2015/05/09(土)「フォックスキャッチャー」

 アメリカでは有名な事件らしいので予告編でも描かれているし、紹介記事にも書かれていることだが、僕はどういう事件か知らずに見た。そしてクライマックスで驚くことになった。そういう事件だったのか。この犯人はサイコパス(精神病質)じゃないか(実際には統合失調症だったとのこと)。そういう話であるのなら、大富豪でありながら何を考えているのか分からない男を演じるスティーブ・カレルの演技にも十分納得がいく。

 カレルはデュポン財閥の御曹司でアマチュアレスリングで金メダルを取る選手を育てることに意欲を燃やすジョン・デュポンを演じ、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。ジョンはロス五輪レスリングの金メダリスト、マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)にソウル五輪で金メダル獲得を目指すチーム(これがフォックスキャッチャーと名づけてある)に入るよう誘う。マークは金メダリストでありながら苦しい生活を送っていた。質素なアパートでインスタントラーメンを食べる姿がわびしい。アメリカではアマチュアレスリングが盛んとは言えないので、金メダリストであってもああいうものなのだろう。マークは参加するが、妻と2人の子供を持つ兄のデイヴ(マーク・ラファロ)は誘いを断る。ジョンの豪華な邸宅の敷地内に住まいと練習場が整備され、最初はうまくいっていたマークとジョンの関係は次第に険悪なものに変わっていく。

 この険悪な関係になる理由を映画は明確には描いていない。2人の間に同性愛の関係があることを匂わせるのだが、それもはっきりしない。マークとデイヴの兄弟が映画の冒頭、練習場で組み合う場面からそういう雰囲気は立ちこめている。ただし、実際にはマークに同性愛の気はなかったそうだし、ジョンとの関係もそうではなかったという。つまり映画の脚色なのだが、これも含めて3人の関係を子細に見つめ、微妙な感情の揺らぎを描いた脚本の出来は見事と言って良い。

 この3人を描く一方で映画はジョンと母親(バネッサ・レッドグレイブ=そこにいるだけで貫禄の演技だ)の関係を浮かび上がらせる。一流の競走馬を所有する母親は息子も息子が好きなレスリングもバカにしている。ジョンはそんな母親になんとか認められたいと思っている。練習の見学に来た母親の前で急に選手を指導するふりをするジョンの姿が悲しい。ノーマン・ベイツのように喜怒哀楽を表に出さないジョンはノーマン・ベイツのようにマザーコンプレックスなのだろう。

 ベネット・ミラー監督作品としては「カポーティ」「マネーボール」を超えて最も良い出来だ。スティーブ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロの演技がいずれも充実している。特にカレルの演技が素晴らしい。

2015/05/04(月)「セッション」

 名門音楽大学にあるジャズのビッグバンドの厳しい指導者とジャズドラマーを目指す生徒をめぐる話である。見終わって思い浮かべたのは「アマデウス」。ただし、この映画にはアマデウスことモーツァルトは登場しない。出てくるのはサリエリ(以下の人々)である。天才がいなくなった(出てこなくなった)世界で天才の域に達することは金輪際ないであろう2人の凡才が敵対する話。そう受け止めてまず間違いではない。

 天才には確かにインスピレーションのほかに汗が必要なのだろうが、ここで教師フレッチャー(J・K・シモンズ=アカデミー助演男優賞受賞)が要求する汗は多分に間違っている。フレッチャーの低俗で独善的な人間性があらわになるクライマックスで監督・脚本のデイミアン・チャゼルはそう言っているように思える。厳しい教師には立派な人間性を備えていてほしいものだが、それは幻想なのだろう。主人公のアンドリュー(マイルズ・テラー)もまた自分のジャズの道に邪魔になるからという理由でガールフレンドに別れを切り出すバカで浅はかな男なのだから救いようがない。天才が登場しないのと同じ意味合いで映画には正義も真っ当な人間も登場しない。結局、俗物同士の対決の映画なのだ。

 罵詈雑言を吐き、生徒の人間性を徹底的に否定する教師の姿は「愛と青春の旅立ち」のルイス・ゴゼット・ジュニアかと思ったら、「フルメタル・ジャケット」のR・リー・アーメイになり、さらにその先まで行っているところが映画の新しさ。これは音楽ドラマである前にとても興味深い人間ドラマだ。どうもこの映画、というか監督には人間不信が根底にあるようだ。そういう部分がこの先鋭的なドラマを生んだ要因かもしれない。

