2016/01/24(日)「恋人たち」

「恋人たち」パンフレット

 昨年12月に橋口亮輔監督が担当した日経の「こころの玉手箱」を読んで、心にしみる文章を書く人だなと思った。一節を引いておく。

 「最後にこの人ならわかってくれると思い『助けてほしい』と電話した。『おれ、橋口さんのこと大好きだよ。橋口さんのためなら何でもするよ』と彼。1カ月後、彼には何もする気がないことがわかった。ずーっと風呂に入っていて、湯に浮かんだアヒルのおもちゃを見ていた。斜めになったままで、沈みかけているのに沈まない。『頑張れよ、お前。沈むなよ』。そう語りかけていた」

 アヒルのおもちゃは映画の中心となるアツシ(篠原篤)のアパートの風呂にも浮かんでおり、「沈むなよ」というセリフも出てくる。「恋人たち」に登場するのは普通の人たちだ。いや、アツシだけは妻を通り魔に殺されたという特殊な境遇にあるが、勤め先(橋梁検査の会社)も生活も普通だ。このアツシと主婦の瞳子(成嶋瞳子)と弁護士でゲイの四ノ宮(池田良)に共通するのは周囲に理解者がいず、孤独であること。橋口監督はアツシたちの鬱屈した孤独を描くことで、今の日本の現状と重ねている。

 アツシの妻など3人を殺した被告は心神耗弱で無罪になりそうだ。3年たっても妻の突然の死のショックから立ち直れないアツシは損害賠償訴訟を起こそうとしているが、手続きはなかなか進まない。病院に通っているが、金がないので国民健康保険料も払えない。瞳子は雅子さまの結婚のビデオを繰り返し見ている。そこには若い頃の自分の姿も映っている。ふとしたことから、パート先で納入業者の男(光石研)と知り合い、心をときめかす。四ノ宮は高校の同級生だった男に思いを寄せているが、あらぬ疑いをかけられてしまう。3人はそれぞれに今にも沈みそうなアヒルのような存在なのである。

 しかし、3人とも沈みそうで沈まない。リアルなシチュエーションと描写に笑いを交えて、3人の日常のドラマが語られた後、映画はささやかな希望を用意している。アツシの職場の先輩黒田(黒田大輔)が言う。「笑うのはいいんだよ。腹いっぱい食べて笑ってたら、人間なんとかなるからさ」。大げさな再生ではなく、人が少しずつ立ち直っていくのに必要なのは人とのつながりだ。映画は静かにそう語りかけているように思える。

 映画は元々、時代を映す鏡のような側面を持っているが、最近はそういう作品が少なくなった。今を真摯に見つめ、今を生きる人のドラマを作ることでこの映画はそれを兼ね備えた。無名の俳優たちを起用したことも時代に密着できた理由の一つだろう。登場人物たちの姿に深く共感し、愛おしくなってくる傑作だ。

2016/01/18(月)「ブリッジ・オブ・スパイ」

 終盤、東ベルリンで再会を果たした弁護士ジェームズ・ドノバン(トム・ハンクス)にソ連のスパイ、ルドルフ・アベル(マーク・ライランス)が言う。「君への贈り物を預けておいた。あとで受け取ってくれ」。「僕には贈れるものが何もない」と答えるドノバンに対してアベルは「This is Your Gift(これが君の贈り物だ)」と繰り返す。ここから物語が終わった後のだめ押しの電車のシーンまで感動に打ち震えながら、感心しまくっていた。スティーブン・スピルバーグ、うますぎる。サスペンスとユーモアと、何よりもヒューマニズムの太い幹に貫かれた作劇と演出は見事と言うほかない。中盤にあるスパイ機U2撃墜のスペクタクルな描写も含めて、もう自由自在にスピルバーグは物語を語っていくのだ。

 ドノバンがスパイの弁護を引き受ける序盤、本人ばかりか家族まで「ソ連の味方をする裏切り者」として民衆から非難を受ける描写は「アラバマ物語」のコピーかと思って眺めていたのだが、ソ連とアメリカが拘束した互いのスパイ交換の話になってぐいぐい面白くなってくる。アメリカ政府からの依頼で交渉役を引き受けたドノバンは東ベルリンへと向かう。そこで東ドイツに拘束された大学生フレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)の存在を知り、予定の1対1から1対2に変えて捕虜交換を実現するために奔走する。アメリカが東ドイツを国として認めていないためドノバンは国の代表ではなく、民間の立場で交渉に当たる。国境を越えて東ベルリンに入るのも独力で行わなければならない。そうした困難を乗り越えて、人道的見地からドノバンは交渉を進めていくことになる。

