2002/11/08(金)「たそがれ清兵衛」
意外な気もするが、山田洋次77作目にして初の本格的時代劇。そして山田洋次作品の中でもかなり上位にランクされる傑作だ。食事や内職や畑仕事などなど下級武士の日常の描写がしっかりしており、登場人物の深い描き方だけでも、いつまでもいつまでも見ていたくなる。身の丈に合った生活に不平不満を言わず、清貧に生きる主人公の潔い姿勢には深く共感させられる。山田洋次が時折撮る説教くさい映画が僕は好きではないし、この映画にもそんな部分がかすかに残ってはいるのだが、時代劇であることによってそれは薄められている。貧しいけれども真摯に生きる者たちに注ぐ監督の視線がストレートに伝わってくる。藩の命令に逆らえない主人公の姿は現代のサラリーマンとも重なっており、見事なまでの完成度を持つ作品と思う。
原作は藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」。山田洋次と朝間義隆はこれを清兵衛の娘の視点から組み立て直した。この脚本も相当うまい。庄内地方にある海坂藩の下級藩士・井口清兵衛(真田広之)は仕事が終わると、同僚の誘いも断ってさっさと家に帰るので、たそがれ清兵衛と呼ばれている。清兵衛は五十石の身分で娘2人とボケ始めた母親と暮らす。妻は長患いの末に労咳で亡くなった。もともと貧しい暮らしだが、妻の病気で借金が重なり、清兵衛は虫かご作りの内職をしている。同僚と飲みに行く金もないのだ。しかし、「二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、草花の成長を眺めるのにも似て、楽しいものでがんす」と話す清兵衛に今の生活への不満はない。映画は前半でこうした境遇にある清兵衛の日常をじっくりと描く。
清兵衛の生き方はストイックで、ある意味ハードボイルドでもある。幼なじみの朋江(宮沢りえ)に思いを寄せているが、貧しい家に迎えれば、苦労させるのは目に見えている。だから清兵衛は思いを打ち明けられずにいる。それをついに打ち明ける場面が泣かせる。剣の腕を見込まれて、家老から無理矢理上意討ちを命じられた清兵衛は、朋江に身支度を頼む。そしてこう話すのだ。「幼いころから、あなたを嫁に迎えることは私の夢でがんした。これから私は果たし合いに参ります。必ず討ち勝って、この家に戻ってきます。そのとき、私があなたに嫁に来ていただくようお頼みしたら、受けていただけるでがんしょか」。静かな言葉の中に熱い思いがあふれる。真田広之と宮沢りえの演技が素晴らしい。
これに続く上意討ちの場面(田中泯の凄みのある侍は見事)のリアルな殺陣もこの映画の見どころではあるが、まず、清兵衛の生き方と朋江との関係を描きこんだことが成功の大きな要因だろう。物語を語ることにおいて山田洋次の技術は相当高いとあらためて思う。「ロード・トゥ・パーディション」で感じた技術の高さをこの映画でも感じた。この技術は普遍的なものだから、海外でもきっと通用するだろう。どこかの映画祭に出品してみてほしいものだ。
2002/11/01(金)「Dolls ドールズ」
いつも行く駐車場に止めてある車がやけに多い。これはもしかしたら、G優勝セールのためか、と思ったら、何のことはない「映画の日」だからか(忘れていた)。あまり見に行く映画もないので懸案だった「Dolls ドールズ」にする。北野武監督の第10作。ベネチア映画祭ではかすりもしなかったという作品である。評判はあまり良くなかったので期待しなかったが、そんなに悪い出来ではない。最初の30分ほどをもう少してきぱきと見せれば、もっと良くなっただろう。
