2004/05/08(土)「死に花」
「ジョゼと虎と魚たち」で大いに評価を上げた犬童一心監督の新作。老人ホームに暮らす4人の男たちが、死んだ仲間の残した計画を実行して銀行から現金を強奪する、というコメディで、主演は山崎努、青島幸男、谷啓、宇津井健。これに銀行近くの河川敷に住むホームレスの長門勇が加わる。青島幸男や谷啓が主役級で出る映画というのも久しぶりで、1960年代から70年代初めのコメディを思い起こさせるのだが、残念ながら、青島はともかく谷啓にはあまり目立った場面はない。
死ぬ前にもう一花咲かせようという理由で話が進む中盤までは、「ジョゼ…」のような描写の素晴らしさは見あたらず、やや退屈だった。なぜ、銀行から現金を奪わなければならないのかという理由が宇津井健の銀行への個人的な恨みを交えて説明されても、説得力に乏しいのである。途中で温泉旅行に出かける山崎努と松原智恵子の描写など、もう少し本筋に絡める工夫が必要だと思う。なかなか本筋に移行しない前半の描写は(出演者やスタッフからの敬意が感じられる森重久弥の登場場面を除けば)緩いし、本筋に移ってからも、目新しいエピソードがないのはつらい。台風の中で現金強奪計画が進み、計画の真意が明らかになる終盤でちょっと盛り返した感じがする。前半は死を意識せざるを得ない登場人物たちの老いに焦点が当てられているのだが、恐らく1960年生まれの監督自身にも老いの実際は分かっていないだろう。「ジョゼ…」に比べて、あまり深みのない描写が多いのは仕方ないのかもしれない。
太田蘭三の同名小説が原作(脚本は犬童一心と小林弘利)。東京郊外にあるぜいたくな老人ホームが舞台。夫婦仲の良かった源田(藤岡琢也)が急死し、妻の貞子(加藤治子)が後を追う。源田と仲の良かった元映画プロデューサーの菊島(山崎努)、穴池(青島幸男)、庄司(谷啓)、伊能(宇津井健)はショックを受ける。死を覚悟していた源田は「死に花」と名付けた計画を残していた。河川敷からサクランボ銀行支店まで20メートルの穴を掘り、現金を強奪する計画。死ぬ前にもう一花咲かせたいと思った4人は計画を実行することにする。河川敷に住むホームレスの先山(長門勇)も仲間に引き入れ、ホームのマドンナ的存在・鈴子(松原智恵子)の協力も得る。5人は老体にむち打って、穴を掘り続けるが、サクランボ銀行は近く合併し、支店は閉鎖されることになる。
前半の描写を緩く感じるのは動機付けに乏しいからだ。ここはかつて銀行の不祥事の責任を負わされ、リストラされた宇津井健をもっと前面に持ってきて、動機付けをいったん観客を納得させた上で、ラストに計画の真意を明らかにするのが常套的だ。あるいは藤岡琢也に徹底的にみじめな死に方をさせ、老人への迫害を見返す展開にするとか。そうしたエモーショナルな動機付けを工夫すれば、劇場で目に付いた高齢者だけでなく、広い年齢層にアピールする映画になったのではないか。17億円強奪の計画にしては切実さが足りないのである。
序盤と終盤に登場する森重久弥にセリフはないが(画面の外から声が聞こえるシーンがあるが、吹き替えではないか)、車いす姿が実生活と重なって、なんだか厳粛な気分になる。しかも、ただの顔見せ程度のゲスト出演に終わっていないのがいい。老人ホームの新人職員役の星野真里が老男女優の中で溌剌としたアクセントになっていてもうけ役だ。図書館の職員役で一場面だけ登場する戸田菜穂の使い方も含めて、犬童一心監督、女優の魅力を引き出すのは得意のようだ。
2004/04/29(木)「理由」
宮部みゆきの原作を大林宣彦が映像化。2時間40分の大作で、出演者も過去の大林映画のキャスト総出演というぐらいの数が出てくる(107人だそうだ)。しかも全員ノーメイク。これは原作のルポルタージュ形式をリアルに見せるためだそうで、映画の語り口も原作そのままだ。
前半は早口のセリフの洪水という感じ。後半、マンションで殺された4人とその関係者の家族の描写が進むにつれて映画はゆったりとしたペースになり、深みを増してくる。原作を読んだ際には宮部みゆきにしては人間の深みが足りないと思う部分もあったのだが、映画はそこをすくい上げて、しっかりと描写している。南田洋子とか勝野洋とか回想で出てくる片岡鶴太郎にうまさを感じる。
