2006/09/23(土)「惑星大怪獣ネガドン」

 「惑星大怪獣ネガドン」ジャケット怪獣映画マニアの作った昭和の怪獣映画風3DCG。監督の粟津順は1974年生まれで、学生時代に「ガメラ2 レギオン襲来」を見てショックを受け、怪獣映画の本格的なファンになったのだという。続く「ガメラ3 邪神覚醒」がCG作家を志すきっかけになったそうだ。「ネガドン」の怪獣が何となくイリスを思わせるのはそれが影響しているのかもしれない。

 ストーリーは簡単で、火星のテラフォーミングが進む昭和百年が舞台。火星の地下から現れた怪獣が地球に落ちてくる。それを工事用ロボットのMI-6(ミロクと読む)が迎え撃つ。MI-6を操縦する中年の研究者は過去にロボットの事故で一人娘を亡くしているという設定。それだけの物語である。25分の短編だからこのストーリーで良いのだろうが、長編を作るなら、物語の工夫はもっと必要になってくるだろう。話は怪獣映画以上のものではない。SFの分かる脚本家が力を貸せば、もっと充実したものになると思う。

 2年4カ月かけて一人で作った作品なので、良くできているところもあれば、そうでないところもあるが、技術的には水準以上と思う。可能性を感じさせる。人間のCGがあまりうまくないのはアメリカのピクサーあたりもそうだから仕方がない。うまくいかないのなら実写を使えばいいことで、粟津順には将来的に役者を使い、CGを組み合わせた怪獣映画を撮って欲しいところだ。

 小説を書くように映像を作れる時代になったと、粟津順はDVDに収録されたインタビューで語っている。1人で作る方が良いのか、共同作業が良いのかは難しい問題ではある。監督に向く人も向かない人もいるだろうから、個人でうまくいった人が共同作業でも素晴らしい作品を作れるとは限らない。それでもこの技術を個人の枠内に収めておくのはもったいないと思う。より充実できる部分が多くあるからこそ、可能性も感じるのである。

2006/08/26(土)「ラフ」

 「ラフ」パンフレットあだち充の原作コミックを大谷健太郎監督が映画化。主演は長澤まさみと映画初出演の速水もこみち。この2人に関してはそれぞれの魅力を見せていると思うし、いくつか良い場面もあるのだが、肝心のドラマがあまり盛り上がっていかない。設定だけを用意して、描写が不十分なのである。状況を説明するシーンがあるだけで、それぞれのシーンが有機的に結合していかないのがもどかしい。原作は未読だが、そのダイジェストになった観がありあり。原作のキーとなる場面を取り出して組み合わせただけで、もったいない作りだと思う。力点となるべきポイントが不鮮明なので平板な印象を与える結果になっている。

 日本水泳連盟が全面的にバックアップしたという水泳シーンの吹き替えには違和感がないのだが、その水泳のドラマがスポーツを題材にした映画ならばこうあるべきという描き方になっていないのは残念。水泳の魅力をしっかり描いた方が本筋の主人公2人の恋愛感情の揺れ動きも効果的になったと思う。脚本の金子ありさ、監督の大谷健太郎ともスポーツには興味がないのではないか。

 「タッチ」同様、基本的には重いテーマを含んだ話である。競泳の自由形で日本選手権に出場した高校生の大和圭介(速水もこみち)はレースの途中で足を痛めてリタイア。通路ですれ違った少女から「ひとごろし」と言われる。その少女は高飛び込み選手の二ノ宮亜美(長澤まさみ)で、圭介と亜美の実家はともに和菓子屋でライバル関係にあった。2人は同じ高校で同じ寮に入った。くじを引いた男女がデートするという寮の伝統で、2人は1日デートすることになる。そこで圭介は亜美が自由形の日本記録保持者の仲西弘樹(阿部力)と幼なじみで「おにいちゃん」と慕っていることを知る。ちょっとした誤解から圭介はデートの最後で「お前なんか、大嫌いだ」と言ってしまうが、徐々に2人は心を通わせていく。翌年の日本選手権、仲西は自損事故で重傷を負って欠場し、圭介が優勝する。その事故に亜美は責任を感じ、圭介との仲は疎遠になっていく。

 この三角関係が映画のメイン。前半の1日デートの場面などはいい感じだが、後半、映画はストーリーを消化するのに性急になった感じが拭いきれない。事故の責任を感じる亜美という設定が十分に機能していかないのはこの性急さがあるためだろう。亜美の心変わりの描き方にも説得力を欠く。描写が不足する一方で、高飛び込みチャンピオンの小柳かおり(市川由衣)が圭介に告白するシーンは不要としか思えない。これだけで終わっているのである。もっとストーリーをすっきり整理する脚色が必要だったのだと思う。

