2014/07/06(日)「オール・ユー・ニード・イズ・キル」

 「目が覚めたら、私に会いに来て」(Come Find Me, When You Wake Up)

 オニヒトデのように多数の触手を持つウニのような形態の異星人ギタイとの戦闘で死ぬ前に、“戦場の牝犬(ビッチ)”と呼ばれるリタ・ヴラタスキ(エミリー・ブラント)が主人公のウィリアム・ケイジ(トム・クルーズ)に言う。ケイジは出撃初日の戦闘で死んだと思ったら前日に戻って目が覚め、また戦闘中に死んで前日に戻るというループを理由が分からないままに繰り返している。リタに会うことで、ループの理由を知り、ギタイを倒す方法を一緒に探ることになる。

 タイムループの話はケン・グリムウッドの名作「リプレイ」を嚆矢としていろいろな小説や映画が題材にしているが、これはその中でも上位に入る出来だ。ループものというより、死んだらリセットして最初から何度でもやり直せる点でゲームを思わせる。何十回も何百回も単純に繰り返すだけではない。ケイジはロールプレイングゲームのようにさまざまな違う選択を試し、その結果がどうなるのかを知り、経験を蓄積し、戦闘能力を高めていくのだ。

 ひいきのエミリー・ブラントが出ているのでつまらなくてもいいかと思って見たら、出来の良さに驚いた。ダグ・リーマン映画の中で最も面白い。工夫を凝らした脚本(クリストファー・マッカリー、ジェズ&ジョン=ヘンリー・バターワース)に感心させられた。といっても脚本の工夫なのか、桜坂洋のライトノベル「All You Need Is Kill」の通りなのか分からない。気になったのでので原作(Kindle版)を読んだ。

 原作の第2章にロールプレイングゲームという言葉が出てくるので桜坂洋もそれを意識したのだろう。そこを除けば、全体としてこの原作はロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」の影響下にある。「宇宙の戦士」を映画化した「スターシップ・トゥルーパーズ」とこの映画が似ているのはだから当然だ。「スターシップ…」の頃は技術的にまだパワード・スーツを描けなかったが、この映画がその鬱憤を晴らしたと言えるかもしれない。

 最初に書いたセリフ、ケイジがリプレイしていることを知ったリタのセリフは原作ではこうなる。「おまえ、いま……何周めなんだ?」。このセリフを見ても分かるように、映画の脚本は原作とは大きく異なる。設定だけを借りて、オリジナルのアイデアとエピソードをふんだんに盛り込み、映画向きに構成している。断言するが、映画の展開の方が原作よりも優れている。意外なのは脚本を担当した3人のこれまでの作品にはSFが1本もないこと。それなのにこうしたうまい脚本ができたのは物語を語る技術が確かだったからなのだろう。SFだろうが、ミステリだろうが、深刻なドラマだろうが、脚本が肝心なのである。

 こうした脚本のうまさとダグ・リーマンのスピーディーなアクション演出の巧みさ、ケイジとリタの関係の描き方、過不足のないVFXの技術が組み合わさったことが傑作となった要因だと思う。近年のSFアクション映画では出色の出来と言って良い。

 兵士が着る機動スーツは装備を含めると55キロもあったそうで、俳優たちは体を鍛えざるを得なかった。腕立て伏せをしている場面でのエミリー・ブラントの肩の筋肉の付き方と背中から足にかけてのまっすぐなラインがいかにも鍛えた体らしかったが、それはCGではなく撮影前の3カ月のトレーニングの成果のようだ。

2014/06/28(土)「ブルージャスミン」

 全財産を失って妹のアパートに転がり込むというシチュエーションは確かに「欲望という名の電車」。金持ち時代を引きずっているジャスミン(ケイト・ブランシェット)の姿と行く末もブランチ(ヴィヴィアン・リー)に似ているが、痛ましさ一直線だった「欲望…」とは違って、クスクス笑いながら見られるのがウディ・アレンらしいところだろう。

 考えてみると、「マッチポイント」も「太陽がいっぱい」を想起させたし、アレンは過去の名作を咀嚼して自分なりの映画に作り替えることに興味があるのかもしれない。

 アカデミー脚本賞と主演女優賞を受賞し、助演女優賞に妹ジンジャー役のサリー・ホーキンスがノミネートされた。しかし、これは脚本よりも助演よりもブランシェットの演技が光る映画になっている。

 ジャスミンに迫る歯医者はウディ・アレンを投影しているのではないかと感じた。

2014/06/22(日)「チョコレートドーナツ」

「正義なんてないんだな」

「法科学校で習わなかったのか。それでも闘うんだ」

 ダウン症のマルコ(アイザック・レイヴァ)の監護権を麻薬中毒の母親に奪われた裁判の後、アフリカ系弁護士のロニー(ドン・フランクリン)がポール(ギャレット・ディラハント)に言う。裁判で常に正義が勝つとは限らないけれども、現状を打破するには闘うしかない、という訴えにはとても共感できる。しかし、映画を見ていてどうもすっきりしないのは「ほら見ろ、ゲイへの偏見を持つからこういう悲劇が起きるんじゃないか」という展開になってしまっているからだ。

 ゲイへの偏見と差別は十分に描かれていて、それはそれで納得できる。しかし、このストーリーではダウン症のマルコの存在が利用されているだけのように思えてきてしまう。脚本家の狙いはゲイへの偏見と差別を糾弾するだけで、ダウン症への偏見と差別にはあまり関心がなかったのではないか。映画に奥行きが感じられないのはそのためもあるようだ。お涙ちょうだいの域を出ない展開がとても歯がゆい。