 先鋭的だから面白いのかと言われれば、そうでもなかった。これ、ジャズでなくても成立する話であり、そこに普遍性があって良く出来ていると思うのだけれど、映画が面白くなるのとは別次元の話であったりする。プロの音楽家からはこの映画の音楽の部分について酷評が出ている。しかし、一般人にはほぼ分からないので支障はない。プロの指摘は映画をリアルにする上では有用だけれども、音楽がダメだからといって映画全体がダメになるわけでもない。

 フレッチャーは「グッジョブ」という言葉が、天才が出なくなった理由だと言う。安易な褒め言葉は人をダメにするという信念の持ち主なのだ。それは一面で真理ではあろうと思うが、「褒めて育てる」という言葉もありますからね。軍隊式の厳しさだけでは天才は生まれない。軍隊式を結局否定しているという意味ではこの映画、「愛と青春の旅立ち」「フルメタル・ジャケット」と共通しているのだった。デイミアン・チャゼル監督にあるのは人間不信ではなく、軍隊不信なのかもしれない。

2015/04/15(水)「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

 全編ワンカットの映画と聞いて感じるのは息苦しさだ。映画というのはカットを割ってリズムを作っていくのが普通だから、長回しには基本的に無理がある。カットを割らないためだけに不要に人物を追うカメラワークは不自然だし、絵的にも面白くない。ところが、「バードマン」には不自然なところがない。何も知らない人が見たら、冒頭とラストを除いてほぼ全編ワンカットの映画であることに気づかないかもしれない。

 ワンカット映画の嚆矢であるヒッチコックの「ロープ」(1948年)は一つの部屋の中だけで進行する話だったから、全編がワンシーンワンカットの映画となっていた。つまり映画の上映時間と物語の時間の進行が一致していた。

 「バードマン」はワンカットの中で回想はあるし、場所も頻繁に変わるし、場面の中心となる人物も変わる。時間の経過も数日間に及んでいる。フィルムの制約から10分ぐらいしか連続して撮れなかった「ロープ」の時代と違って、デジタルなら連続撮影時間に制限はなく、シーンのつなぎ目にも合成が使えるから、こうした撮影が可能になったのだろう。気になったのはシーンのつなぎ目。「ロープ」はフィルムを取り替える際に人物がカメラを覆ったりして黒みを入れて処理していた。「バードマン」も同様にシーンのつなぎ目に黒みを入れる場面があるが、つなぎ方はそれだけではなく、カメラのパンの途中で切り替えるなど工夫している。まあ、それにしても移動は多いし、撮影は大変だっただろう。

 物語は過去に「バードマン」というヒーロー映画で人気を得たが、それ以後ヒット作のない初老の役者リーガン・トムソン(マイケル・キートン)がブロードウェーの舞台で復活をかける話。リーガンはレイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」を脚色・演出・主演で舞台化しようとするが、開幕までにさまざまなトラブルが起き、次第に精神的に追い詰められていく。終盤にスペクタクルなシーンを入れているし、笑いも随所にあって観客へのサービスは怠りないのだが、こういう話であれば、普通にカットを割って撮影しても良かったのではないかという気もする。

 ビルの屋上からカメラが降りてきて窓を通って部屋の中に入ってくるというワンカットも、以前ならそのカメラワークだけで驚いたものだが、合成で何でもできるようになった今は驚けない。映画の撮影技法は物語を効果的に語るために使うべきで、ヒッチコックが「ロープ」を撮ったのは実験的な意味合いが大きかったと思う。「バードマン」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥはシリアスなドラマが多い監督だが、意外にヒッチコックのように映像の遊びが好きな人なのかもしれない。

2015/04/11(土)「ソロモンの偽証 後篇・裁判」

 「口先だけの偽善者」。藤野涼子(藤野涼子)は柏木卓也(望月歩)からそう言われたことの負い目から学校内裁判を行うことになる。これは原作にはない設定で、涼子だけでなく、弁護士を務める神原和彦(板垣瑞生)もこの言葉に影響されており、映画を貫く1本の軸となっている。

 「前篇・事件」は三宅樹里(石井杏奈)と浅井松子(富田望生)に対する大出俊次(清水尋也)たちの暴力など描写の迫真性に優れ、永作博美や田畑智子、黒木華、市川実日子ら女優陣の踏ん張りが目立ち、中学生たちの演技のまっすぐさに心を動かされた。疑いようのない傑作だと思う。それを受けた「後篇・裁判」はいよいよ柏木卓也の死の真相が裁判によって明らかになる。映画の出来としては残念ながら前篇には及ばなかったというのが正直な感想だ。しかし、文庫で3000ページに及ぶ長大な原作の映画化として極端なダイジェストにはなっていず、異例にうまくいったのではないかと思う。藤野涼子をはじめとする中学生たちが良いためだろう。