 脚本を書いたのはコーエン兄弟だが、この物語展開はスピルバーグがかなり関わったのではないかと思う。コーエン兄弟が監督していたら、まったく違ったタッチの映画になっていただろう。スピルバーグのヒューマニズムがとても好ましい。ドノバンは確かに政府の依頼で交渉に当たるが、政府の意向に反してプライヤーを助けようとする。ドノバンの行動規範は国と国の関係や国家の利益のためではなく、人としてどうあるべきかに依っている。欲を言えば、ドノバンがなぜこうした考え方を持つに至ったかを描いておけば、交渉役をすぐに引き受ける場面の説得力も増しただろうが、無い物ねだりと言うべきか。

 ベルリンの壁が建設される風景や壁を乗り越えようとして射殺される人たち、冷戦下の厳しい現実を織り交ぜていながら、映画の印象はとても温かい。それは誠実さを備えた人間が苦労の末に勝利する物語だからだ。体型は少し違うけれども、トム・ハンクスはフランク・キャプラ映画のジェームズ・スチュアートを思わせる理想的なキャラクターを演じきっている。

2015/12/23(水)「クリード チャンプを継ぐ男」

 高給の仕事を辞めて、ロサンゼルスからロッキー・バルボア(シルベスター・スタローン)のいるフィラデルフィアに引っ越した主人公アドニス(マイケル・B・ジョーダン)は同じアパートの階下に住むビアンカ(テッサ・トンプソン)と知り合う。ビアンカは進行性の難聴だが、歌手を目指している。なぜ、歌手になりたいのかとアドニスに聞かれたビアンカはこう言う。

 「生きてるって実感できる」

 高給であっても、人生に満足が得られるわけではない。アドニスにとっても、生きていることを実感することがボクシングに打ち込む理由なのだろう、と途中までは思っていた。しかし、そうではなかった。映画はクライマックスで本当の理由を明らかにする。

 チャンピオンとの試合、最終ラウンドに入る前のセコンドでアドニスはロッキーにあるセリフを言うのだ。この一言ですべてが氷解した。そういうことだったのか……。映画はここまで主人公の本当の動機を周到に隠している。いや、あちこちにそれを仄めかすセリフはあるのだが、この一言は決定的に重い。主人公の動機は他人には極めて分かりにくいものになっているのだ。これを聞き逃したり、聞いてもその意味が分からなかったりする人がいるようで、この傑作に低評価を付けている人はたいていこれに当てはまっているのだろう。

 アドニスは「ロッキー4 炎の友情」で死んだアポロ・クリード(カール・ウィザース)と愛人の間に生まれた。生まれた時には既にアポロは死んでおり、母親も出産の際に死んだ。施設に預けられたアドニスは毎日、けんかばかりしている。そこにアポロの妻がやって来て、アドニスを引き取る。その時に初めてアドニスは自分がアポロ・クリードの息子であることを知る。

 はっきり言って、演出も演技もそれほど際立ったものではなく、ラスト近くまでは普通の名作スピンオフというイメージで眺めていた。というか「ロッキー」第1作のリメイクに近いと思っていた。ボクシング映画のパターンというのはそんなに多くはなく、ハングリーな若者がハードワークを続けて夢を掴むまでを描くのが王道だ。脚本・主演のシルベスター・スタローンとともにアメリカン・ドリームを体現したと言われた「ロッキー」がまさにこのパターンだった。アメリカン・ドリームというのは要するに社会的な成功を収めて大金を手にすることだ。既に高給を手にしているアドニスがアメリカン・ドリームを求める必要は少しもない。それではアドニスはなぜボクシングに打ち込み、チャンピオンを目指すのか。

 監督・脚本のライアン・クーグラーはこの「ロッキー」新章を作るにあたって、説得力のある理由を相当に考えたに違いない。普通に作れば、「ロッキー」の焼き直しと言われるのがオチだからだ。熟慮の末、クーグラーは設定も含めてこれしかないという理由にたどり着いた。言われてみれば、なんだそんなことかと思えるもの、しかし本人にとっては自分の人生をかけても良いぐらいのとてつもなく重いもの。この映画の主人公の動機はそういうものになっている。

