2004/11/08(月)「いま、会いにゆきます」

 「いま、会いにゆきます」パンフレット「雨の季節に戻ってくる」。そう言い残して妻の澪が病死して1年。父親の秋穂(あいお)巧と息子の祐司は不器用ながらも仲良く暮らしている。父親は神経を病み、人混みに出かけられない。息子を連れて行った夏祭りでは倒れてしまう。そして、雨の季節がやってきて、本当に澪が帰ってくる…。

 市川拓司の原作を岡田恵和(よしかず)が脚本化し、「オレンジデイズ」などテレビのベテラン演出家・土井裕泰(のぶひろ)が映画デビュー作としてメガホンを取った。夫婦愛、親子愛に彩られた幸福感あふれる映画である。ファンタジーなので妻が戻ってきたことに理由がなくてもいいのだが、映画は終盤に物語を別の視点で語り直してその謎を明らかにする。そして途中で感じた疑問点がすべて氷解する。これは脚本か演出の不備だろうと思えた部分が実はそうではなく、すべて計算されていたものであることが分かるのだ。同時に映画の中の物語がいっそうの深みを増して迫ってくる。ラストでようやく意味が分かる「いま、会いにゆきます」というタイトルはヒロインの覚悟と愛情の深さを示して感動的である。あざとくて安っぽくて志の低いお涙ちょうだいものではさらさらなく、洗練されたプロの仕事を見せつけられた感じ。この脚本の完成度は相当高い。

 「黄泉がえり」「星に願いを。」「天国の本屋 恋火」とファンタジーで絶好調の竹内結子と中村獅童の好演が相まって、日本のラブファンタジーとしては希有な作品に仕上がった。見終わって思い浮かべたのは「ある日どこかで」(1980年、ジャノー・シュワーク監督唯一の傑作)だが、ある意味、あの名作を越えた充実感がある。なんという幸福な映画であることか。そしてなんと心を揺さぶられる映画であることか。秀作の多い今年の日本映画の中でも上位に入る傑作。もちろん、必見。

 正直に言えば、巧(中村獅童)と祐司(武井証)が2人で暮らす序盤の描写は朝食の目玉焼きや夕食のカレーライスに失敗したり、家の中が散らかっていたり、夏なのに冬のスーツを着ていたりする場面を丁寧に描いてはいても、どこかぎこちない部分が残る。やはりテレビの演出家だからなあ、と思っていたのだが、澪(竹内結子)が戻ってきた場面で一気に感心させられる。死んだはずの人間が帰ってきて、迎える人間はどういうリアクションを起こすのか。それ以上に戻ってきた人間はどう描かれるのか。そこを映画は澪がすべての記憶を失っていたという設定にしてうまくかわしてみせる。2人と一緒に暮らすことになった澪は徐々に2人に愛情を感じるようになり、巧から2人の出会いと現在までの経緯を聞くことになる。

 それは観客にとっても澪にとっても実に魅力的なラブストーリーである。2人の出会いは高校時代。2年間、同じクラスで隣の席に座っていた。巧は澪に片思いしていたが、打ち明けられないまま、ろくに話もせずに卒業することになる。陸上に打ち込む巧は地元の大学に、澪は東京の大学に行く。ただ、卒業時に澪のノートに言葉を書いた際、ボールペンを一緒にノートに挟んでいた。それを返してもらうことを口実に巧は澪に電話する。初めてのデートで堰を切ったように話し、2人の仲は順調にいくかと思われたが、巧は陸上に打ち込みすぎて体を壊し、陸上も大学もやめる。澪にこんな体の自分に付き合わせるわけにはいかないと思い、別れを切り出してしまう。

 この恋愛初期のおずおずといった感じの描写が微笑ましくて良い。竹内結子も美しく魅力的であり、これまでの出演作のベストだろう。澪が一緒にいられるのは雨の季節が終わるまで。いずれ澪が再び消えてしまい、親子2人の生活に戻ることは見えている。そして実際にそうなる。これで終わってしまえば、まずまずの佳作どまりだが、そこから映画は先に書いたような終盤を用意している。

 テレビドラマに疎い僕は脚本の岡田恵和については知らなかった。キネマ旬報11月下旬号によると、土井監督の最高のパートナーとも思える存在という。キネ旬のインタビューで岡田恵和は「いわゆる亡くなった奥さんが戻ってきて、そしてまた去っていくという、ただそれだけの話にはしたくなかった」と言っている。その思いがあったからこそ、この終盤の素晴らしさが生まれたのだろう。土井監督は再び、テレビの世界に戻るそうだが、ぜひ2人のコンビで第2作を作ってほしいと思う。