「つながり乞食」というイメージはパンフレットによると、北野武が大学を辞めて浅草で働いていた頃に見た男女を基にしているという。赤い紐で結ばれた男女が美しい風景の中を歩くイメージにはインパクトがある。インパクトはあるが、話の作りはうまくない。結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を捨てて社長令嬢と結婚式を挙げるところだった松本(西島秀俊)は佐和子が自殺未遂を起こし、精神に異常を来したと知らされる。松本は結婚式を放り出して病院に駆けつけ、佐和子を連れて放浪の旅に出る。車の中で暮らすホームレス同然の生活。2人はやがて車を捨てて歩き出す。赤い紐は佐和子が勝手に歩き回らないようにするためだ。
最初の30分で映画はこうしたことを説明するのだが、ここの手際が悪い。演出が律儀すぎる感じがある。2人は正体不明のオブジェにしてしまって、他のエピソードを語った方が良かったのではないか。もっとも、他のエピソードといっても2つしかない。一つは松原智恵子演じる初老の女が何十年も2人分の弁当を作って公園で男を待ち続ける姿。男は不況のため務めていた工場を辞め、「立派になって迎えに来る」と言い残して姿を消す。女はそれ以来、毎週土曜日に弁当を持ち、待ち続けているのだった。ヤクザの親分になった男(三橋達也)は数十年後に公園に行き、女の姿を見つける。
もう一つはアイドル歌手の追っかけの男(武重勉)のエピソード。アイドル(深田恭子)が顔にけがをして引退したのを知り、男は自分の目を潰して会いに行く。「たぶん、見られたくないだろうと思って」と男はアイドルに言うのである。これは北野武が自分で言っているように「春琴抄」そのままの話である。
赤い紐の男女のエピソードも含めて、3つに共通するのは深すぎる愛、あるいは異形の愛を描いていること。それぞれに悪くはないが、オムニバス形式になるところを無理矢理に話をつないだ感もある。赤い紐の男女を描くのなら、あとの2つのエピソードを大きく扱う必要はないし、愛の深さを描くのなら、赤い紐の男女のエピソードをもう少しうまく演出する必要があっただろう。
北野武が最初に意図したのは日本の四季の風景を美しく撮ることらしく、その点に関しては桜並木や紅葉の森や雪景色が十分に美しく撮られているので成功はしている。北野武はイメージ先行型の演出家なのだな、と思う。
菅野美穂を映画で見るのは個人的には「エコエコアザラク」「富江」以来。テレビのバラエティ番組で笑顔を振りまく好感度もいいが、こうした無表情な役柄も似合っていると思う。
2002/10/29(火)「なごり雪」
「または、五十歳の悲歌(エレジー)」とサブタイトルが付く。28年前、22歳で名曲「なごり雪」を作った伊勢正三も50歳。三浦友和もベンガルも50歳だそうだ。確かにこの映画はそうした中年男たちの悔恨と苦渋に満ちた回想を描く映画でもあるのだが、こちらが感動するのは回想の中で語られる青春のほろ苦さと残酷さ、純粋でひたむきな少女の姿にある。主人公の祐作(細山田隆人。現在は三浦友和)を愛した雪子(須藤温子)は東京に帰る祐作を臼杵駅で見送る場面でこう言う。
「…わたし今は駄目だけど、来年の春までには、きっと綺麗になる。うんと綺麗になって、あなたを驚かせてあげるわ。…だから帰ってきて。…」
「…今度この駅のホームであなたと会う時、あなたは言うわ。きっと、こう言うわ。…春が来て君は綺麗になったって。…去年より、ずっと綺麗になったってね」
主人公は東京の大学に入って、2年目の夏休みに女友達のとし子(宝生舞)を連れて故郷の臼杵に帰ってくる。冬休みと春休みに帰らなかったのは大学生活が忙しかったからだと雪子に説明するのだが、ふとしたことで実はとし子とスキー合宿に行っていたことが雪子に分かってしまう。だからこのセリフの前に雪子はこう言っている。
「冬休みの事は、わたし諦めます。又志賀高原のスキー合宿でしょう。大学生活の為には、それも大切ですもの。でもお願い、春には帰ってきて。今度の三月でわたしは十七歳。わたしあなたに約束するわ。…」
雪子はとし子から祐作を取り戻したい一心でこのセリフを言うのである。ここで不覚にもボロボロと泣いてしまった。大学1年の夏休みに祐作が帰ってきた時は夢に見るような幸福な日々だった。それがたった1年で変わってしまった。そんな思いが故郷で祐作の帰りを待ちわびる雪子にはあったのに違いない。