 最後に主人公の動機が明らかになり、そこまでの行動にすべて納得がいく映画として、僕はロナルド・ニーム「オデッサ・ファイル」を思い出した。ただし、この手は1回しか使えない。続編の要望があるかもしれないが、作るのはやめた方が良いと思う。

2015/12/08(火)「スター・ウォーズ フォースの覚醒」

 ディズニー配給になったため、オープニングに20世紀フォックスのファンファーレはない。その代わりにシンデレラ城が出てきたらどうしようかと思ったが、それはなかった。ルーカスフィルムのタイトルが出た後にいつものように物語の経緯が字幕で画面の奥に流れていく。そこで説明される内容がまず驚きで、そういうことになっていたのかと思う。海外の映画評サイトに第1作「エピソード4 新たなる希望」のリメイクという感想を書いている人がいたが、それに「エピソード5 帝国の逆襲」を加えた感じの物語である。

 J・J・エイブラムス監督の映画としては抜群に面白かった「スター・トレック 」(2009年、amazonプライムビデオ)には及ばず、「スター・ウォーズ」シリーズの中では「帝国の逆襲」「新たなる希望」の次、「エピソード3 シスの復讐」と同じぐらいの出来だと思う。「エピソード1 ファントム・メナス」の時のようなちょっとがっかりした気分はなく、新たな3部作開始の物語として申し分のない出来と言って良い。ライトセーバーが絡む2つの場面にはぐっときた。ハン・ソロなどの懐かしいキャラクターやスターデストロイヤー、Xウイング、タイファイターなどの再登場はファンにはたまらないだろう。エピソード1~3よりも、親近感が強いのはこれが「ジェダイの帰還」の後の物語だからだ。

 ミレニアム・ファルコンに乗り込んだハン・ソロは「Chewie ……,We're home」(チューイ、……我が家だ)とつぶやくが、リアルタイムで「スター・ウォーズ」を見てきた観客にもホームに戻ってきた感覚がある。「新たなる希望」以降の時の流れは自分の時の流れと重なってしまう。だから懐かしさと感慨を持たずにはいられない。そういう幸福な体験をもたらす映画はめったになく、映画の出来以上に、それがこの作品の大きな価値になっている。

 物語は「ジェダイの帰還」から30年後の設定。主人公のレイ(デイジー・リドリー)は砂漠の惑星ジャクーで廃品回収で生計を立てながら、ひとりぼっちで暮らしている。そこにレジスタンスのロボットBB-8とストームトルーパーズから逃げ出したフィン(ジョン・ボイエガ)がやって来て、レイの運命は大きく転換していく。あらすじで書いていいのはここまでだろう。

 予告編を見た時に感じたのはキャストの弱さだった。新人のデイジー・リドリーやジョン・ボイエガで果たして大丈夫なのかと思わざるを得ず、それを補強するのがハリソン・フォード、キャリー・フィッシャー、マーク・ハミルなのだろうと思えた。考えてみれば、「新たなる希望」の時にはこの3人は無名だったのだが、あの時には画期的なVFXという大きな強みがあった。VFXが普通になった今、キャストは重要だ。デイジー・リドリーはよくやっていると思う。ライトセーバーのアクション場面でも不足はない。今回はビリングが5番目だが、エピソード8ではもっと上に行くのではないか。

 ダースベイダーを思わせる新たな悪役カイロ・レンについて、エイブラムスは「いわゆる完璧な悪人ではなく、壊れた悪人として描きたかった。悪党になる過程の、いわば訓練中の悪党としてね」と語っている。ここは議論の分かれるところだろう。ダースベイダーを小粒にした感じが拭いきれないのだ。完璧な悪役として登場したダースベイダーは「ジェダイの帰還」で揺れ動いた。今回はその逆を行っているわけだ。

 今回、レイの出自は明らかにされなかった。それが明らかになるのは2017年に公開されるエピソード8においてなのだろう。大きな感慨と期待を抱かせるラストを見て、待ち遠しい思いを強くした。

2015/11/29(日)「フルートベール駅で」

 「クリード チャンプを継ぐ男」の監督・主演コンビの前作。フルートベール駅で警官に撃たれて死んだ黒人青年の実話を描いている。黒人青年の人となりはよく分かるが、組み伏せられて抵抗できない青年をなぜ白人警官は撃ったのか気になる。ティーザー銃と間違ったという説明はなされるが、本当だろうか。

 どういう精神状態だったのか、なぜそこに追い込まれたのかを描けば、映画はさらに充実していたのではないかと思う。