2005/11/21(月)「大停電の夜に」
クリスマス・イブ、停電となった東京で語られる6組の男女の物語。もっともクリスマスらしいのは吉川晃司と寺島しのぶのエピソードで、これは終盤に吉川晃司がサンタクロースの格好をするためでもあるが、海外の小説にはよくあるクリスマス・ストーリーっぽい話になっている。寺島しのぶの語らない言葉(視線)で吉川晃司にすべてが分かるという場面も良かった。この2人の出番は少ないが、12人の出演者の中では一歩抜けている演技だと思う。路地裏にある流行らないジャズバーの豊川悦司とロウソク店の田畑智子が絡む話もいい。これにクライマックスに意外な人間関係が明らかになる原田知世の素敵な雰囲気までが、この映画の優れた部分と感じた。
全体的には6つの話を2時間13分で語るのには少し無理があり、田口トモロヲが3つの話に絡むのは時間を節約するためではないかと思えてくる。田口トモロヲにそれほどの魅力はないし(普通にハンサムな役者の方が説得力があったと思う)、バラバラと思えた人間関係があまりに接近してくると、話自体のスケールが小さくなるのだ。それと関係するが、こういうエピソード集では最後に収斂させていくものが必要で、それがこの映画では豊川悦司のバーになっている。この場面はもっと簡単でも良かったと思う。この種の映画では成功作の「ラブ・アクチュアリー」が優れていたのは登場人物全員がそろうラストの空港の場面の前にそれぞれのクライマックスを用意していたからで、ラストはクリスマスの幸福感のみに集約されていた。脚本(相沢友子と共同)・監督の源孝志の都会的なセンスは買うけれど、こういう話をうまく映画化するにはさらに脚本を練り上げることが必要のようだ。
映画の基になったのは監督の源孝志が2年前に撮ったNHKテレビのドキュメンタリー「N.Y.大停電の夜に」だという。それを東京に置き換えて作ったのがこの話で、クリスマスに設定した意味はそれほど大きくない。一般的なクリスマスの光景が描かれないのはそのためだろう。6つのエピソードそれぞれにうまく考えてあるが、唯一、設定に無理があると感じたのはベテランの宇津井健と淡島千景夫婦の話。淡島千景は結婚前に不倫の恋をして子供を産んでいた。その子供から連絡があったことで、結婚45年目にして宇津井健に初めて告白するのだが、宇津井健が結婚当時にそれに気づかなかったというのはおかしい。ここは男女を入れ替えた方が自然だった。あるいは知っていて知らないふりをしていたとかにしておいた方が良かっただろう。
豊川悦司と田畑智子のエピソードでは豊川のキザさよりも田畑のうまさに感心した。ジャズバーとロウソク店は向かい合わせにあり、田畑が以前から豊川に秘かに思いを寄せていたことが徐々に明らかになる。この脚本、こういう部分がとてもうまいと思う。語らない言葉、秘めた思い、そういう部分をうまく表現している。それは原田知世のエピソードにも言える。原田知世は夫の不倫に悩んで秘かに離婚届を用意しているが、いったんは外食の約束をキャンセルした夫が早く帰ってきたことで、修復のきっかけが生まれる。せっかくクリスマスに設定したのだから、エピソードに少しはミラクルなあるいはファンタスティックな出来事も欲しいと僕は思うが、相沢友子・源孝志のコンビは人間の力による奇跡の方を選んだのだろう。このコンビ(筆名はカリュアード)の脚本で次作を見てみたいと思う。
それにしても久しぶりに見た原田知世は良かった。20代後半から現在まで映画出演が少ないのがもったいないと感じるほど。キネ旬で河原晶子が「『シェルブールの雨傘』のドヌーヴの気配がある」と評していたが、その通り。もっと映画に出すべきではないか。
