2005/01/05(水)「恋人はスナイパー劇場版」
君塚良一脚本だが、ワンアイデアで1時間52分を持たせるのはつらい。どこかで聞いたアイデアだと思ったら、西村京太郎「華麗なる誘拐」が原作になっている。だいぶアレンジしてあるにしても、あと2つか3つのアイデアが必要だったと思う。監督はテレビ中心の六車俊治。
水野美紀といかりや長介が出てくると、「踊る」の番外編かと思えてくる。水野美紀はアクション志向だけあって、クライマックスのアクションはなかなか。内村光良よりもよほど決まってる。もっと彼女の資質を発揮できるようなアクション映画は撮れないものか。
かつての邦画なら、B級アクションが豊富にあったのだが、大作中心の今となっては難しいだろう。アクション女優(水野美紀はそうではないが)にとっては不遇の時代と言える。
2005/01/04(火)「ULTRAMAN」
ほとんどスルーしようと思っていたのだが、2chや映画生活で評判が良かったので長男を連れて見に行った。映画館には息子連れの父親がたくさん。なるほど、これは子供向けというよりは子供を連れた父親向けの映画なのだった。
「ウルトラマン」第1シリーズ第1話の丁寧な語り直しという感じである。ドラマをしっかり作っているし、クライマックスの空中戦も悪くない出来である。特に新宿副都心の高層ビルの間を飛び回るウルトラマンは素晴らしい。ただ、雲の上に上がってからの戦いは予算がなかったんじゃないかと思えるぐらいの出来。この程度で褒めるのはどうかと思う。出来としては普通の映画だろう。いや、確かに近年のウルトラマンコスモス3部作に比べれば、はるかにいいのだけれど、ドラマはもっと情感を盛り上げてほしいし、VFXにもセットにも金をかけたいところだ。「俺は、おまえを許さない」と叫ぶ主人公の心情にもっともっと迫ってほしかった。プラス、SF的設定の強化を図れば、企画があるらしい第2作はさらに面白くなるのではないかと思う。
ウルトラマン第1話といっても、科学特捜隊は登場しない。主人公は航空自衛隊のパイロット真木舜一(別所哲也)。真木は血液の病気に冒された6歳の息子継夢(つぐむ)のために空自を辞める決意をする。息子は今度発病すれば助かる確率は20%と宣告されていた。最後のスクランブルで発進した真木は赤い発光体と激突。墜落してしまう。真木は奇跡的に助かるが、その後、防衛庁の特務機関BCST(対バイオテロ研究機関)が真木を監視し、強引に連れ去る。3カ月前、海底で青い発光体に遭遇した有働貴文(大澄賢也)が凶暴な生命体に変貌したためだ。この生命体はザ・ワンと呼ばれたが、研究所を逃走し、次々に人間を殺すようになる。BCSTの水原沙羅(遠山景織子)はザ・ワンの二の舞を防ぐため、真木をネクストと呼び、監禁する。そして真木を囮に使い、ザ・ワンを呼び寄せるが、ザ・ワンは想像以上に進化を遂げていた。危機が迫った水原を銀色の巨人に変身した真木が救う。
「飛べる。俺は、この空を飛べる」。F15Jイーグルのパイロットを辞めた真木がクライマックス、ウルトラマンに変身したところで言うセリフがいい。ザ・ワンとの戦いで思わずジャンプしたウルトラマン=真木は自分が空を飛べることを発見する。幼いころ、太陽に翼をきらめかせた「銀色の流星」のようなジェット機を見て、パイロットを志した真木だからこそ似合うセリフなのである。主人公に妻と子供がいるという設定はウルトラマンのシリーズの中では初めてだろう。ウルトラマンの原点に返りつつ、しっかりとキャラクターを形成していくことを監督の小中和哉は意図したのではないかと思う。ただし、この映画に足りないものがあるとすれば、それは観客の心をつかんで離さないようなエモーションの強さだろう。エモーションを高めるには主人公とザ・ワンとの確執にもっと工夫が必要だった。「俺は、おまえを許さない」というセリフは両者の関係が間接的なものだから、あまり心に響かないのである。
主人公の妻に裕木奈江、空自の同僚に永澤俊矢、主人公の再就職先の民間航空会社社長に草刈正雄、自衛隊幹部に隆大介が扮していい味を出している。
2004/12/27(月)「ゴジラ Final Wars」
「ゴジラ」シリーズ最終作。冬休みの平日、第1回の上映開始だが、子供の姿はうちの子供以外になかった。観客は10人足らず。ヒットしていないんですかね。