2004/11/02(火)「父と暮せば」

 「父と暮せば」パンフレット黒木和雄監督が井上ひさしの戯曲を映画化した作品。原爆投下3年後の広島を舞台に描く父と娘の物語で「TOMORROW 明日」「美しい夏キリシマ」と合わせて“戦争レクイエム3部作”としている。父親を演じるのが原田芳雄、娘が宮沢りえ。この2人と宮沢りえに思いを寄せる浅野忠信の3人が主要キャストにしてオールキャスト。もとが舞台劇だけに家の中のシーンがほとんどだが、黒木監督はしっかりとした演出で反核の願いを込めた物語を展開していく。黒木作品には珍しくCGを使った原爆投下とその後の広島の街の様子が描かれる。場面は少ないが、細かい部分まで描いてCGとしては良い出来の方である。しかし何よりも、「うち、人を好いたりしちゃいけんのです」と死者に対して気兼ねする宮沢りえが素晴らしく良い。

 パンフレットによると、この「自分だけが生き残って申し訳ない」という意識は作者の井上ひさしが多数の被爆者の手記を読んだ結果得たものであり、それは黒木和雄の戦時体験にもつながるものだという。黒木監督の前作「美しい夏キリシマ」に空襲で死んだ友人を見捨てて逃げた監督の悔恨の思いが込められていたように、この映画の主人公にも被曝した父親を助けようとして助けられなかった悔恨がある。それがどう癒やされていくか、どう復活のきっかけをつかむかを映画は丹念に綴っている。俳優2人の対話によって進む物語は密度の濃い空間を生んでおり、「美しい夏キリシマ」より充実していると思う。マイケル・ムーアは大きな対象を批判するのに個人の体験や言葉を多数引用したが、黒木和雄は戦争を描くのに個人の体験と意識に絞り、温かみがありながらも鋭い作品を作った。個人の体験を重視する方法論がここでは十分に成功している。

 主人公は図書館に勤める福吉美津江(宮沢りえ)。激しい雷におびえて家に帰ってきた美津江は押し入れの中入っている父親(原田芳雄)を見つける。雷が「ピカ」を連想させて、父親も怯えていたのだ。2人の会話から、やがてこの父親は原爆投下時に死に、今は幽霊となって現れたことが分かる。原爆の資料を集めるために図書館に来た木下(浅野忠信)への美津江の恋心から父親は生まれたという。美津江は木下に惹かれながらも、自分だけが幸せになってはいけないと思いこみ、木下への思いを断ち切ろうとしている。なぜか。美津江は原爆投下後、死んだ友人の母親から言葉を投げつけられる。「なひてあんたが生きとる」「なひてうちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか!」。加えて、美津江には被曝した父親を見捨てて火災から逃げねばならなかった過去がある。我が子を亡くした母親の理不尽な思いから出た言葉と父親を助けられなかった悔恨がその後の美津江を縛っていた。

 美津江が原爆の呪縛から解き放たれることになる父親の言葉は、普通の人間の当たり前の願いである。なぜ、自分は生きているのか、死者に報いるには何をすればいいのか、映画は何も難しいことを要求しない。普通に生きていくこと、死者の分まで生き続けることを訴えるだけである。そこがいい。広島弁で語られる会話は温かさを生み、日常の細かな描写がリアリティを生んでいる。

2004/10/09(土)「デビルマン」

 「デビルマン」パンフレットブライアン・デ・パルマ「ミッドナイトクロス」の冒頭で、シャワー室で襲われる女の叫び声を録音していた録音技師のジョン・トラボルタが、女優のあまりの下手さ加減に匙を投げるシーンがある。「デビルマン」を見ていてそれを思い出した。中盤、主人公の不動明(伊崎央登)がデーモンであることを養父の牧村(宇崎竜童)に知られて上げる叫び声がなんとも迫力のないものなのである。終盤にもう一度、叫び声を上げるシーンがあるが、そこも同じ。これほど真に迫らない叫び声は初めて聞いた。この程度の叫び声でなぜ那須博之監督がOKを出したのか理解に苦しむ。感覚が狂っているのか、現場をコントロールできなかったのか、時間が足りなかったのか。いろいろあるだろうが、こういうところでOKする姿勢が映画全体に波及してしまっている。主人公だけでなく、他の出演者の演技にもまるでリアリティがない。6月公開予定を延期してCGをやり直したそうだが、出演者の演技も最初からやり直した方が良かった。いや、その前に脚本を作る段階からやり直した方が良かっただろう。永井豪の最高傑作とも言えるあの原作がなぜ、こんなレベルの映画になってしまうのか。「スクール・ウォーズ HERO」とは違って、「デビルマン」の物語を本当に理解しているスタッフはいなかったのではないか。

 「外道! きさまらこそ悪魔だ」と、原作の不動明は叫ぶ。悪魔特捜隊本部で悪魔に仕立てられて惨殺された牧村夫妻を発見し、そばにいた人間たちに怒りの声を上げるのだ。「おれのからだは悪魔になった…。だが、人間の心は失わなかった! きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ。これが! これが! おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!」。