2005/11/14(月)「ALWAYS 三丁目の夕日」
「ジュブナイル」「リターナー」の山崎貴監督が西岸良平の原作コミックを映画化。山崎貴は得意のVFXで昭和33年の東京を詳細に再現し、そこで繰り広げられる人情ドラマを笑わせて泣かせる演出でうまく描き出している。少なくとも西岸良平コミックの実写映画化としては文句の付けようのない作品になった。出演者がそれぞれに良く、直情径行型の自動車修理工場の社長を演じる堤真一と薄幸ながらいい女っぷりを見せつける小雪の2人に特に感心した。堤真一の妻役の薬師丸ひろ子や売れない小説家の吉岡秀隆、集団就職で青森から出てきた堀北真希、子役2人もうまい。役者たちが映画に貢献した部分は大きいと思う。ダイハツミゼットや氷式の冷蔵庫、フラフープ、都電、湯たんぽ、駄菓子屋のくじなどなどの懐かしいガジェットとともに語られるエピソードはどれも家族の絆を描いたものである。山崎貴は作りの上で「ラブ・アクチュアリー」を参考にしたそうだ。だからこれは「家族愛アクチュアリー」でもあるのだろう。
建設中の東京タワーが見える東京の下町。自動車修理工場・鈴木オートに集団就職で青森から星野六子(堀北真希)がやってくる。立派な自動車会社を期待していた六子は小さな工場と知って少しがっかり。社長の鈴木(堤真一)は喜怒哀楽をそのまま出すが、悪い男ではない。妻のトモエ(薬師丸ひろ子)は優しく、やんちゃな小学生の一平(小清水一揮)もいる。鈴木オートの向かいには売れない小説家で駄菓子屋を営む茶川竜之介(吉岡秀隆)がいる。茶川は行きつけの飲み屋のヒロミ(小雪)から頼まれ、酔った勢いで知り合いの息子の小学生・古行淳之介(須賀健太)を預かることになる。映画はこの2軒の家をメインにして鈴木家にテレビが来た時の騒動やお盆にも故郷に帰りたがらない六子、ヒロミと淳之介とともに疑似家族を構成していく茶川、淳之介の生い立ち、戦争で妻子を亡くした医者の宅間などの姿を描いていく。
大変よくできた映画であることを認めた上で言うと、全体に人工的な感じがつきまとった。VFXで再現した東京だけでなく、エピソード自体にもそれは感じる。VFXマン出身の山崎貴はVFXを設計するのと同じように話を組み立て、かつての人情話を再現しているように思う。その手つきが人工的なのである。端的に言えば、昭和のテーマパークのような映画というべきか。作家の小林信彦は小説「夢の砦」を書く際に、「1960年代を詳細に描くので若い人にはSFに見えるかもしれない」と語ったが、それと同じことを感じたのである。
例えば、小栗康平が描いた「泥の河」(1981年)の昭和30年代と比較すれば、はっきりするだろう。東京と大阪の舞台の違いはあるにしても、小栗の映画が貧しさに徹底的にリアルだったのに対して、この映画はあくまで高度成長前の理想の時代として昭和30年代を描いている。だから楽しい思い出やちょっと悲しい思い出が詰まったノスタルジー扇動装置としては大いに機能しており、それが中高年を引きつける理由でもあるのだが、ドラマとしては類型的になっている。類型的なドラマであっても数を積み重ね、キャラクターを描き込めば、人を感動させることはできるわけで、その点、山崎貴は頑張ったと思う。しかし、映画全体の作りのうまさは感じても、いつかどこかで聞いたような個々の話の作りにうまさは感じない。ぜいたくな望みかもしれないが、もっとオリジナルな話が見たいと思えてくるのである。
「男はつらいよ」シリーズがなくなった今、これは下町を舞台にしている点で、その代用品として受け取られた側面があるようだ。個人的にはこの映画に成功したからといって、山崎貴にはこの路線を進んでもらいたくはない。人情話を撮れる監督はほかにもいるだろう。VFXを生かしたSFを撮れる監督として山崎貴は貴重な存在なのだ。次作はぜひSFを望みたい。
