2003/07/02(水)「恋愛寫眞 Collage of Our Life」

 あの「ケイゾク」「トリック」の堤幸彦が監督したラブストーリー。広末涼子と松田龍平主演で、松竹タイトルの富士山の火口がカメラのレンズに重なって始まるデジタルなタイトルバックから良い出来である。前半、カメラマン志望の大学生・松田龍平がちょっと変わった女子大生・広末涼子に出会い、同棲し、ふとしたことで破局を迎える描写の切なさを見ていて、これはもしかしたら大傑作なんじゃないかと思ったのだが、ニューヨークに舞台を移した後半はテレビの2時間ドラマを見るような展開で、急に失速してしまう。ラスト近くのエピソードで映画は盛り返すのだが、惜しい。前半をもう少し膨らませて、後半を簡単な描写にとどめれば、映画の出来はもっと良くなったはずだ。前半100点満点、後半60点程度の出来なのである。

 広末涼子は「これは男の子の目線から描いたラブストーリー」と堤監督に言ったそうだが、その通りの内容だ。誠人(松田龍平)は同棲した静流(広末涼子)に写真を教えて、2人一緒に写真雑誌のコンテストに応募する。誠人は落選するが、静流は新人奨励賞に選ばれる。ずっと写真を続けてきた自分より静流の方が才能があるのか。そんな思いに駆られて、誠人はいたたまれなくなり、結局、静流をアパートから追い出してしまう。「ずっと一緒にいたかっただけなの。誠人と同じことをして」という静流の別れ際のセリフが泣かせる。静流は男にとって理想的な女なのであり、ヒロスエが言う男の目線というのはここを指している。

 とにかく前半のヒロスエが素晴らしく良い。チャーミングな表情の一方で、私生児で家庭的には恵まれなかった静流の生い立ちも含めた深い演技を見せる。加えてタイトル通り、写真(撮影は斎藤清貴)を多用してあるが、その1枚1枚が実に良い出来である。堤監督は撮影にも凝っており、この前半の切ないラブストーリーをもっともっと見ていたかった。

 3年後、誠人にニューヨークへ行った静流から手紙が来る。写真の個展を開くという案内だった。誠人はその手紙を捨ててしまうが、同級生から静流が1年前に死んだらしいとの噂を聞く(映画はこの「死んだ恋人からの手紙が来た」というアイデアが先にあったらしい)。手紙をもらったのに死んでいるわけがない。誠人は自分の目で確かめるためにニューヨークへ行く。ここからのタッチがいつもの堤幸彦の映画を思わせるものであまり良くない。チンピラにボコボコにされた誠人を助ける日本びいきの牧師の描写など不要だと思う。静流のニューヨークの友人役を演じる小池栄子を評価する人もいるようだが、僕はあまり買わない。

 全体としてこれは、なくして初めてなくしたものの重要さに気づく男の話で、若いからこその失敗の話であり、それを乗り越えて成長していく話でもある。20歳になったばかりの松田龍平には少し荷が重い役だったかもしれない。しかし、広末涼子に関しては満足できる映画であり、これが今のところのヒロスエの代表作になった観がある。全編に流れる音楽(見岳章、武内亨)と主題歌の山下達郎「2000トンの雨」も良かった。

2003/06/17(火)「スパイ・ゾルゲ」

 細かいことから始めるなら、ロシア人もドイツ人も外国人の話す言葉はすべて英語というこの映画の取った手法は間違っている。少なくとも昭和史を描く覚悟があるなら、ロシア語とドイツ語ぐらいしゃべれる俳優を用意しなくてはいけない。さらに細かいことを言えば、226事件の将校たちが処刑される場面で頭を撃たれたのに「天皇陛下バンザイ」などと叫ぶのはおかしい。このほかにもたくさんツッコミどころのある映画で、主演のイアン・グレン(「トゥームレイダー」)がまるで木偶の坊であるとか、女優たちはいったい何のために出てきたんだか分からないとか、主人公がゾルゲか尾崎秀実(本木雅弘)か揺れ動くとか、いくらなんでも3時間2分は長すぎるとか、話に起伏がなさすぎるとか、もう挙げていったらきりがない。篠田正浩監督、本当にこの映画で引退するのか。

 大物スパイのゾルゲを中心にして激動の昭和史を描くというアイデアだけは良かった。篠田正浩が間違ったのは描くのは人間ではなく、状況だ、と考えたことだ。状況を作り出すのは人間なのだから、まず何を置いてもそういう状況を作り出した人間を描かなくてはいけない。戦前の上海から始まって満州事変や226事件を経て開戦に至る昭和の歴史を単に順番に並べただけで話にまったく深みがない。それは人間を描いていないからにほかならない。