 映画にも「悪魔はお前ら人間だ!」というセリフはあるが、それを叫ぶのは不動明ではない。デーモンに合体された少女ミーコ(渋谷飛鳥)である。なぜ、こういう改変を行うのか。主人公にこのセリフを叫ばせなければ、その後の展開がおかしくなってしまう。原作の不動明は愛する美樹を殺した人間たちを一掃し、同時に怒りの矛先を人間たちの心理を利用して自滅させようとした飛鳥了に向ける。映画の明は人間は殺さず、了との対決に臨む。これでは愛する者たちを殺された主人公の怒りが伝わってこない。だからドラマとして貧弱になってしまうのだ。

 脚本は那須真知子。2時間足らずの上映時間に全5巻の原作を詰め込むのは所詮無理な話ではある。しかし、無理は無理なりに何らかの工夫が必要だろう。単に原作をダイジェストにしただけで脚本家が務まるのなら、脚本家はなんと気楽な商売かと思う。那須真知子、監督と同じくSFに理解があるとは思えない。ならば、そういう仕事は引き受けるべきではなかっただろう。原作の飛鳥了は終盤まで自分の正体を知らない。映画では早々に正体をばらしてしまう。原作を思い切り簡略化した話で、それを見るに堪えない演出で語ろうというのだから、つまらなくなるのは目に見えている。

 このほか、不動明とデビルマンの中間みたいなメイクアップがまるで意味をなさないとか、妖鳥シレーヌ(富永愛)の扱いが彩り程度のものであるとか、原作のラストの後に余計なメッセージを付け加えているとか、やり直したCGの場面が少ないとか、ボブ・サップやKONISIKIを使う意味が分からないとか、冒頭にある少年2人のシーンがお粗末すぎるとか、さまざまな不満な点がある。ついでに言うと、こんな雑な映画を作って公開する意味も分からない。こんなことなら、アニメでリメイクした方が良かったのではないか。

2004/10/06(水)「スクール・ウォーズ HERO」

 「スクール・ウォーズ HERO」パンフレット不良の巣窟だった伏見工業高ラグビー部を日本一に導いた山口良治監督を描く熱血青春映画。テレビドラマを見る習慣はないので、山下真司主演のテレビ版は見たことがない。NHK「プロジェクトX」でも取り上げられたそうだが、それも見ていない。監督は関本郁夫。日本映画データベースにあるフィルモグラフィーを見て愕然とするのは、僕が劇場で見た関本監督作品は1本だけで、その「天使の欲望」(「涼子を殺す 殺します」という七五調の字幕が印象的だった)は、25年前の作品だった。すれ違いっぱなしの監督なのである。

 「スクール・ウォーズ HERO」はその関本監督の30本目の作品に当たる。映画に新しい部分はない代わりにしっかりと作ってあり、熱い映画になっている。ラグビー部と熱血教師という設定はテレビや映画で何度も繰り返され、今の時代なら冷笑的にパロディとしてしか成立しにくい物語だが、時代が1970年代なので、熱血先生がラグビー部を精力的に立て直していく描写に少しも違和感がない。生徒との本音のぶつかり合いに素直に感動できる。一番褒めるべきは映画初主演の照英だろう。自身もスポーツマンである照英は恐らく、この物語を心の底から信じている。だから泣いたり怒ったりの演技が演技らしくなく、本当のように見える。その全力を傾けた姿勢に映画の中の生徒と同様、観客も心を動かされることになる。物語を信じている点では関本監督も同じなのだろう。映画に本物の感情とリアリティをもたらすのは、そうした作り手たちの姿勢なのだと思う。

 1974年の京都。ラグビーの元全日本代表だった山上修治(照英)は実業団監督への誘いを断って市立伏見第一工業高に赴任する。荒れる生徒たちを擁護して、校長の神林(里見浩太朗)が言った「生徒たちは寂しいんや」という言葉に惹かれたからだ。しかし、高校は予想以上に荒れていた。酒やたばこは当たり前、校舎の中をバイクで走り回ったり、先生の服に火を付けたり、暴力沙汰も多かった。その不良の中心がラグビー部員と知った山上はラグビー部の監督になり、生徒たちに全力でぶつかっていく。なかなか信用しない生徒を見て落ち込む山上を支えたのは妻(和久井映見)の励ましだった。山上の努力で次第に変化が見え始めたラグビー部だが、京都府高校総体では1回戦で大園高校に112-0で完敗。生徒たちは山上に「俺たちをもっと鍛えてくれ」と泣いて悔しがる。生徒たちを一人ひとり殴って気合いを入れる山上の姿に感銘を受けた生徒たちは心機一転、猛練習に励むようになる。