2014/06/08(日)「ある過去の行方」

 過去といってもそんなに過去じゃない。過去と銘打つからには10年、20年は過去であってほしい。脚本の作りとして面白いのは主人公が誰だか判然としないことで、最初に出てくるアーマド(アリ・モッサファ)とマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)がメインの話かと思ったら、エンディングではサミール(タハール・ラヒム)とその妻の場面に落ち着く。アーマドはこの物語においてはほぼ部外者の域を出ない。

 話の中心にあるのはサミールの妻が起こした自殺未遂の謎だ。妻はこれによって植物状態になった。なぜ妻は自殺を図ったのか。これがマリー=アンヌの家族にさまざまな軋みを生むことになっている。アスガー・ファルハディの映画の特徴はミステリーを絡めていることだが、見ながら思い浮かべたのはアンドリュー・ガーヴ「ヒルダよ眠れ」で、この小説のように妻がどんな人間だったかに迫っていく場面があっても良かったと思う。

 と、ここまで書いてよくよく考えたら、この映画で描かれる家族と男女関係の不幸の原因はすべてマリー=アンヌにあると思えてきた。最初の夫とは2人の娘がいるのに別れ、次の夫(つまりアーマド)とも別れる(別れの原因は明らかにされない)。再々婚を予定しているサミールの妻は夫の浮気に気づいて自殺未遂する。ここでファルハディは皮肉な設定を用意していて、二転三転する真相がいかにもミステリーっぽい。マリー=アンヌはヒステリックに叫んだり喚いたり、被害者のような振る舞いをするが、過去から連なる不幸の原因の多くは自分自身にあることを少しも分かっていないのだ。

 だから、この物語はマリー=アンヌの人間性を鋭く浮き彫りにする方向で組み立てるべきだった。この映画でヒルダに相当するのは自殺未遂の妻ではなく、マリー=アンヌにほかならない。それなのに、こういう構成になったのはきっと、ファルハディが女性に優しいためだろう。

 「さむけ」や「ウィチャリー家の女」のロス・マクドナルドだったら、もっと厳しい展開にしてこう書いたに違いない。「マリー=アンヌ、おまえにはもう何も残されていないんだよ」。

2014/05/25(日)「アクト・オブ・キリング」

 映画の中盤、インドネシア国営放送の対談番組に、かつて1000人を殺した主人公アンワル・コンゴと民兵組織パンチャシラ青年団のメンバーが登場する場面がある。現在の政権は共産主義者や華僑など100万人が犠牲になったといわれる1960年代の虐殺の上に築かれているので、虐殺者が国内で非難されることはない。しかも共産党は現在、非合法なのでインタビュアーの女性は嬉々として虐殺の様子を尋ね、アンワルらは自慢げにそれに答える。

 信じられないようなシュールな場面だ。思わず、「ロボコップ」に出てきたシュールなニュースを思い浮かべた。あれは現実をデフォルメしたフィクションだが、これはありのままの現実。だからかなりショッキング(というか、あまりに現実離れしていてあきれる)。監督のジョシュア・オッペンハイマーは「ホロコーストから40年後のドイツに足を運んだら、そこではまだナチスが権力をふるっていた、というような感覚」と語っているが、的確な比喩と言うべきで、インドネシアという国は一般的な正義が実行されないまま現在に至っているのだ。

 シュールと言えば、アンワルの相棒であるヘルマン・コトが選挙に出馬する場面もそうだ。映画の中で女装するのでマツコ・デラックスと評している人がいたが、僕は西田敏行をもっと太らせて色黒にして知性を抜き、がさつにした男のように思えた。そういう男が選挙に出るというのもシュールだが、名刺を配るヘルマンに対して有権者のおばちゃんたちが「名刺だけかい? ボーナスはないの?」と(カメラの前で)平気でお金を要求するのもシュール。「集会に数千人集まれば、その数千人はみんな金をもらっている」というセリフもあり、票を金で買うのが普通の社会らしい。だいたい、ヘルマンが選挙に出ようと思ったのも議員になって賄賂で儲けるためだ。民兵の幹部が華僑の商店主に金を要求する場面もあり、要するに金がすべてを動かす社会なのだろう。映画はスマトラ島で撮影されたそうなので、これがインドネシア全体に言えることなのかどうかは分からないが、インドネシア大丈夫か、と思えてくる。

 主人公のアンワルはかつて行った虐殺の際、鉈で切断した首の目を閉じなかったことを悔やんでいる。未だに悪夢を見ることがあるのはこれが原因だったと考えている。虐殺が始まった当初は殴り殺していたが、周囲が血だらけになり、その臭いと片付けに手間がかかったため、アンワルは針金で絞め殺すようになる。そのヒントになったのがアメリカのギャング映画だというのが恐ろしい。映画は現実を取り込むが、逆に現実に影響を与えることもある。アンワルは映画中映画で虐殺者の役を演じ、その後、被虐殺者の役も演じる。そして嘔吐してしまう。これをアンワルが過去の行いを反省したからと受け止めるのは早計で、「es[エス]」(2001年)で描かれた実験を持ち出すまでもなく、人間は演じる状況に影響を受けるのだろう。

 残酷な場面ばかりだったら苦手だなと思いながら見たが、全然そんなことはなく、さまざまに刺激的な映画だった。これは人間の暗黒を描いた映画ではなく、普通の人間が状況に流される姿を浮き彫りにした映画だと思う。すこぶる面白い。傑作。