2004/03/28(日)「PERFECT BLUE」
今敏監督の6年前の作品。どんな映画か知らずに見たら、とても面白かった。アイドルグループを抜けて女優を目指した女をめぐって起こる連続殺人を描くサイコホラーで、ミステリとしてしっかり作ってある。終盤の真犯人登場シーンは、その扮装で謎のすべてが氷解する。衝撃的で、良くできていると感心。
この話は元がいいのだろうと思ったが、原作者の竹内義和はこう書いている。
「原作は、アイドルと、アイドルをつけ狙う変態ストーカーの対決という、とてもシンプルでハリウッド的ストーリーだが、アニメの方は、アイドルの心理的な葛藤が中心となって展開するヨーロッパ映画的ホラーとなっている」。
その通りで、今敏監督は現実と幻想を織り交ぜて、女優を目指す女の悩みを描き、深みのある映画にした。話としては「千年女優」よりもこちらの方がうまくまとまっている。
同じ原作は一昨年、サトウトシキ監督が実写で映画化している。予告編をみると、こちらは原作通りの映画化のようだ。
2004/03/19(金)「花とアリス」
岩井俊二の前作「リリイ・シュシュのすべて」と同様に、この映画もデジタルのカメラ(HD24pか?)を使って撮影したそうだ。画面の色合いがくすんだ感じなのはそのためだろう。デジタルからアナログ35ミリフィルムに転換する際の技術がまだ確立されていないのか、カメラそのものの性能が悪いのか知らないが、このダメダメな色彩は何とかしてほしいものだ。色の悪さが気になって、主演2人のキャラクターを紹介する序盤はなかなか映画に集中できなかった。
しかし、話が動いてくると、面白くなる。2人の女の子(ハナこと荒井花と、アリスこと有栖川徹子)の中学から高校にかけての友情と三角関係を仔細に描いて、おかしくて切ない物語に仕上がった。鈴木杏と蒼井優の持ち味が十分に引き出され、とても魅力的に撮られている。岩井俊二は「Love Letter」(1995年)で中山美穂を主演にしたことがあるから、少女の思いをうまく描いたことも別に意外ではないのだが、2人それぞれにクライマックスを用意したところがいい。
ハナのクライマックスは文化祭の舞台の袖で進行する。先輩の宮本(郭智博)に軽い記憶喪失と思い込ませ、「自分に(好きだ」と)告白した」と嘘をついていたハナは泣きながら本当のことを打ち明ける。
「先輩が、あたしを、好きだったことは、ありません…」
これに対する宮本の言葉が良く、映画はこれで終わるのかと思ったら、さらにアリスのクライマックスがある。4人が参加した雑誌の表紙撮影のオーディション。カメラマンは最初の3人を簡単に落とす。バレエの得意なアリスも落とされそうになるが、「ちゃんと踊っていいですか」と言ったアリスはトゥシューズの代わりに紙コップを履き、バレエを存分に見せるのだ。ここがほれぼれするほど素晴らしい。これは踊りそのものが良いからではなく、アリスのひたむきな思いが踊りを通して伝わってくるからだろう。「ちょっと見ただけで人を判断しないで」「自分のすべてを分かって」という少女の気持ちがこもったバレエだと思う。
ハナの静的なクライマックスとアリスの動的なクライマックスが見事に対になっている。花がいっぱいのハナの家と散らかり放題に散らかったアリスの家。岩井俊二は2人のキャラクターを明確に描き分けながら、少女たちの些細な日常(しかし、本人たちにとっては大きな事件)を描いて共感の持てる作品に仕上げた。話の決着をどうつけるのかと思ったら、冒頭と同様にちゃんと2人の友情の描写で終わらせていくのもいい。
このほか、アリスの父親・平泉成や母親・相田翔子も好演。「リリイ・シュシュ」が僕は大嫌いだが、この映画には感心するところが多かった。構成というか話の進め方は決してうまくはないのに描写で見せる。だから、このデジタルの安っぽい色が残念すぎる。普通の35ミリカメラで撮れば良かったのにと、つくづく思わずにはいられない。
