2005/09/24(土)「大いなる休暇」

 「大いなる休暇」パンフレット「8年前から漁がすたれて島民はみんな生活保護で暮らすようになった。生活保護で金はもらえるが、誇りも少しずつ失う」。

 125人の人口しかいないカナダ・ケベック州のサントマリ・ラモデルヌ島。夜逃げした町長の代わりに町長になったジェルマン(レイモン・ブシャール)がクライマックス、都会から来た医師のルイス(デヴィッド・ブータン)に言う。生活保護から脱けるためには工場が必要で、その工場を誘致するには医師がいることが条件だったため、島民はみんなでルイスに対して理想的な島と装う嘘をついていたのだ。この直前にルイスは恋人と親友から3年間、嘘をつかれていたことを知り、ショックを受けているというのが絶妙のシチュエーションである。さて、ルイスはどうするというのが素晴らしい終盤になっている。高齢者ばかりがいる無医地区というのは日本の地方にもあることだろう。CM監督出身で長編映画デビューのジャン=フランソワ・プリオは、笑いの中に真実を込めたうまい映画を作ったと思う。

 島には15年前から医師がいない。ジェルマンたちはケベック中の医師に島に来てくれるよう手紙を書くが、みんな無視されてしまう。ルイスが島に来た(来ざるを得なかった)のにもひねった理由があるのがうまいところ。ルイスは決してボランティア精神にあふれた医師ではないのである。本当はアイスホッケーが好きなのにルイスの趣味に合わせて男たちはクリケットの真似事をする。毎夜、お金をルイスに拾わせる。下手な釣りの腕前を見て、釣り針に魚を掛ける。ジャズなんて大嫌いなのに大音量のジャズをルイスと一緒に聞く。島に定住してもらおうと、ルイスの電話を盗聴して必死にあれやこれやをする島民たちの姿がユーモラスに温かく綴られていく。ここにある笑いは観客に媚びた下品なものではなく、登場人物のキャラクターからにじみ出る笑い。脚本のケン・スコットはスタンダップ・コメディアン出身という。笑いの本質を分かっている人なのだろう。

 ルイスが来た翌朝からルイスの元には多数の患者が押し寄せる。なにしろ無医地区なので、実際に島民たちは困っていたのだ。そんな島の真実と、誇りを失って無為に暮らしたくないという島民たちの思いが映画からは伝わってくる。監督の言葉を借りれば、この島民たちは「生きる糧をなくして、それでも再度希望を持って立ち上がる人々」なのである。だから、終盤、映画はルイスに対して嘘をつき続けるか、真実を打ち明けるかの選択をジェルマンたちに取らせる。クライマックスが素敵なのは人間として当たり前のことが当たり前に受け止められるからだ。

 ケベック州の島が舞台であるため、セリフはすべてフランス語。出てくる俳優も知らない顔ばかりだが、映画はとても面白かった。農村を舞台にしたミュージカルを作り続ける劇団「ふるさときゃらばん」の姿勢に通じるものがある映画だと思う。過疎地の実情は世界のどこでも共通するものなのだろう。

2005/09/23(金)「チャーリーとチョコレート工場」

 「チャーリーとチョコレート工場」パンフレットロアルド・ダール原作の童話「チョコレート工場の秘密」をティム・バートン監督が映画化。前作の「ビッグ・フィッシュ」に続いて、家族愛を歌い上げるファンタジーである。3連休の初日のためか劇場は満員。200席ほどの映画館だが、左端の上から2番目と1番目の並びの席に家族5人で座る。上の方は冷房の利きが悪く、暑かった。睡眠不足のためもあって、途中でウトウト。映画がつまらなかったわけではないが、同じ家族愛ならば、「シンデレラマン」の後では少し分が悪いのは確かだ。いつものように快調なダニー・エルフマンの音楽とジョニー・デップの演技を楽しんだけれど、話自体にちょっと物足りない思いも残った。