 タイトルの「ラフ」の意味は映画の最初の方で寮の管理人(渡辺えり子)から説明される。寮に入った新入生たちはまだラフスケッチの段階でこれから1本1本しっかりした線を引いていくことになるという意味。これは2人の揺れ動く関係を表すとともに圭介の荒削りな才能という意味も含まれているのだろう。それにしては才能の部分が描かれないのがスポーツを題材にした映画としては弱いところだ。長澤まさみのアイドル映画としても、初の水着姿を披露しているのが大きな利点とはいえ、同じくあだち充原作を映画化した去年の「タッチ」(犬童一心監督)には及ばないと思う。

2006/08/13(日)「ハチミツとクローバー」

 「ハチミツとクローバー」パンフレット羽海野チカの原作コミックをCMディレクターの高田雅博監督が映画化。美大に通う5人の男女のそれぞれの片思いを描く。といっても切ないだけではなく、意外にクスクス笑える場面が多くて面白かった。篠原哲雄監督の傑作「深呼吸の必要」によく似た爽やかさを感じたが、それは恋が成就しないことと無関係ではないだろう。登場人物たちにとっての事件は一様に失恋であり、それ以外のことはほとんど描かれない。淡い人間関係、淡い物語の映画である。この淡さが良くも悪くもこの映画の特徴になっている。原作もアニメも見たことがないが、心地よさを感じさせる映画に仕上げた高田雅博は監督デビュー作を無難にまとめたと思う。大学生の飲み会など日常を描いた場面や芸術に打ち込む場面になんだか懐かしさを覚えた。

 浜美大の5人が主要キャラクター。絵の天才少女はぐみ(蒼井優)、彼女を見た途端に恋に落ちる主人公の竹本(櫻井翔)、友人の真山(加瀬亮)、真山を好きな山田(関めぐみ)、大学に何年も通っている森田(伊勢谷友介)の5人である。蒼井優は天才少女を無理なく演じており、主人公の竹本のいかにも青春映画風のキャラクターも悪くないけれど、個人的には真山と山田の関係が良かった。真山はバイト先の建築事務所の理花(西田尚美)に思いを寄せている。同時に山田が自分に好意を持っていることも知っている。その山田に「俺を見るのはやめてくれ。俺、たぶん、変わらないから」と言う。「わたし、今、ふられた?」と呆然とする山田。しかし、その後で、真山は理花に事務所を辞めてくれと言われる。「狭い事務所でそういう関係は良くないから」。ほぼ同時に失恋した2人はそれでも相手への思いをあきらめない。終盤、奈良漬けみたいに酔っぱらった山田が背負ってもらった真山の耳元で「好きだよ」とつぶやくシーンがいい。関めぐみはこのほか、再び事務所に勤めることになった真山と別れた後で、歩きながら泣き顔を見せるシーンも良く、昨年の「8月のクリスマス」よりもうまくなったと思う。

 少女漫画によくある狭い人間関係そのまんまの映画だが、それでも映画らしい雰囲気を備えたのは高田雅博監督の演出に破綻がないからだろう。悪意を持つ人間が一人も出てこないのも心地よさの要因だが、登場人物を魅力的に撮ることに高田監督は力を尽くしているように思える。難を言えば、語り手が統一していないのが惜しい。もう単純に主人公の見た物語として構築した方が良かったのではないか。そうすると、はぐみに一目惚れするシーンの処理を考えなくてはいけないが、「人が恋に落ちる瞬間を初めて見た」という真山のナレーションはなくてもかまわなかったし、むしろ、人が恋に落ちる瞬間を描写として描いた方が良かったと思う。

 分からないのは時々登場する黒猫(エンドクレジットにも出てくる)。体がぼけて、はっきりとは見えないこの黒猫に、監督はどういう意味を持たせたかったのだろう。

2006/08/12(土)「吸血鬼ゴケミドロ」

 1968年の松竹映画。小学生のころ、この映画の看板が凄く怖かった。額が割れた人間の大きな顔だったのである。車で映画館の前を通る時は目を閉じた。もちろん、今となってはまったく怖くない。

 飛行機が赤く光る物体に遭遇して不時着する。飛行機には時限爆弾を持った男と外国の要人を暗殺した狙撃犯が乗り合わせていた。乗客9人が助かるが、水も食糧もなく、極限状況となる。という設定は「マタンゴ」みたいだが、別に島に不時着したわけでもないので、どうとでもなりそうな感じはある。狙撃犯はスチュワーデスを人質にして外へ逃げ、そこで円盤に遭遇。額がぱっくり割れてアメーバ状の宇宙生物ゴケミドロが中に入り込み、血を吸うために他の人間を襲い始める。