2004/04/22(木)「ジョゼと虎と魚たち」
2つのセリフが心に残る。
「壊れもんには壊れもんの分というもんがあるやろ」
「『帰れ』と言われてすぐに帰るようなやつは帰れ」
前者はジョゼ(池脇千鶴)のおばあ(新屋英子)が言う言葉。後者はジョゼが恒夫(妻夫木聡)に言う言葉。この映画が素晴らしいのはきれい事でも何でもなく、人の本質を突いているセリフや行動が至る所にあるからにほかならない。ジョゼのおばあは歩けないジョゼのことを「壊れもん」と考えている。だから昼間は外に出さず、ジョゼが乳母車で散歩に出るのは早朝だけである。
こういう人間に育てられたらたまらないと思う半面、おばあはジョゼのために必ず春には1年分の教科書をゴミ捨て場から持ってきてくれる。おばあの壊れもんという言葉よりも健常者の口から言われる「障害者のくせに」という言葉の方がよほど毒を持っている。おばあの「壊れもん」はそれ以上でも以下でもなく、単なる形容なのである。
そのおばあが死んだと聞かされた恒夫はジョゼの家に行き、そこでジョゼから悲痛な話を聞かされる。隣のいやらしいおっちゃんに「乳さわらせたら、ゴミ捨てに行ったる」と言われて乳さわらせたら、毎朝ゴミを捨てに行ってくれるという話。「福祉の人に頼めばいいじゃん!」と言う恒夫に対して「福祉の人が来んのは昼や! 朝の回収には間にあわへんがな!」というジョゼの答えに恒夫は口ごもることになる。そして「帰れ」と言われて帰ろうとする。
ジョゼはその恒夫の背中をたたきながら、上記のセリフを言い、泣き崩れてしまう。「帰らんとって。ここにおって…ずっと」。
という風に書き始めたらきりがないけれど、この映画の描写やセリフの一つひとつは深い洞察力に満ちている。健常者と障害者のラブストーリーという泣かせどころ満載の話ながら、思わず背筋を伸ばして見ざるを得ないのは、そういうリアリティがあふれているからだろう。単純に泣かせる話にはなっていないし、そんな甘っちょろい話でもない。恒夫は立派な人間ではないし、恒夫とジョゼの関係もセックスを含めて十分に描写される。だから胸を打つのだ。
ジョゼは恒夫との幸せな日々が永遠に続くことを信じてはいない。それが壊れた時の絶望感は想像に余りあるものがあるけれど、それでも映画は乳母車から電動車いすに変わったジョゼの姿を映して、希望を持たせる。
池脇千鶴が素晴らしく良い。21歳(撮影時)で演技派というのは極めてまれなことだ。犬童一心監督の演出は細部の描写が際だっている。朝食のだし巻きとかアジの開きのおいしそうなこととか、そういう描写が大事なのだと思う。細部のリアリティに支えられた問答無用の傑作。
2004/04/18(日)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」
しんのすけたちが鬼ごっこに興じているうちに入った路地の奥に映画館「カスカベ座」がそびえているのをジャーンと見せてオープニングの粘土アニメに入る呼吸が良く、おお今回は期待できるかと思った。その期待はほぼかなえられ、面白い映画に仕上がった。惜しいのは前半の西部劇映画世界の時間が止まった描写で、長すぎてやや退屈。映画の世界に取り込まれた人々がしんのすけたちの呼びかけで我に返り、脱出へ動き始めると同時に映画も動き始め、クライマックスのつるべ打ちのアクションの痛快さにはひたすら拍手拍手である。昨年の「栄光のヤキニクロード」は普通のギャグアニメすぎてがっかりしたけれど(この日記に感想さえ書いていない)、今回はとても面白かった。昨年から監督を務める水島努は十分に汚名を返上してお釣りが来る作品に仕上げている。
しんのすけたち5人の「かすかべ防衛隊」が「カスカベ座」に入ると、西部劇らしい荒い粒子の映画が上映されている(これは一瞬「リング」かと思った)。トイレに行ったしんのすけが劇場に帰ると、4人の姿がない。先に帰ったのかと思ったしんのすけは家に帰るが、4人が帰宅していないことを知らされる。両親と妹のひまわりとともにカスカベ座に戻ったしんのすけたちは気が付くと、西部劇の世界にいた。そこには横暴な知事ジャスティスが支配している街があった。風間くんはなぜか保安官をしている。マサオくんとネネちゃんは夫婦になっている。ボーちゃんはインディアン。この世界、長くいると、だんだん元の世界の記憶をなくしてしまうらしい。しんのすけたちは何とかこの世界を抜け出してカスカベに帰ろうと、奮闘する。