 映画のタッチはバートンらしいブラックな趣味にあふれている。主人公のチャーリー・バケット(「ネバーランド」のフレディ・ハイモア)は斜めに傾いた家に両親とその両方の祖父母の計7人で住む。食事はいつもキャベツのスープ。4人の祖父母は1つのベッドに寝たきり。父親は歯磨きの工場でキャップを閉める仕事をしている。貧しい暮らしだが、チャーリーは家族が大好きだ。街にはウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)というチョコレート作りの天才が建てた大きな工場がある。チャーリー自身がチョコを口にするのは年に1回、誕生日の時だけである。ウォンカのチョコレートは世界中に出荷され、人気を集めている。工場はスパイを防ぐため、15年前に従業員をやめさせたが、なぜか今も生産は続いており、工場の中がどうなっているのか、人々は興味津々。ある日、ウォンカが子ども5人を工場に招待すると発表する。その招待券はチョコに入った黄金のチケット。チャーリーが誕生日にもらったチョコには黄金のチケットはなかった。祖父のなけなしのへそくりで買ったチョコにもチケットはなかったが、チャーリーは道ばたで拾った10ドル札で買ったチョコでチケットを手に入れる。

 家族思いのチャーリーは、500ドルで買いたいという人がいるので家の暮らしのためにもチケットを売る、という(これは原作にはない)。それに対する祖父のセリフがいい。「お金は印刷されてたくさん出回っている。そのチケットは5枚しかない。それをお金に換えるほどお前はトンマか」。チョコレート工場に招待された5人の子どものうち、チャーリーを除く4人はいずれもいけ好かないガキ。高慢ちきな少女であったり、わがまま娘だったり、ガツガツしたデブの少年だったり、知能は高いが人をバカにしたような少年であったりする。その4人は予想通りの仕打ちを受けることになる。

 工場内部の描写がおかしくていい。チョコを作っている多数のウンパ・ルンパ族やリスたちの場面には大笑い。特にリス。リスたちはクルミの選別を手伝っており、中身のないクルミは捨てている。リスを捕まえようとした少女の頭をコンコンとたたいて、哀れ、少女は不良品と判断されてしまうのだ。こういうキャラクター、どこかで見たなあと思うのだが、なかなか思い出せないのがもどかしい。アメリカのアニメに時々出てくるようなギャグではある。

 ブラックな味わいはあっても、最終的には心温まる話に着地する。それがバートンらしくないというのはもう間違いで、バートンの興味はそういう部分に移ってきているのだろう。気になったのはチャーリーが拾ったお金でチケットを手に入れること。これは何か後を引くのではないかと思ったが、そういう部分はなかった。子どもは「『マダガスカル』の方が面白かった」との感想。そんなはずはないんだがなあ。字幕を読むのに精いっぱいだったのか。

2005/09/22(木)「シンデレラマン」

 「シンデレラマン」パンフレット同じくラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」(2001年)を見た時に、ロン・ハワードはかつてのハリウッド映画の美点をとても大切にしていると感じたが、この映画でもその印象は変わらない。家族の生活のために再起するボクサーの姿を真摯に描き、伝統的なハリウッド映画のど真ん中に位置する作品だと思う。ミステリ的な仕掛けのあった「ビューティフル・マインド」よりも話がストレートなので、主人公への感情移入もしやすい。脚本と撮影と演出と俳優たちの演技のレベルが高く、どれにも文句を付けようがない。微妙にケチを付けるとすれば、作品が正直で優等生すぎるところだろうが、ハワードは元々そういう作品を目指しているのだから意味がないだろう。娯楽映画の王道と言える物語と手法で映画を作り、期待を裏切らない作品に仕上げたハワードの手腕には感心せざるを得ない。

 主人公は1930年代に奇跡のカムバックを果たした実在のボクサー、ジェームズ・J・ブラドック。映画は1928年、絶頂期のブラドックの裕福な生活を描いた後、シーンをそのままオーバーラップして1933年、薄汚いアパートで貧困にあえぐブラドック一家の姿を映し出す。右手の甲を骨折したブラドックは試合でも勝てないが、けがを癒やす暇もなく、金を稼ぐために戦い続けねばならない。昼間は日雇いの過酷な仕事をするが、大恐慌の時代、仕事にありつけないこともしばしばだ。しかも、不甲斐ない試合を見たプロモーターの怒りを買い、ブラドックはライセンスを剥奪されてしまう。アパートの電気は止められ、子どもは病気になる。ブラドックは緊急救済局で金をもらうが、それでも足りず、ボクシング委員会へ行って、援助を求めることになる。そんなブラドックに大きな試合のチャンスが訪れる。かつてのマネージャー、ジョー(ポール・ジアマッティ)が世界ランク2位の選手との試合の話を持ってきたのだ。報酬は250ドル。ブラドックはマジソン・スクエア・ガーデンに別れを告げるつもりで試合に臨む。