2004/03/17(水)「クイール」
崔洋一監督がベストセラーの実話「盲導犬クイールの一生」を映画化。パンフレットによると、少年少女から大人まで“万人が楽しめる娯楽作品”を狙ったそうだ。だからといって、別につまらないわけではないが、どこにも感心する部分がなかった。目新しい部分もなかった。犬の表情を粘って撮ったとはいえ、普通の感動作である。いや、普通の感動作は必要だし、事実、きょうは観客も多かった。良い映画、泣けるという口コミが広まっているのだろう(女性の日のためでもあるが)。
崔洋一がこういう映画を作ったこと自体驚きで、撮っても構わないけれど、どこか崔洋一らしい部分が欲しいところだった。いつもうまさに感心する香川照之は演技のしどころがない役柄だし、昨年の主演女優賞を総なめにした寺島しのぶも同様。中心となる視覚障害者を演じる小林薫にはちょっと見所があるけれど、それとて映画を引っ張っていくほどのものではない。テレビ東京創立40周年記念映画なのだそうだ。テレビ放映だけでも十分な作品である。
だいたい、人の死や犬の死を感動に結びつける話は嫌いである。そういう部分で感動を狙う手法は古いし、あざとい。その前の部分で話を面白くする工夫が必要だろう(脚本は丸山昇一、中村義洋)。崔洋一監督には次作の「血と骨」を期待したい。
2004/03/12(金)「イノセンス」
「Ghost in The Shell 攻殻機動隊」を今、見直してみると、「マトリックス」にどれほど大きな影響を与えたかよく分かる。「マトリックス」は結局、設定を生かし切れずに「レボリューションズ」では現実世界の戦争アクションにしてしまったが、押井守はウォシャウスキー兄弟とは違って、テーマを突き詰め9年ぶりの続編を思索的なSFミステリに仕上げた。タッチは「ブレードランナー」、基本テーマはアイザック・アシモフの小説を思い起こさせる(一番近いのは「夜明けのロボット」か)。両者を融合させてデジタルで再構成したSFミステリと言うべき作品である。デジタルエフェクトを使った都市のイメージなどのビジュアル面と75人の女性民謡コーラスを使った音楽(川井憲次)の素晴らしさに比べて、観念的なセリフが多い脚本は大衆性とはかけ離れているけれど、それだけで批判もできないだろう。押井守の映画に観念的なセリフが多いのは今に始まったことではない。
刑事2人が殺人事件の謎を追うという構成はシンプルだ。人とサイボーグとロボットが共存する2032年。愛玩用のアンドロイド(ガイノイド)が暴走し、所有者を殺害する事件が頻発する。犠牲者に政治家が含まれ、テロの可能性も否定できないことから公安九課の荒巻はバトーとトグサに事件を担当させる。ガイノイドを作ったのはロクス・ソルス社。事件を起こしたガイノイドの電脳にエラーは見つからなかった。バトーとトグサは事件に関係しているらしい暴力団「紅塵会」の事務所に殴り込み、ロクス・ソルス社の本社がある択捉の経済特区に向かう。
「ブレードランナー」はリドリー・スコットがディック原作のスペキュレイティブな部分をばっさり切り落とし、未来のハードボイルドとして単純に映画化したのが成功の一つの要因。これに未来都市の魅力的な造型が加わって、もはやSFの古典というべき映画になった。「イノセンス」はこの2つの要素を踏襲した上で、ディックの思索を付加した観がある。人間とサイボーグとロボットの関係にまつわる思索。「人はなぜ自分に似せてロボットを作るのか」。事件の捜査に合わせて、これに絡んだ箴言が登場人物の口から次々に引用される。