2005/11/08(火)「メゾン・ド・ヒミコ」
「触りたいとこないんでしょ?」。沙織(柴咲コウ)の言葉が絶望的に響く。ゲイの岸本(オダギリジョー)と沙織の間には越えられない壁があり、心は通い合っても体の関係は結べない。この映画、ゲイと女のラブストーリーという甘ったるい話では全然なく、どこまでも厳しい話である。障害者と大学生の関係を描いた「ジョゼと虎と魚たち」と基本的には同じ構造でありながら、ラブストーリーとしては機能していない。それは父と娘の確執を取り入れたためもあるが、監督の犬童一心には元々、甘い話にするつもりはなかったのだろう。監督の言葉を借りれば、これは「何かを試そうとした」人たちの話であり、その何かとは人と人とを隔てる壁を越えることにほかならない。結局、壁は越えられないのだが、その代わりに映画は小さなハッピーエンドを用意している。これがとても心地よい。柴咲コウ、オダギリジョー、田中泯の好演に加え、テーマを突き詰める姿勢とキャラクターの焦点深度の深さにおいて、今年の邦画の中では群を抜いている映画だと思う。
渡辺あや脚本で犬童一心監督の「ジョゼ…」コンビの作品ならば、絶対に面白いはずだと思いつつ、見る前に気が重かったのはこれがゲイの老人ホームの話であり、オダギリジョーと田中泯のキスシーンまであると事前に知っていたからだが、映画はそうした観客の偏見を見透かすように主人公・沙織のゲイへの嫌悪感を描いていく。沙織の嫌悪感は父親が40歳の時に母親と自分を捨ててゲイとして生きることを選んだことが影響しており、沙織は父親を未だに許せないでいる。母が死に、借金を背負って小さな塗装会社で働いている沙織は風俗でのバイトも考えるが、そんな時、岸本から週に一度、ゲイの老人ホームである「メゾン・ド・ヒミコ」を手伝ってくれと頼まれる。「メゾン・ド・ヒミコ」は銀座のバーをやめた父親が作った老人ホーム。父親は末期がんにかかっており、死ぬ前に娘に会わせたいと岸本は考えたらしい。1日3万円の報酬目当てで沙織はホームで働くようになる。
ここから映画はホームに住むゲイの老人たちの姿を描き、次第に打ち解けていく沙織と岸本の関係を描く。ホームの面々とともにダンスホールに出かけた2人が「また逢う日まで」に合わせて踊るシーンには素晴らしい高揚感があり、これで2人が一気に親しくなることに納得できる。このシーンの後で沙織は岸本からキスをされ、「なんであたしに…」と戸惑うことになる。
渡辺あやの第1稿が完成したのは2001年1月。犬童一心はそれに注文を付け、間に「ジョゼと虎と魚たち」の撮影を挟んで2004年9月に完成した最終稿は第10稿となった。改稿の過程で沙織の父親とヒミコは同一人物となったそうだ。岸本と体の関係を結べなかった沙織がその反動もあって、会社の専務の細川(西島秀俊)に抱かれてしまう所などにこの脚本の洞察の深さを感じる。細川は女子社員に手を出し続けている俗物で、体だけが目当て。沙織と心だけは通い合った岸本と好対照な存在なのである。それを知った岸本のセリフが切ない。
柴咲コウはノーメイクに近いらしいが、そのために普段でも鋭い目つきがより際立つことになった。父親やゲイへの嫌悪感、多額の借金を背負った必死さに説得力を持たせる鋭い目つきであり、これまでの演技の中ではベストではないかと思う。
2005/10/15(土)「この胸いっぱいの愛を」