大林宣彦はこの映画でロマンティシズムの復権を図ったのだと思う。撮影に入って、2日目で米同時テロがあり、大林宣彦はこう決意したという。
「だからこそ僕は『なごり雪』では穏やかでチャーミングな映像を撮ろうと思いました。『なごり雪』の映像を見れば、あんな破壊の映像なんか観たくないと、みんなに思わせるものにしようと」(キネマ旬報10月上旬号)。
それはつまり、大林にとって初心に返るということでもあるのだろう。この映画の須藤温子は尾道3部作の第2作「時をかける少女」の原田知世のように素敵だ。クレジットがせり上がってくる場面で描かれる4人の男女が臼杵駅に並んでいる場面で、須藤温子がカメラに向かって来る場面は「時をかける少女」の原田知世のように演出されている。
俳優たちのセリフ回しが実にいい。まるで増村保造の映画を見るよう(大林宣彦はセリフをぜんぶ朗読するように演出したそうだ)。これは言葉に重きを置いた映画なのである。その効果で増村映画の主人公にあった切実さをこの映画の登場人物たちも受け継ぐことになった。時代背景が70年代であれば、それも当然のことだ。ベンガルの若い頃を演じる反田孝幸(南原清隆のような顔つき)の役柄も含めて、役者がことごとく良く、この美しくて切なくて哀しい物語にリアリティを与えている。
大林宣彦は素晴らしい映画を作ったと思う。「なごり雪」という名曲はこの映画を生むために28年前に生まれたのではないかとさえ思える。パンフレットで伊勢正三が「僕はまず『なごり雪』という歌を、こんなに大切に扱っていただいたことに感動しています」と話しているが、分かりすぎるぐらいによく分かる。そんなに素敵な映画なのだ。日常生活のすべてを放り出して見る価値のある傑作。
2002/10/22(火)「OUT」
桐野夏生のベストセラーを「愛を乞うひと」の平山秀幸監督、鄭義信(チョン・ウィシン)脚本のコンビが映画化。原作は未読だが、脚本は重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したそうだ。その成果で、これは生活に疲れた中年女性が日常からOUTしていく様子を描いて見応えのある映画に仕上がった。原田美枝子と倍賞美津子が日常をどんどん踏み外していく様子はブラックなユーモアを交えて描かれ、だからといってリアルさも失わず、「テルマ&ルイーズ」を思わせる。優れた映画化だと思う。
中盤、ヨシエ(倍賞美津子)が「知床のオーロラが見たい」と夢を語る場面がある。毎日10円ずつ貯金すれば、1年で3650円、10年で3万6500円になる。それぐらいあれば、ちょっとした旅行ぐらい行ける。しかし義母の介護を続けながら弁当工場で働くヨシエには暇も金もなく、それは単なる夢よ、と雅子(原田美枝子)に笑って話すのだ。ここは2人の女優の演技がバチバチと火花を散らす名場面。そして、雅子は終盤、その夢を引き継ぐようにオーロラを目指して北海道へ向かうのだ。
もともとは夫から暴力を受け続けている弥生(西田尚美)が発作的に寝ている夫を殺してしまったことが発端。この場面、この映画にとってはそんなに重要じゃないよ、という感じでてきぱきと進む(DVなんかがテーマではないのだ)。弥生から泣きつかれた雅子は死体を預かり、捨てるために解体する羽目になる。1人での解体はとても無理で、“師匠”のヨシエに協力を頼む。この解体シーンは映画のポイントなので、描写もしっかりしているうえにおかしい。雅子は死体の首に包丁を押し込んだ瞬間、絶望的な日常から足を踏み外したのだ。死体の解体にはたまたま雅子に金を借りに来た邦子(室井滋)も巻き込み、こうしてそれぞれに不幸な女4人は共犯関係になってしまう。