だんだん記憶をなくしてしまうという設定はまるで「千と千尋の神隠し」で、脚本も担当した水島努はそのあたりにインスパイアされたのかと思ったが、後半のアクションになると、もはや独壇場。「荒野の7人」の面々まで登場させ、息つく暇ないアクションを見せてくれる。しんのすけたちが赤いパンツをはいたことで超人的な力を得るあたり、「ゼブラーマン」と同じ快感がある。そして本当の力を得るには元の世界での「かすかべ防衛隊」の合言葉が必要なのだった。~
いつものようにギャグを散りばめて進むストーリー。今回は予告編にあったしんのすけの必殺技がズバリと決まる場面をちゃんと見せている(いつもの「クレしん」はギャグで構成した予告編と実際の本編とはまるで関係ないのだ)。しんのすけのほのかな恋とか、風間クンが元の世界への不満をぽろりと漏らす本音とか、記憶を失ってしまうことの怖さとかを描きつつ、あくまでもしんのすけ一家を中心にして進む物語は、同じくそれを意図しながらも、原恵一監督の「オトナ帝国の逆襲」「アッパレ!戦国大合戦」に比べて失敗に終わった前作の捲土重来的な意味合いもあるのだと思う。
2004/04/09(金)「きょうのできごと a day on the planet」
柴崎友香の原作を「GO」の行定勲監督が映画化した。若者たちのある1日を淡々とユーモラスに綴った作品である。見ていてジム・ジャームッシュの作品に似ているなと思った。案の定、パンフレットにも「スタッフたちが現代の若者たちの日常を映像化するのに参考にしたのはジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』だった」とある。おまけに原作(河出文庫)の解説も「ジャームッシュ以降の作家」というタイトルである。ジャームッシュ風の原作をジャームッシュ風に映画化したわけだ(ユーモアの質は少し違う。ジャームッシュの作品にあるのは微妙なおかしさだが、この映画はもっとユーモアに積極的である)。サブタイトルもジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」のアレンジだろう。
実は映画は1にも2にも3にもスジだと思っているので、ジャームッシュの映画はあまり好きではない。個人的にはこの映画も成功しているとは言い難い。
本当になんでもない日常が描かれる。中心になるのは3つのエピソード。友人の大学院入学祝いに駆けつける中沢(妻夫木聡)と恋人の真紀(田中麗奈)、幼なじみのけいと(伊藤歩)、警察から逃げようとしてビルの間に挟まった哲(大倉考二)、砂浜に打ち上げられたクジラとそれを助けようとする少女―の3つである。このうちクジラのエピソードは原作にはなく、脚本の益子昌一が付け加えたものという。このクジラは物語が収斂する場面につながっており、フェリーニ「甘い生活」の怪魚に当たるものだと思う。
この3つのエピソードのさわりをタイトル前にさらっと描いた後、映画は時間を戻して若者たちの1日を描いていく。もっとも長い入学祝いのエピソードは他愛ない日常のおかしさに満ちており、ユーモラスに描きながら、中沢と真紀とけいとの関係が浮かび上がる。田中麗奈をはじめとして出演者の関西弁がいい感じである。ただし、章ごとに視点が変わる原作を意識したためか、けいとがアタックするかわち(松尾敏伸)とその恋人のちよ(池脇千鶴)の動物園でのエピソード(これ自体は面白い)や中沢たちが帰った後の正道(柏原収史)たちのエピソードが長々と描かれると、スジ重視の者としてはなんだか落ち着かなくなる。映画には群像劇の趣もあるのでこの構成も分かるのだが、明確に中沢と真紀とけいとをメインにしてしまった方が良かったのではないか。
原作を端折った部分もあるにせよ、セリフを含めてかなり原作に忠実な映画化となっている。僕の好みの作品ではないが、映画で描かれるエピソードは、金はないが暇だけはたくさんあった学生時代を思い起こさせてくれた。