2000年の「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」以降の4作はそれまでのシリーズ作品よりワンランク上がったという印象を持っている。手塚昌明、金子修介という怪獣映画を本当に好きな監督が作っていたからだ。手塚昌明は普通のドラマの演出に弱い部分が残るにせよ、ゴジラを一番分かっている監督であることは間違いない。大島ミチル、大谷幸の音楽も伊福部昭をリスペクトしつつ、独自の世界を築いていたと思う。今回は監督が北村龍平、音楽はキース・エマーソン。まずゴジラとは合わない布陣である。北村龍平はゴジラに対して特別な感情を持っているはずはないし、キース・エマーソンに至っては劇場でゴジラを見たことがあるかどうかさえ疑わしい。そんな2人だから、ゴジラシリーズとは別の映画と思った方がいい。いや、これが最終作でなければ、こういう映画化もありかなと思うけれど、最終作としては軽すぎる。エマーソンの音楽が軽さに拍車をかけている。あまり目新しくないストーリーとドラマ部分の大雑把な演出が加わって、決定的にダメではないけれど、最終作としては大いに不満が残る。
物語は過去のゴジラシリーズを集約したような作りである。世界各地に出現した怪獣たちを謎の宇宙船が一挙に宇宙船の中に収容する。宇宙船に乗っていたのはX星人(地球人には発音できないからX星人と呼んでくれと言う)。X星人たちは地球に妖星ゴラスが接近していると警告し、それに対抗するには地球の軍隊を一カ所に集約する必要があるという。ミュータントを集めたM機関の尾崎(松岡昌宏)と国連の美人科学者・美雪(菊川怜)はそれを嘘であると見抜き、テレビでX星人の正体をばらす。X星人たちは地球人を家畜にしようと考えていたのだ。怒ったX星人たちは再び怪獣を出現させ、世界の各都市は滅ぼされてしまう。怪獣はいずれも遺伝子にX星人と同じM塩基を持ち、X星人に操られていたのだ。尾崎たちはM塩基を持たず、X星人に操られないゴジラを復活させ、怪獣たちに対抗させようとする。
過去の怪獣を総登場させ、「怪獣大戦争」(1965年)に出てきたX星人まで登場させているが、これはシリーズへの愛情というよりも安直な作りではないかと思えてくる。マトリックスやX-メンの要素までコピーしているのを見ると、なおさらその印象が強くなる。冒頭の雑な演出など頬が引きつってくるほどの出来。南極で轟天号がゴジラと戦っている。轟天号はなんとか、ゴジラを氷の中に封じ込めることに成功するのだが、ここでの描写は描写とは言えないほどのものである。それはこれに続く新轟天号とマンダの戦いにも言える。北村龍平、演出がまるでなっちゃいない。キネマ旬報1月上旬号で樋口尚文はこう書いている。「ちょっとどこがどうとは言い難いほど惨憺たる出来である。その手の施しようのないありさまは、(中略)もうそれに腹が立つというよりは、見る側の惻隠の情をかきかてるくらいに痛ましい。(中略)どうしてこうも『映画』の片鱗すら組み立てることができないのか」。
僕はそこまでは思わないが、この映画のドラマ部分や構成がかなり雑であるとは思う。日本にいたゴジラが突然、インドネシアに行ってクモンガと戦う場面には驚いた。そしてすぐに日本に戻ってくるのだから、さらに驚く。演出の大雑把さとはこういう部分を言う。細部にこだわらない監督はダメである。ただし、小学3年生の長男は見終わった後、「面白かったねえ」とつぶやいた。お子様には満足できる仕上がりなのだろう。
そんな不満の残る映画の中で、唯一良かったのはラドンが羽ばたいて飛ぶ姿。衝撃波を周囲にまき散らしながら飛ぶラドンは過去のどの作品よりもリアルで、もっと見たかった。カマキラスとモスラの飛翔シーンも良く、VFXスタッフは頑張っていると思う。ゴジラはもう終わりにしていいから、次は「ラドン」のリメイクを望みたい。
2004/12/24(金)「ぼくんち」
休みなのだが、まだ映画館に行くのは不安なので家でDVDを見る。阪本順治「ぼくんち」(2003年、キネ旬ベストテン10位)を見ていたら、これがまた肋骨に悪い出来。おかしくて何度も笑って苦しんだ。阪本監督作品としてはちょっと変わった映画だけど、人物のおかしさは「どついたるねん」あたりと共通する。子役2人もかわいいし、観月ありさに何より感心。中盤、トラックの荷台に立って、タンカを切るシーンなどぴたりと決まっている。傑作だと思う。
しかし大笑いしたのは本編ではなくて、メイキング。岸部一徳と3人の子供のビニールハウスの場面で、阪本監督は岸部一徳に「ここで何かやってください」と頼んだそうだ。アドリブである。そこで岸部一徳が何をやったかというと、飛んでいるハエを手で捕まえる仕草を2回やった。「下妻物語」で樹木希林がやった仕草ですね。これ、本編の方でも笑ったが、アドリブと聞くとますますおかしくなる。