 こうしたメインプロットに映画はさまざまなエピソードを加えていく。京都一のワルと言われた“弥栄の信吾”(小林且弥)の体格を見込んでラグビー部に入れるため、山上が信吾の家を訪れたら、あばら屋に大酒飲みの父親(間寛平)がいる場面とか、その信吾と殴り合って絆を深める場面などはこうした青春ものによくある場面なのにこの映画では十分効果的だ。あるいは朝、校門に立って生徒たちに「おはよう」と声をかけ始めた山上に賛同して他の先生たちが加わる場面、生徒を殴ったために1カ月の謹慎処分を受けた山上のアパートを訪ねた生徒たちが山上を励ます場面などなどはいつかどこかで見た光景であるにもかかわらず、この映画では一直線に感動的である。

 ラグビー部員を演じるのは無名の若手俳優ばかりだが、それぞれに懸命に演じていい味を出している。マネジャー役のSAYAKAは「ドラゴンヘッド」などより相当いい。試合場面にも迫力があり、この映画、決して手放しで傑作とは言えないけれど、その熱さだけは十分に観客に伝わってくる。熱血が空回りしない作品はまれである。

2004/09/17(金)「スウィングガールズ」

 「スウィングガールズ」チラシ「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督がビッグバンドジャズに打ち込む女子高生たちを描いた青春映画。シンクロをジャズに替えただけと言われそうだが、それでも面白い。ジャズの演奏は出演者たちが猛練習して吹き替えなしだそうで、だんだん楽器の音が出ていくあたりにリアリティがある。元気で溌剌過ぎてトラブルメーカーの主人公をはじめ、漫画みたいなキャラクターの造型に優れており、細かいギャグのセンスも抜群。ゲラゲラ笑って見終わる気持ちの良い映画である。設定からして、どういう映画になるかはほぼ予想がつくのだが、それでも面白く見せる技術は大したものだと思う。悪意を持つ人物が出てこない点、ズッコケたキャラクターばかりな点、細部まで手を抜かない点に矢口脚本の大衆受けする理由があるように思う。ただ、ジャズを扱っていても音楽映画にはならず、あくまでも青春コメディ。そのあたりは「ウォーターボーイズ」と同様で、物足りないと言えば物足りないのだが、素人がジャズに挑戦する話なのだから、バランスを考えれば、こういう仕上がりでいいのだろう。

 なぜ、女子高生がジャズをやることになったのかという説明がうまい。東北のある高校。夏休みの補習授業中、吹奏楽部が野球部の応援にいくのをぼんやり見ていた友子(上野樹里)は、遅れてやってきた弁当店を見て、「弁当届けよう」と提案する。補習授業を抜け出すのが目的で、十数人で列車で追いかけるが、途中、弁当1個を食べてしまう。おまけに居眠りして駅を乗り過ごしたため、炎天下、歩いて球場に向かう羽目に。このため、届けた弁当は腐っており、食べた吹奏楽部の生徒と顧問の先生が食中毒でダウン。ただ一人弁当を食べられなかった拓雄(平岡祐太)だけが食中毒を免れる。野球部の試合はまだあるので、責任を感じた(というか、補習を受けない理由のために)友子たちが拓雄の依頼を引き受けて、猛練習に励むことになる。ジャズの魅力も分かって、さあ試合というところで、吹奏楽部の面々が復帰。友子たちはお役ご免となる。吹奏楽部の前では強がりを言っていた友子たちが外に出た途端号泣するのが微笑ましい。ジャズの魅力を知ってしまった友子は買ったのにほとんど使っていなかったiMacを売って、中古のサキソフォンを購入。拓雄をはじめ、スウィングガールズの面々も再結集し、ジャズに詳しい(と思えた)数学教師・小澤(竹中直人)の指導で練習に打ち込むことになる。そして演奏会を目指す。

 吹奏楽部は最低24人必要だが、ビッグバンドジャズなら17人でできるというのがジャズを始める理由で、このあたりの脚本の配慮に手抜かりがない。演奏されるジャズは「ムーンライト・セレナーデ」「イン・ザ・ムード」「A列車で行こう」など耳になじんだ有名な曲ばかり。このほか、大イノシシ退治の場面で「この素晴らしき世界」が流れる(ここはホントに漫画チック)。上野、平岡の2人に加えて貫地谷しほり、本仮屋ユイカ、豊島由佳梨の主要メンバーがそれぞれに面白く、キャラクターをきっちり描き分けてある。他のスウィングガールズや脇役の木野花、大倉孝二、白石美帆、徳井優、田中要次、渡辺えり子もうまい。頼りない兄弟デュオの真島秀和、三上真史が失恋の歌をデュエットする場面などは爆笑ものである。その失恋相手のヤンキーな関根香菜、水田芙美子まで含めて、この映画、本当にキャラクターの描き分け、キャラの立たせ方が絶妙だと思う。