 たしか、これ「黒蜥蜴」(深作欣二監督)と2本立てだったと思う。上映時間が1時間24分と短いのはそのためだろう。昔の日本映画はこれぐらいの長さでちょうど良かった。VFXは当時としてはよくできている方で、ペシミスティックなラストも悪くない。カルト的な映画で、タランティーノはこの映画のファンなのだそうだ。脚本は高久進と作家の小林久三。監督は佐藤肇(なんと、映画用に再編集した「未来少年コナン」の監督だ)。出演は吉田輝雄、佐藤友美、高英男、高橋昌也、金子信雄など。

 ゴケミドロが「われわれは地球を征服に来た」なんてメッセージを出すのが、いかにもB級SF。SF感覚が少し狂っているのは仕方がないか。これに比べれば、「マタンゴ」は良くできていたなと思う。

2006/07/17(月)「日本沈没」

 「日本沈没」パンフレット映画を見た某SF作家が「小松左京原作とはまったくの別物」という趣旨のことを書いていたのが気になっていた。映画を見てみると、なるほど、原作の大きな改変がある。某アクションスターが主演したアメリカ映画を思わせる展開である(パンフレットでは小松左京原作の「さよならジュピター」を指摘している)。これが安易な改変なら口を極めて罵るところだが、樋口真嗣監督、映画をうまくまとめている。改変には興行上の計算もあったのかもしれないが、阪神大震災後の映画として何よりも映画のラストに希望が欲しかったのだろう。こういう改変をしつつ成功したことは褒められていい。樋口真嗣のこのまとめ方と通俗性はハリウッド映画を目指しているように思える。正攻法に徹した岩代太郎の音楽が映画に風格を与えている。

 主演2人の好演も映画を支えている。特に柴咲コウ、「東京消防庁ハイパーレスキュー隊阿部玲子、皆さんを救出に来ました」というラストのセリフは、ヘリからカッコ良く登場する冒頭のシーンと呼応していてとてもいい。草なぎ剛も役柄に真摯に取り組んだ姿勢がかいま見えて僕は好感を持った。残念なのは庶民の視線で未曾有の大災害を描きながら、庶民のエピソードが少ないこと。これをもっともっと描けば、映画はより充実したのではないか。脚本にそういう部分での厚みが足りないのである。

 太平洋プレートの沈み込みで蓄積されたマントル(メガリス)が崩壊することによって、太平洋プレートの沈み込みが加速、それに引きずられて日本は沈没する。というのが映画の最初の方でアメリカの科学者が提示する仮説。これは30年後に起きるとされていた。しかし、田所博士(豊川悦司)は独自の調査によってマントル内のバクテリアの増殖でプレートの沈み込みが加速し、日本は1年以内に沈没することを発見する。そして日本各地で火山が噴火、大地震が発生し、日本列島は崩壊していく。

 映画はこの骨格に深海潜水艇のパイロット小野寺(草なぎ剛)と東京消防庁のハイパーレスキュー隊員阿部玲子(柴咲コウ)のエピソードを絡めて描く。冒頭、静岡を襲った大地震で両親を失った少女美咲(福田麻由子)が火に巻き込まれそうになるのを小野寺は見つける。間一髪のところで、レスキュー隊のヘリが来て、ロープで下りた隊員が少女を救う。この呼吸がとてもよろしい。隊員はもちろん玲子で、このことで2人は親しくなる。政府側の対応を代表するのが文部科学大臣で危機管理担当大臣に指名された鷹森沙織(大地真央)。沙織は田所博士と20年前に離婚したという設定。首相(石坂浩二)が阿蘇の噴火で死に、首相代行となった内閣官房長官(國村隼)と対立しながら、国民を救出しようと奔走する。

 映画は後半、次々に起きる大災害と、まるで「ドラゴンヘッド」のような火山灰が降る中で逃げまどう人々を描きながら、イギリスに脱出しようと誘う小野寺と玲子の関係に焦点を絞っていく。玲子は阪神大震災で両親を亡くし、自分だけレスキュー隊員に助けられた過去を持つ。今は東京の叔母(吉田日出子)の世話になっている。だから美咲の姿に自分を重ねており、「一人でも多くの人を助けたい」と思っている。愛する者を失う悲しみに耐えられなかった玲子は「もう誰も愛さない」と誓ったが、小野寺を愛してしまう。終盤の小野寺と玲子の関係が切ない。

 樋口真嗣は73年版「日本沈没」の影響を大きく受けているそうだ。73年版は名作でも傑作でもないが、それなりのインパクトは持っていた。パニック映画流行の中で封切られた旧作と樋口版「日本沈没」の違いは時代背景の違いとも重なっているのだろう。映画の出来としては今回の方が良いと思う。