梶尾真治原作の「クロノス・ジョウンターの伝説」を元にして、「黄泉がえり」の塩田明彦が監督したファンタジー(梶尾真治は映画をノベライズした「この胸いっぱいの愛を」も書いている)。クロノス・ジョウンターとは不完全なタイムマシンの名前とのことだが、映画にタイムマシンは登場しない。飛行機からなぜか20年前にタイムスリップした主人公の鈴谷比呂志(伊藤英明)が少年時代に好きだった年上の女性和美(ミムラ)を救おうと奔走する。和美は難病にかかっており、手術をすれば助かったのに、それを拒否して死んでしまったのだ。これに同じ飛行機に乗っていた3人の男女(勝地涼、倍賞千恵子、宮藤官九郎)のエピソードが並行して描かれる。
物語の視点は逆だが、構成としては「黄泉がえり」と同じで、あの映画が脇筋のエピソードでも泣かせたようにこの映画でも泣かせる話になっている。特に宮藤官九郎のエピソードなどは一場面だけなのに情感豊かに描いてうまいと思う(これは中村勘三郎のうまさのためもある)。僕は本筋の方も面白く見たけれど、難病をポイントにしてしまうのには少し抵抗を感じた。どう生きる意志を持たせるか、和美がどのようにして生きようと決意したかをもっと詳細に描くと、良かったかもしれない。和美が手術を受けようと考えを変えたら、主人公は過去から消えてしまう。愛する人のために願いがかなった時、自分は消えるという切なさをもっと前面に出してくれると、好みの映画になったと思う。主人公に「黄泉がえり」の草なぎ剛ほどの共感を持てないのは伊藤英明の演技のためか、脚本の描き方が不十分なためか。恐らく両方が原因なのだろう。
舞台は北九州市門司。東京から仕事で北九州へ向かった主人公がふと気がつくと、かつての自宅のそばにいて、20年前の自分(富岡涼)に出会い、タイムスリップしたことに気づくという冒頭が好調である。比呂志は少年時代、離婚した母から祖母(吉行和子)に預けられてここで過ごした。慣れない学校と自宅で寂しさを紛らわせてくれたのが、近くに住む大学を卒業したばかりの和美だった。将棋の相手になり、バイオリンも教えてくれた和美を比呂志は好きだったが、和美はある日、入院してそのまま帰らぬ人となった。その間の事情をタイムスリップした比呂志は知り、和美に手術を受けさせようと、奔走することになる。同じ飛行機に乗っていた布川輝良(勝地涼)もタイムスリップしていた。布川はヤクザで殺しに失敗して、北九州でしばらく身を潜めるよう言われたが、たぶん自分は殺されると覚悟している。布川の母親は自分を生んだ時に死んでおり、母親に会えなかったことが布川の心残りとなっている。布川は母親が勤めていた保育園の園長(古手川祐子)から、母がレイプされ、自分がその結果の子だったことを知る。これもいい話なのだが、母親が生むことを決意した理由に今ひとつ説得力がない。
SF的に考えれば、同じ飛行機には多数の乗客がいたのに、なぜ4人だけがタイムスリップしたのか、なぜ20年前なのかという点があいまいである。映画のテーマである「人生で一つだけやりなおすことができたら」という思いは他の乗客にもあるはずだろう。原作の場合はタイムマシンによって自分の意志で過去へ行くわけだから、かまわないのだが、映画の場合は4人の特殊性を何か設定しておいた方が良かったと思う。タイムスリップはあくまで物語を語るための手段というのは分かるのだが、そういう細部が重要なのである。いい話なのに本筋が「黄泉がえり」に劣った印象なのは細部の甘さがあるからだろう。
2005/10/03(月)「蝉しぐれ」
「忘れようと、忘れ果てようとしても、忘れられるものではございません」。