4人の女優それぞれにいいが、やはり原田美枝子と倍賞美津子が出色。特に原田美枝子はこれが代表作になるのではと思える。消費者金融の十文字(香川照之、相変わらずうまい)から口説かれて、まんざらでもない様子をうかがわせる場面(家に帰ってペティキュアを塗る)もいいが、十文字が福岡へ向かうバスの中からかけた別れの電話に「キスぐらいしておけばよかったわね」と答える場面とか、中年女性の貫禄という感じである。
惜しいのはブラックユーモアが先走りしすぎた場面があることで、原作ではどうなっているのか知らないが、死体解体の腕を見込まれてビジネスにするあたりがちょっと浮き足立ってしまった(「年寄りは脂肪が少ないから楽ね」という倍賞美津子のセリフがおかしい)。しかし、平山秀幸の演出は夢に向かって進む原田美枝子に十分な説得力を持たせており、口をきかない息子とリストラされた夫を持つ中年主婦の息苦しさから解放されていく様子が映画の気持ちよさにつながっている。主人公の行く末は決して安楽なものではないのだが、希望を持たせたまま終わるラストはだから当然の処理といっていい。平山秀幸は「9デイズ」のジョエル・シュマッカーよりもユーモアとリアルの案配をよくわきまえていると思う。ユーモアは人柄からにじみ出るもので、必然的に人間を深く描く必要があるのだ。
北海道からアラスカへと、オーロラへの夢を膨らませる雅子は、オーロラを見ても何も変わらないことを知っている。しかし何か目的を持つことが明日への力になること、退屈な日常から飛翔する手段になることを雅子は同時に知っているのである。その姿は「明日に向って撃て」のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを思い起こさせ、平山秀幸の世代を考えれば、これはきっとアメリカン・ニューシネマあたりをも意識しているのではないかと思えてくる。生活に疲れた中年女性は必見でしょう。
2002/10/11(金)「宣戦布告」
グッドタイミングというか、バッドタイミングというか。映画会社にとっては社会的な話題が加わってヒットにつながるのなら、グッドタイミングだろう。明らかに北朝鮮がモデルの北東人民共和国の潜水艦が福井の海岸に座礁して乗組員11人が山中に逃げ込むというのが発端。乗組員は特殊工作員らしく警察の武器では歯が立たない。自衛隊の出動になるが、そこまでの法的手続きクリアに大きな困難が伴う。自衛隊が出動すれば、北は“宣戦布告”と見なす、と政府首脳の間では侃々諤々の論議となる。加えて射撃にも許可、手榴弾使用にも許可、ヘリのバルカン砲使用にも許可が必要で、許可を待っている間に警察官や自衛隊員はバタバタと敵の銃弾に倒れる。ただ、許可が必要なのは当たり前のこと。勝手に銃撃戦を始められたら、シビリアンコントロールの意味がなくなる。
映画はクライマックスにアメリカ、中国、韓国、台湾など周辺国が次々に戦闘態勢に入り、一気に緊張が高まる様子を描く。宣戦布告もなく戦争が始まろうとしているのだ。しかし、この緊張感は長く続かず、そこからの描写がやや腰砕けになってしまう。前半から描写は荒っぽいし、全体としては「トータル・フィアーズ」の縮小版のような感じである。
主人公は古谷一行演じる諸橋首相。これは政府の立場から有事の際の日本の弱さを描いた映画で、有事法制推進映画と受け取られてしまいかねない。(そんな主張もあるのかもしれない)。北の目的は最後まで分からない。仮想敵国としてだけ描くのでは「トータル・フィアーズ」よりも後退した作りである。周辺事態のシミュレーションならば、もっと緻密な組み立てが必要だっただろう。
麻生幾の原作を石侍露堂(せじ・ろどう)監督が映画化。昨年のうちに完成していたという。監督はパンフレットに、(完成して間もなく起きた米同時テロによって)「時代遅れの映画が一夜にして『現代の映画』になったのです」と書いているが、それを言うなら、昨年暮れの不審船事件の方だろう。内閣調査室が北のスパイを追う過程を見せる(白島靖代の金で雇われた女スパイがよろしい)サブプロットは悪くない。エンタテインメント志向も買う。しかし、これぐらいのレベルで誉めてはいけないと思う。