 記者に何のために戦うのかと聞かれてブラドックは「ミルク」と答える。大恐慌で財産をなくしたブラドックは妻のメイ(レニー・ゼルウィガー)と3人の子どものために、金を得るために戦う。何よりも主人公は全力で貧しさと闘っているのだ。前半の貧しさの描写は「たそがれ清兵衛」にはかなわないのだけれど、ミルクに水を入れて薄めたり、電気を止められて暖房のない部屋で子どもが病気になったり、肉屋のソーセージを盗んだ子どもに対して「絶対におまえをよそにはやらない」と約束するシーンなどにホロリとさせられてしまう。細部の描写が大変優れた映画で、それが全体のレベルを底上げしている。予告編を見れば、映画の大まかなストーリーは分かってしまうのだが、それでもなお、観客に感動を与える映画になっているのはそうした描写のうまさがあるからだろう。

 ハワードには大恐慌の時代を描く狙いもあったようで、セントラルパークにフーバー・ヴィルと呼ばれる村ができ、暴動が起きる場面なども描かれる(「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」でやはり貧しさと闘ったパディ・コンシダインが労働組合の結成を目指す労働者の役で登場する)。時代の描き方は同じく大恐慌を背景にした昨年の「シービスケット」よりもうまい。時代と物語が密接な関係にあるのである。

 ラッセル・クロウはボクサーらしい精悍な体を作って、理想的な父親役を好演している。ゼルウィガーも相変わらずいいが、もっと目を惹くのはポール・ジアマッティ。一見、裕福なマネージャーが実は、という場面などで奥行きの深いキャラクターを作っている。パンフレットによると、主要キャスト、スタッフの中でオスカーを手にしていないのはジアマッティだけだそうで、クロウはジアマッティの「オスカー受賞キャンペーンに集中したい」と語っている。助演男優賞へのノミネートは堅いのではないか。

2005/08/26(金)「マダガスカル」

 「マダガスカル」パンフレットドリームワークスの3DCGアニメ。セントラルパークの動物園にいるシマウマ、ライオン、カバ、キリンの4頭がアフリカに送り返される途中、ひょんなことからマダガスカル島に流れ着き、大自然の魅力を知るという物語である。「シュレック」などとは違って明らかに子ども向けだが、「猿の惑星」や「アメリカン・ビューティー」「炎のランナー」など映画のパロディが所々にある。子どもにはたぶん分からないパロディだから、一緒に見に行った親を退屈させない工夫なのかもしれないが、どれもパロディにする必然性には乏しい。そういうことをするぐらいなら、もう少し話の密度を濃くしてはどうか。野生に帰って狩りに目覚めたライオンの扱いをどうするのかと見ていたら、極めて平凡な結論に落ち着かせている。こういうところを見ると、話を作る努力をほどほどにしてパロディに逃げているとしか思えないのである。とりあえず、きちんとまとまった映画だし、3DCGの技術も水準をクリアしているけれど、こういう製作姿勢で傑作を生むことは難しいだろう。

 ニューヨーク、セントラルパークの動物園。シマウマのマーティはペンギンたちが動物園を脱走するのを見て、外の世界に興味を持つ。動物園の生活は安楽で悪くなかったが、人生の半分を動物園で過ごして外に出てみたくなったのだ。マーティはある夜、こっそり、動物園を抜け出してしまう。それに気づいた親友でライオンのアレックス、カバのグロリア、キリンのメルマはあとを追う。グランド・セントラル駅で4頭は人間に捕まるが、動物愛護団体の抗議によってアフリカに送り返されることになる。ところが、乗せられた船にはペンギンたちが潜んでいた。ペンギンは船を乗っ取り、南極に向かおうとする。4頭が詰められた木箱はこの騒動で海に放り出される。漂着したのはマダガスカル島。マーティは自然を満喫するが、残りの3頭は動物園に帰りたくてたまらない。しかし、出会ったキツネザルたちによって自然の魅力を教えられていく。同時にアレックスは肉食の本能、狩りの本能にも目覚め、マーティたちがえさに見えるようになってしまう。