ラスト近く、主人公の牧文四郎(市川染五郎)が藩主の側室になった幼なじみのおふく(木村佳乃)に言う。そうだろうか、と思う。そんなに文四郎にとって忘れられない出来事だったろうか。2人が言っているのは少年時代、川でヤマカガシに噛まれたおふくの指を文四郎が吸って毒を抜いた思い出である。それはおふくにとっては忘れられないことになっただろうが、文四郎にとってそんなに強烈な思い出になるだろうか。もちろん、それを含めたおふくとの交流というのなら、話は別だ。父親の遺体を乗せた大八車を引く文四郎を手伝って、大八車を懸命に押すおふくの姿なら、文四郎が忘れ果てることなどできないだろう。上記のセリフは藤沢周平の原作にはない。当たり前である。もし、このセリフに重みを持たせたいのなら、指を吸ったことによる2人の感情の高ぶりまで細かく描く必要があるだろう。残念ながら、映画にそれはない。むしろ、この場面で少年時代の文四郎を演じる石田卓也の棒読みのセリフにいきなりがっかりさせられた。これに続く、文四郎の親友2人のセリフ回しも同じ。あの程度でOKを出してはいけないだろう。
しかし、問題はそんな些末な部分にあるのではない。映画から時の流れがまったく欠落していることが問題なのだ。石田卓也から市川染五郎に役者が移る場面とクライマックスからエピローグに移る場面に時の流れが感じられない。前者はもう少し映画的な転換を使えば、なんとかなっただろうが、より深刻なのは後者だ。エピローグの場面ではクライマックスから20年が過ぎた設定である。市川染五郎と木村佳乃のメイクはとてもそう見えない。「文四郎さんのお子が私の子で、私の子どもが文四郎さんのお子であるような道はなかったのでしょうか」というおふくのセリフは文四郎への愛の告白であると同時に違う人生を歩みたかったという切実さが込められている。人生はままならない、ということを象徴した場面だ。なのに、この全然老けていない2人のメイクを見ると、セリフに重みがないのである。監督の黒土三男はこのエピローグを思い入れたっぷりに撮っているけれども、効果を上げていないのはそのためだ。
長編小説を2時間余りの映画にする場合、どこかを省略するのは仕方がない。この映画の脚本では反逆の汚名を着せられた父親の処分によって、一軒家から古ぼけた長屋に移らされた文四郎と母親(原田美枝子)の描写を簡単にすることで行っている。ここが簡単なので処分の期間が異様に短く感じてしまうのだけれども、それは仕方がないと思う。しかし、一方で全部を描けないのなら、原作を解体して監督独自の視点で組み立て直すことも必要だったのではないかと思う。少年時代を長い回想にしてしまう方法もあっただろう。回想なら細部が省略されていてもあまり気にならないかもしれない。ただし、原作の肝はこの苦闘の少年時代にある。数々の苦難を乗り越えて、人間的に成長していく姿こそが僕らを感動させるのだ。だから僕はこの原作を教養小説だと思った。
当然のように、文四郎が道場の師範から秘剣村雨を教わるシーンもない。そこもまた簡単にすまされている。文四郎は逆境にあったがために剣に打ち込むしかなかった。人々からの嘲りとひどい仕打ち、みじめな暮らしに耐えて剣に打ち込むことでそれを紛らしていた。序盤と終盤だけを取り上げ、文四郎とおふくの悲恋としてまとめてしまうと、物語はなんだか簡単なものになってしまう。いや、そうならないためにもう少し話に工夫をすべきだった。
黒土三男はこの映画化に15年をかけたという。映画化のあてもないのにロケハンし、脚本を書き、藤沢周平を根負けさせて映画化の許可をもらい、資金集めにアメリカまで行ったという。その間の苦闘は想像に余りある。評判になったNHKのドラマ版の脚本も書いたのに、それでも大好きな原作を自分の手で映画にしたいという思いを持ち続けた熱意には頭が下がる。この映画に黒土三男は満足しているだろうか。人生はままならないということをこの映画の出来こそが象徴しているように僕には思える。