」を訪れる。店はマフィアに狙われていた。用心棒の豊穣稲子(釈由美子)とともに司はマフィアに対抗する。
全編、予定調和的にストーリーが流れる緩いコメディで、笑えるシーンはあるのだけれど、この内容で1時間54分は長すぎる。1時間30分ぐらいなら、もっと引き締まっただろう。ギャグよりもストーリーにもっと工夫が欲しいところだ。
といっても期待はしていなかったので腹は立たなかった。釈由美子と石原さとみは良かった。釈由美子はアクション場面も様になっていて、もっと映画に出てほしいと思う。監督は堤幸彦。
2008/04/13(日)「うた魂♪」
序盤のオーバー演技の漫画チックな描写にがっくりし、これはダメかなあと思ったら、中盤から良くなり、終わってみたら、まあ満足できる出来栄え。前半がダメダメなのは意図的だったんじゃないかと思えるほど後半がよろしい。クライマックスでじっくり合唱を聞かせるのがいいし、夏帆もだんだん本来の魅力を見せる。好きな男子にふられた(と思った)悲しい顔が歩いているうちに明るさを取り戻す短いシーンとか、ガレッジセールのゴリに啖呵を切るシーンとかうまい。
北海道の七浜高校合唱部の荻野かすみ(夏帆)は自分のルックスと歌声に異常な自信を持ち、自意識過剰かつナルシスト気味。ある日、思いを寄せる生徒会長の牧村(石黒英雄)から合唱中の写真を撮ってもらい、口を開けた姿が「産卵中のシャケみたい」と言われた上にその写真を生徒会新聞に掲載されてしまう。大ショックで意気消沈のかすみは合唱部をやめることを決意。ラストステージでのかすみの気のない歌い方を見た湯の川学院高校合唱部の権藤洋(ゴリ)から「あんな歌い方、歌への冒涜だ」と罵倒されてしまう。権藤は3年前、町で尾崎豊の歌を歌う女性に会い、歌の魅力にとりつかれてヤンキーな格好のまま合唱部を作ったのだった。権藤たちの「15の夜」の合唱に感激したかすみは再び、歌への情熱を取り戻す。
脚本の栗原裕光はこれが初の劇場用映画。監督の田中誠もメジャーな作品は初めてらしい。だから完璧な出来には遠いし、もう少し洗練された演出がほしいところなのだが、少女の人間的な成長を描くというオースドックスな構成は外していない。コンクールの審査員役でゴスペラーズが出演、合唱場面で流れる主題歌の「青い鳥」も担当している。夏帆のほか、部長役の亜希子も毅然とした感じが良かった。
2008/04/05(土)「ポストマン」
長嶋一茂製作総指揮&主演。かなり意外なことにこの映画は評判が良く、映画生活でも2ちゃんねるでも「泣いた」「感動した」という声が多い。日本郵政が協力していることから見て、郵便局PR映画であるのは間違いないし、確かにそういう風な場面で幕を開けるのだけれど、単なるPR映画で切り捨てられない、人を引きつける部分を持っているのだ。それは何なのだろうと映画を見ながら思っていた。映画の技術も脚本も演技も物語もステレオタイプの域を出ていない。今時、回想シーンに紗をかけるなどという時代遅れの演出をする映画デビューの今井和久監督にも特に優れた部分は見あたらない。
それでは映画のどこに感動するのか。愚直さ真っ当さ朴訥さ誠実さのある部分なのである。そういうものに価値を見いだすことができる人ならば、この映画は幸福になれる映画だ。一茂が一生懸命に猛スピードで自転車をこぐシーンはそれだけで感動ものだ。一生懸命な姿勢の底にあるのは人の幸福を願う愚直なまでに誠実な信念なのである。そういうものを真正直に見せられたら、僕らはつい冷笑してしまいがちなのだけれど、冷笑したくない雰囲気がこの映画にはある。この映画はアナログで懐かしい雰囲気に包まれた一種のファンタジーなのである。
長嶋一茂が演じるのはオートバイを使わずに自転車で郵便配達をする海江田龍兵。病弱だった妻が死んで間もなく三回忌を迎える。家族は高校受験を控えるあゆみ(北乃きい)と小学生の鉄兵(小川光樹)。あゆみは寮のある私立高校への進学を望んでいるが、龍兵には「家族は一緒に暮らして食卓を囲むのが一番」という信念があり、反対している。
この設定の下、龍兵の生き方が触媒となって周囲の人間が変化していく姿を描く。あゆみの副担任で教師の仕事は腰掛けと思っている臨時教師(原沙知絵)や元はエリート郵政官僚の上司も考え方を改めることになるのだ。郵便を誤配して「300通の中で1通間違えたってそれがなんだ」という開き直る新人に対して龍兵は「受け取る人にとっては1対1だ」と答える。その真摯な考え方と生き方が周囲の人々と同様に観客の心をも動かすのだろう。
実は長嶋一茂主演の映画は「ミスター・ルーキー」も僕は好きだった。あの映画でもまた一茂はプロ野球選手になる夢をあきらめない男に説得力を持たせていた。その一茂のキャラクターは今回もプラスに作用している。まだ人情がある田舎の小さな町が舞台なのもこうしたオーソドックスな物語に説得力を持たせることになったのだろう。
蛇足的に付け加えておくならば、こういう諸々の要素があったにしても、必ずしも映画が成功するわけではない。この映画の成功は危ういバランスの上に成り立っている。同じことやって次も成功するかというと、この演出力ではかなり疑わしいのも事実なのである。また同じパターンで見せられたら、僕は冷笑するかもしれない。