 3000ページもありながら、原作はツルツル読める面白さだが、普通なら長くても上下2巻で終わりそうな物語展開だ。こんなに長くなったのはこれが詳細な描写とキャラクターの豊富なエピソードで成り立った物語だからだろう。キャラクターは端役に至るまで書き込まれている。特に第1部はスティーブン・キングとの類似を感じずにはいられなかった。宮部みゆきにはキングの「ファイアスターター」にインスパイアされた「クロスファイア」のような作品があるが、「ソロモンの偽証」は題材ではなくキングの手法を取り入れている。

 当然のことながら、映画は詳細な書き込みとエピソードを大幅に省略している。柏木卓也の死体の発見者である野田健一(前田航基)の家庭の事情をばっさりと切り、いくつかのエピソードを原作とは違うキャラクターにまとめている。しかし、骨格は原作から逸脱せず、テーマもそのままだ。うまい脚本だと思う。加えてオーディションで選んだ中学生たちの演技が実に良い。藤野涼子はまっすぐな視線と姿勢に好感が持て、初主演とは思えない堂々とした演技を見せる。板垣瑞生は裁判でのセリフ棒読みが少し気になるが、まあ裁判だから演技的な部分は残ってもおかしくはない、と好意的にとらえることはできる。リハーサルを繰り返し、演技を引き出した成島出監督に拍手を送りたい。

 後篇が前篇に比べて落ちるのは事件の真相に説得力を欠く部分があるからで、これは原作でも同様だ。原作では真相(犯人の動機)を詳細に描き込んであるのだけれど、それでも十分な説得力はないのだから、映画でできるわけがない。それでも原作と同様に満足感が残るのは出演者たちの好演によるところが大きいだろう。出番は少ないが、浅井松子の父親を演じる塚地武雅が温かい印象を残す。

2015/04/05(日)「アラバマ物語」

 ミステリマガジン5月号のコラムでオットー・ペンズラーがハーバー・リーの小説「アラバマ物語」(amazon)について、こう書いている。「おそらく史上最高に成功したミステリ小説で、出版から半世紀以上が経った今でも、アメリカで毎年五十万部近く売れている」。この小説を映画化した作品が黒人差別を描いた名作でグレゴリー・ペックがアカデミー主演男優賞を受賞したことは知っていたが、ミステリとは知らなかった。原作が毎年50万部も売れていることも知らなかった。ペンズラーのコラムは「アラバマ物語」の続編が出版されることを紹介したもので、続編の初版は200万部だそうだ。これほど売れ続けている小説の続編であれば、破格に多い初版も当然なのだろう。原作を読んでみたくなったが、その前に2年前にWOWOWから録画した映画(1962年製作、ロバート・マリガン監督)を見た。

 1932年のアラバマ州メイコムという小さな町が舞台。弁護士の父親アティカス(グレゴリー・ペック)と息子のジェム(フィリップ・アルフォード)、娘スカウト(メアリー・バダム)の家族が遭遇する事件を主人公スカウトの視点で描く。最初の1時間はメイコムの日常が描かれる。謎の隣人や貧しい白人家庭の子供のエピソードなどを描いた後、メインとなる事件、黒人青年による白人女性のレイプ事件の裁判が描かれる。公民権運動が盛んになった時代を反映した内容だ。

 長い法廷場面があるのでペンズラーがミステリに分類するのも分かるのだが、映画を見た限りでは南部の町とアメリカの正義を描いた作品で、ミステリの部分はそんなに大きくはない。法廷場面の印象は今のミステリに比べると、プリミティブだし、映画の作り自体もそれほどうまいとは思えなかった。IMDbの採点は8.4、ロッテン・トマトでは94%のレビュワーが肯定的評価をしているが、辛口の映画評論家として知られたロジャー・イーバートは星2つ半をつけ、それほど評価していない。

 ただし、裁判で陪審員が出す評決はショッキングだ。中学・高校生に人種差別と正義や理想を考えさせる上で、原作は最適のテキストなのだろう。

 原題は「To Kill a Mockingbird」。これが「アラバマ物語」というまったく内容を伝えない邦題になったのは公開当時、○○物語というタイトルの映画が流行ったためだろう。Wikipediaによると、メアリー・バダムはジョン・バダム監督の実妹とのこと。これがデビュー作となるロバート・デュバルは10年後に「ゴッドファーザー」で貫禄ある演技を見せるとは思えないナイーブな役柄を演じている。