 映画は「スター・ウォーズ クローンの攻撃」でも使われたHD24pでハードディスクに撮影されたそうだが、そうしたCGを駆使した映像をいくら使っても時代のリアルな感じは意外なほど出てこない。人の営みや苦しみなど普通の風景と感情が映画からすっぽり抜け落ちているからだろう。無味乾燥な映画なのである。だいたい、観客はだれに感情移入してこの映画を見ればいいのか。ナレーションが尾崎になったり、ゾルゲになったりするようではストーリーテリングの基礎をわきまえていないと思われてしまう。

 いっそのことゾルゲでも尾崎でもなく、別の第3者の視点から物語を組み立てた方が良かったのではないかと思う。この映画の一番の弱さがこの昭和史を極めて表面的になぞっただけのつまらない脚本にあることは間違いなく、これが故笠原和夫なら、と思わずにはいられない。笠原和夫なら間違いなく、沖縄出身でアメリカ人からも日本人からも差別され、共産主義に希望を見いだした宮城与徳(永澤俊矢)の視点から話を語ったのではないか(篠田正浩も途中でそれを考えたという)。映画のクレジットに出てくる参考文献を篠田正浩は簡単にまとめただけなのだろう。脚本を17稿書いたとはいっても、出来がこれではお話にならない。

 見ている最中、凡庸という言葉が頭に浮かんでいた。篠田正浩はこんなに凡庸だったのか。話の語り方、表現、手法のことごとくが新人監督が撮ったように青臭くて下手である。前作の「梟の城」の時にも思ったのだが、篠田正浩は60年代から70年代初めまでで才能を消費し尽くしてしまったのではないか。

2003/05/12(月)「棒たおし!」

 城戸賞の受賞作を基に全編宮崎ロケした作品。出てくる風景がすべて見慣れたもので、「おおお、これはあそこだ」「ああ、ここも映ってる」と思うが、そういう部分だけで宮崎県民に評価されても仕方がないだろう。第一、映画は宮崎が舞台と明示しているわけでもない。どこかの地方の街である。ただ、脚本のチーズケーキが宮崎名物(?)チーズまんじゅうに変わっているとかのアレンジはある。

 脚本は昨年10月14日に読んだ。「ウォーターボーイズ」を思わせる青春ものでとても面白かった。映画はその生真面目バージョンという感じである。主人公の高山次雄を演じる谷内伸也の演技が堅く、相手役の紺野小百合(平愛梨)の演技も未熟なのが誤算だったと思う。この2人が中盤、小学校の校庭で話すシーンが2度あるが、いずれも相米慎二を思わせる長回しで撮られている。ところが、2人の演技では画面が持たないのである。演技的に未熟な部分があるのだから、ここは長回しに固執せず、カットを割ってあげた方が良かったと思う。平愛梨はラスト近くの列車を待つシーンまでアップらしいアップもない。

 この2人とは好対照にうまいのが心臓に病気を抱えながら、体育祭での棒たおしに懸ける久永勇(金子恭平)。脚本でも儲け役だが、金子恭平はいきいきと演じていて好感が持てる。真冬に撮影されたこの映画に熱い部分があるとすれば、それは勇の役柄しかない。勇は棒たおしに興味を示さない次雄にビデオを見せる。このビデオが迫力満点の大学の棒たおしの映像で、これを見たら、荒々しい棒たおしの魅力も分かるというぐらいの面白さ。しかし、残念ながら映画のクライマックスの棒たおしはこの迫力に欠けていた。主人公に熱さが足りない。棒たおしに懸ける気持ちが伝わってこない。

 生真面目バージョンと書いたのは元の脚本にはない「人は死ぬと分かっているのに、どうして生きるのか考えた事ある?」という小百合のセリフが映画のポイントになっているからでもある。こういうだめ押し的なセリフが僕はあまり好きじゃない。そういうことは画面で見せればいい。笑って笑って少し感動させてという展開になるはずが、笑いも少しあるけど本音は真面目なんだぜ、という映画になったのはこういうセリフを入れたことと無関係ではないだろう。

 アイドルたちが出演していても前田哲監督はアイドル映画を撮るつもりはさらさらなかったようだ。自分なりの青春映画を撮ろうとした意図はよく分かる。どうか、ブライアン・シンガーのように捲土重来を果たしてほしい。

2003/03/09(日)「ワンピース The Movie デッドエンドの冒険」

 4作目の映画。初の単独公開(航海)が売りだが、昨年春まで「アニメまつり」として併映だった「デジモン」の興行力がなくなった(昨年夏に惨敗した)ので、単独公開せざるを得なかったのだろう。余計な併映がなくなって上映時間はこれまでの70分程度から20分ほど長くなったものの、出来そのものは変わらない。毎回同じパターンの話なので、印象も変わらない。

 ルフィたちが海軍に追われる冒頭の演出にさえがなく、次に意味のない一人称の視点で港町の移動シーンがあって、これはちょっとと思ったら、その通りの出来だった。サンジやゾロに活躍の場面がないとか、シーンによって絵の出来不出来に差が大きいとか、細かい不満はいろいろあるのだが、何よりも話がもっと面白くないと苦しい。