 動物園にいる時はピシッと整えられていたアレックスのたてがみが次第にボサボサになっていく。それは野生の本能を取り戻す過程を表してもいる。ディズニーの「ライオン・キング」ではライオンに虫を食べさせていた。この映画でも同じような趣向である。動物園の生活が動物にとって良いわけではないだろうが、かといって野生に完全に返ると、シマウマとの友情などは成立しなくなる。野生に返るというテーマを描くには、この設定に元々無理があるのである。ユーモアにくるめて楽しく見られる映画にすればいいというぐらいの考えなのだろう。だから内容の薄い映画にしかならないわけだ。動物が擬人化されすぎているのも気になった。

 声の出演はライオンがベン・スティラー、シマウマがクリス・ロック、キリンがデヴィッド・シュウィンマー、カバがジェイダ・ピンケット・スミスというキャスティング。日本語吹き替え版ではそれぞれ玉木宏、柳沢慎吾、岡田義徳、高島礼子となっており、不自然な部分はなかった。

2005/08/25(木)「オープン・ウォーター」

 「オープン・ウォーター」パンフレットスキューバ・ダイビングに来た男女が海の真ん中に取り残されるサスペンス。1998年、オーストラリアのグレート・バリア・リーフで起きた実際の事件を元にしている。取り残された男女は最初は助け合い、慰め合うが、そのうちにひどい状況に置かれたことに怒りを覚え、相手の責任とののしり合う。さらに周囲にはサメの群れが来て絶望的な状況に陥る。果たして2人は助かるのか。

 設定は事実に基づいていても、内容はフィクション。どうやって助かるのか、生き残るためにどうするのかという興味で見ていくと、ラストで肩すかしを食う。インディペンデントの映画で、予算は50万ドル以下。デジタルビデオカメラで撮影し、上映時間79分。CGは使わず、撒き餌をして本物のサメを引き寄せて撮影したそうだ。まずメジャーでは許されない撮影方法だろう。サンダンス映画祭で評判を取り、全米公開された話題作だが、怖いシチュエーションのみ優れているという印象を持った。低予算映画でもまずまず面白い作品は作れるという好例ではあるが、話の展開にもう一工夫欲しかったと思う。シチュエーションを超えるアイデアがないのである。

 パンフレットによると、実際の事件では2人がいなくなったことが分かったのは2日後という。捜索しても死体は発見されず、遺留品のみ見つかった。事件から半年後、「だれか助けて」と書かれたスレートが漁船によって発見された。映画はこの題材を元にしていても、スレートに文字を書く場面などはないし、設定だけを借りて自由に創作されている。監督のクリス・ケンティスの興味は極限状況に置かれた男女の心理を描くことにあったという。クラゲやバラクーダー、サメに襲われ、何時間も水中にいることで体は冷えてくる。脱水症状も起こる。想像したくもないシチュエーションの中で人はどうなるのか。映画はそういう描写については健闘している。ケンティスは「ジョーズ」の中でロバート・ショーが語った軍艦インディアナポリスの乗組員についてもリサーチして話を組み立てていったという。けれども、まだまだ物足りない。話の動かしようがないシチュエーションなのは分かるが、2人の背景を含めて描いていけば、もっと映画的にもっと面白くできたのではないか。どうせなら、事実に迫る姿勢が欲しかったと思う。事実の方が面白そうなのだ。設定を借りただけというのなら、明確にフィクションとして発展させていった方が良かっただろう。

 それができなかったのは低予算のためもあったかもしれない。デジタルビデオカメラの映像は粒子が粗く、序盤では特に気になった。こういう映像ならば、素人でも撮れるなという感じなのである(監督も言っているが、デジタルビデオカメラならば、自宅のパソコンでも編集できる)。ただ、やはり本物の役者を使っているのは強みで、主演のブランチャード・ライアンとダニエル・トラヴィスはなかなか好演している。特にブランチャード、序盤にほとんど観客サービスだけが目的としか思えないヌードシーンがある。そういうシーンを入れているのを見ると、ケンティス監督、けっこう計算高い商業主義の監督ではないかと思えてくる。