事件が解決した後、サイボーグの主人公バトーは事件の犯人に対して「ガイノイドを傷つけることが分からなかったのか」と怒りを見せる。愛犬と暮らす孤独なバトーは自身がサイボーグでもあるため、ロボットと人間の関係に敏感なのである。ただ、夥しい箴言が散りばめられながらも、それが明確にテーマに昇華していかないもどかしさは残る。主人公の造型とテーマをもっと明確に結びつける物語に構成した方が良かっただろう。
「バトー、忘れないで。あなたがネットにつながる時、私は必ずそばにいる」。“均一なるマトリックスの裂け目の向こうに”消えた前作の主人公「少佐」こと草薙素子は言う。クライマックス、ロクス・ソルス社の船の中でガイノイドにロードした素子はバトーを助け、再び去る。こういうセンチメンタルな部分を補強すれば、映画はもっと大衆性を得たと思う。その意味で今回、伊藤和典が脚本に加わっていないのは惜しい。
2004/02/26(木)「ゼブラーマン」
「この格好でジュース買いに行っちゃおうかな」。
ゼブラーマンのコスチュームを身に着けた市川新市(哀川翔)がつぶやく。コスチュームは自分でミシンで縫ったものである。昭和53年に視聴率低迷のため7話で打ち切られた「ゼブラーマン」の絶大なファンである主人公は大人になってもゼブラーマンに憧れている。学校の教師だが、生徒からは馬鹿にされ、そのため息子はいじめられている。娘は援助交際しているらしいし、妻は不倫しているらしい。映画は序盤、スーパーヒーローものの冗談のような展開なのだが、やがて本気になり、ダメな父親、ダメな先生が復権し、スーパーヒーローが誕生して宇宙人を撃退するまでを描く。
これは監督の三池崇史の趣味というより、脚本の宮藤官九郎の思い入れなのだろう(と思ったが、パンフレットを読むと、三池崇史が手を入れた部分もかなりあるらしい)。「先生、聞きたいことがあるんです。…先生はゼブラーマンじゃないんですか」。鈴木京香が主人公に尋ねるセリフはなんだか「ウルトラセブン」を思い起こさせた。ちょっぴり冗長な部分はなきにしもあらずだが、僕は面白かった。Anything Goes。願えばかなうという字幕が最初に出て、映画はその通りの展開を見せる。そういう真正面から言われると恥ずかしくなるようなことを、スーパーヒーローものの設定を借りて言っている力強さがこの映画にはあり、本筋は非常にまともである。これが見ている人を熱くさせる理由なのだろう。
スーパーヒーローになぜあんなコスチュームが必要なのか、現実世界にはまるで合わないのではないかという疑問が実はスーパーヒーローものにはつきもので、「バットマン リターンズ」でティム・バートンはそのあたりまで描いて見せた。しかし、この映画を見ると、人はコスチュームを着けることで別人になれるという効果があるのが分かる。ゼブラーマンがなぜ、あんな力を持てるのか、映画では詳しく説明されないけれど、それでもいいんだ、ヒーローになったんだからという説得力が十分にあるのだ。日常の自分とは違う格好をすることで、人は何らかの力を得るのだろう。テレビの「ゼブラーマン」は空を飛べなかったために宇宙人に負け、人類は支配されてしまう。そのためもあって主人公は飛ぶことに執着する。何度も何度も飛ぶことに挑戦し、傷だらけになる。だからようやくゼブラーマンが校舎の屋上から落ちた生徒を助けるために空を飛ぶシーンは「E.T.」の自転車が空を飛ぶシーンに近い感動がある。「俺の背中に立つんじゃねえ」「白黒つけるぜ」という序盤に出てきたセリフはクライマックスに熱を込めて繰り返される。
主演の哀川翔は硬軟織り交ぜた演技で主演100本目にふさわしい出来。鈴木京香のゼブラナースのコスチューム(絶品!)に驚き、渡部篤郎の防衛庁の役人の面白いキャラクターにも感心させられた。志の低いパロディにしなかったスタッフと出演者を賞賛したい。