 万年金欠病のルフィたちが賞金3億デリーの海賊船レース・デッドエンドに参加することになる。優勝候補のガスパーデは悪魔の実の能力者。アメアメの実を食べて、体が「ターミネーター2」のT1000のように変わっている。港町ハンナバルでルフィたちと知り合った賞金稼ぎのシュライヤ・バスクードはこのガスパーデを狙う。シュライヤは8年前、妹をガスパーデに殺された恨みから海賊を狙う凄腕の賞金稼ぎになった。ガスパーデの船には病気に苦しむボイラー職人のビエラじいさんがおり、ビエラに育てられた少年アナグマは薬を買う金を手に入れるため、ルフィの船に潜入するが、ゾロに発見される。

 映画はテレビシリーズの番外編みたいなものだから、毎回、悪人に苦しめられている者たちをルフィが救う展開にせざるを得ないのだが、今回もシュライヤとアナグマの話が中心になる。ゾロに見つかったアナグマが生きていても意味がないから自分を殺せ、と言ったのに対してナミが激怒したり、ルフィが終盤、「どんなことがあっても生き抜け」みたいなセリフを吐くのが義理と人情と友情と正義と不正に対する強い怒りに彩られた「ワンピース」らしいところ。ギャグを交えて本音を語るのが根強い人気の要因か。

 監督はテレビシリーズを担当している宇田鋼之介。テレビシリーズで魚人のアーロンたちにメタメタにやられたエピソードのような話を映画にも期待したいところだ。上映時間が長くなったのにあまり盛り上がらないのはルフィたちに危機らしい危機がないためではないかと思う。やられてやられてやられた後に反撃する展開はこういう話の定石なのだ。テレビとの同時進行で時間的な制約があるのは分かるが、次の作品ではもっと面白い話を見せてほしい。

2003/02/13(木)「13階段」

 高野和明の江戸川乱歩賞受賞作を「ココニイルコト」「ソウル」の長澤雅彦監督で映画化。主役の刑務官を演じる山崎努の好演もあって、半分ぐらいまではこれは傑作なんじゃないかと思っていたのに、終盤、映画は急速に失速する。詳しくは書かないが、2時間ドラマレベルの終盤だった。プロデューサーの角谷優は脚本に時間をかけたという。最終的なクレジットは森下直(「誘拐」)になっているが、長澤監督や企画協力の岡田裕、山崎努らの意見も取り入れてまとめたそうだ。なのに、なぜこの程度の底の浅い話になるのかわけが分からない。「ボーン・アイデンティティー」も底が浅い話だなと思ったが、あれでも水深50センチぐらいはあった。この映画の水深は5センチほどである。

 傷害致死で服役して仮出所したばかりの三上純一(反町隆史)のところへ、松山刑務所の刑務官・南郷正二(山崎努)が訪ねてくる。死刑囚・樹原(宮藤官九郎)の冤罪を晴らすため13年前に起きた殺人事件の再捜査への協力依頼だった。依頼人は明らかにされていないが、報酬は1000万円。慰謝料に7000万円を支払い、実家が金策に困っていたこともあって純一は南郷に協力することになる。樹原は自分の保護司夫妻を殺したとされたが、オートバイの事故で事件前後の記憶がない。凶器も見つかっていない。新たな証拠を見つけ出す手がかりは最近、樹原が思い出した「階段を上っていた」という記憶だけだった。事件があったのは純一が殺してしまった佐村恭介が住んでいた町。佐村家を訪れた純一は父親の光男(井川比佐志)から「死んで罪を償え」とののしられる。一方、南郷にもかつて死刑囚を殺してしまったという罪の意識があった。2人は贖罪の意識にとらわれながら、死刑囚を助けるため犯行現場付近で階段を探し求める。

 終盤に唖然とするのはあまりにも狭い人間関係の中で事件が起きていること。犯人の作為と偶然が重なったとはいえ、これではもうあんまりである。「誘拐」も犯人の意外性と社会性で見せたから、森下直はミステリーにはある程度の理解はあると思うが、事件の詳細で明らかにされない部分も多く、この脚本はまずい。もっとポイントを絞って、死刑の是非を前面に出すような展開が加われば、映画の格ももう少し上がっていたのではないかと思う。取り上げていることが通り一遍なのである。

 長澤監督は感動するドラマを目指したそうだが、底が浅いドラマでは感動しようがない。死刑執行までのタイムリミットがサスペンスとして効いてこないのも弱い。たぶん、長澤監督はミステリーやサスペンス映画には向かないのだろう。

 なぜ事件の再捜査を刑務官に頼むのか、という釈然としない部分があるにせよ、山崎努の自然な演技は相変わらずうまい。反町隆史も眼鏡を掛けた内向的な役柄をそつなく演じている。刑務所の所長役を「刑務所の中」を監督した崔洋一が演じているのは狙ったことではないのだろうが、崔洋一は「御法度」に続いてまたまたうまい。この人は口跡が良く、外見の貫禄もこうした役柄にピッタリである。