「ぼくんち」の衣装合わせでは、あまりにもボロボロの衣装に温厚な岸部一徳もさすがにムッとしたそうだが、この人ははまり込むとホントにおかしい。
2004/12/14(火)「誰も知らない」
歩くとキュッキュッと鳴るサンダルを履いて、末っ子のゆき(清水萌々子)が長男の明(柳楽優弥)と一緒に母親を迎えに駅に行く。母親が帰ってくると決まったわけではないが、まだ5歳のゆきはたまらなく母親に会いたかったのだ。自分の誕生日だったから。寒い中、駅の外で座って待っていたゆきはポケットからアポロチョコの箱を取り出して、「最後の1個だあ」とつぶやく。ここを見て、「火垂るの墓」だ、と思った。戦争で両親を亡くした「火垂るの墓」の兄妹は2人だけで必死に生きていく。食べ物が乏しくなる中、妹の節子は好きだったサクマドロップの空き缶に水を入れ、「いろんな味がするわあ」と微笑む。あの場面を思い出した。「火垂るの墓」で食べ物を調達するのは兄の役目だった。この映画の明も同じである。3人の弟妹のために明は必死で動き回る。しかし、悲しいことにゆきは節子と同じ運命をたどることになる。
1988年に起きた4人の子供置き去り事件を基にして、是枝裕和監督が脚本も書いた。映画化までに15年かかったそうだが、それだけの時間をかけた甲斐があったと思う。これは兄妹の悲劇に焦点を当てた「火垂るの墓」よりもずっと深みのある映画である。ひどい母親を描いただけの映画ではないし、電気もガスも水道も止められて悲惨な境遇に落ちた子供たちを描いただけでもない。子供のたくましさ、しっかりした兄、冷たい社会、温かい人々、友をなくす悲しみ、支え合って暮らすことの必要性、そういった諸々のことが胸に迫ってくる。日常描写を丹念に積み重ねて作ったとても丁寧な映画であり、何よりも実際の事件を単純な結論に結びつけない脚本の視点に感心させられた(「レディ・ジョーカー」はこういう風に映画化すべきだったのだと思う)。実際の事件はもっとひどい状況だったそうだ。是枝監督はしかし、長男の言動に注目して映画を組み立てた。
パンフレットにある「演出ノート」はその監督の姿勢がつぶさに語られて感動的である。「保護者遺棄の罪を問う裁判で母親に再会した少年は彼女の期待に応えられなかった自分を責めて涙を流したそうである。この一連の事件の中で、唯一この少年だけが、自らの責任を全うしようとした。そして、全うできずに自分を責めていた。…(中略)僕はこの少年がいとおしくてたまらなくなってしまったのである」。だからこそ映画には悲惨なだけではない子供たちの生活の様子がしっかりと捉えられている。母親がいなくなって自由に外出できることの喜び、自動販売機の返金スペースを探る次男のたくましさ。観客を安易に泣かせようなんて微塵も思っていない演出は立派なものであり、その手綱は最後まで揺るがない。
4人の子供たちの父親はばらばらで、子供の戸籍を作らず、学校に行かせず、外にも出さない母親が「好きな人ができたの」と言って、アパートを出て行く前半は、確かにこのあまりにもしょうがない母親に怒りを覚えるのだけれど、それ以後、子供たちだけの生活が始まって、次第に薄汚れていきながらも生きていく描写を見ていると、母親なんてどうでもよくなってくる。母親は子供たちを捨てたが、同時に子供からも見捨てられた。アパートを出て行く母親を送って、駅前のドーナツ店に入った明は「お母さんは勝手だよ」となじる。それに対して母親は「何が勝手よ。あんたのお父さんの方がよっぽど勝手じゃない。私が幸せになっちゃいけないの」と返す。それは小さな子供を持つ母親が言ってはいけない言葉だ。子供たちが母親の帰りを待っているのは現在の苦境を救ってくれると期待しているからであり、書留で金を送ってくるだけの経済的なつながりだけなら、それは親とは言えない。
妹の死を乗り越えて、また同じ生活を続ける子供たちの姿に「頑張れ、ガンバレ」と言いたくなってくる。同時に誰か助けてやってくれと思わずにはいられない。映画から受けるのはそうした重層的な思いであり、恐らく子供を持つ親は自分の子供を抱きしめたくなるだろう。
柳楽優弥はカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞したが、それは映画の評価にも直結しているのだろう。「オールド・ボーイ」ではなく、この映画がグランプリであっても良かったと思う。4人の子供たちに加えて、それを助ける韓英恵、ダメな母親を演じるYOU、コンビニの店長役の平泉成、中学野球部の監督寺島進らが良い演技をしている。