2003/12/02(火)「フォーン・ブース」

 ニューヨークの8番街にたった一つ残った電話ボックスを舞台に繰り広げるサスペンス。実験映画的で不条理劇的な色彩もあるが、ジョエル・シューマカー監督はきっちりと娯楽映画に仕立てた。上映時間1時間21分。無駄な描写を入れて長くしなかったのは潔い。というか、パンフレットには書いてないが、元々は1996年に学生が作った短編映画(End of the Line=ポール・ホー監督、14分40秒)で、それをラリー・コーエンが徹底的に書き直したそうだ。ということは劇場映画にするために精いっぱい長くした結果が1時間21分なのだろう。出ずっぱりのコリン・ファレルの好演に支えられており、ファレルは容貌も似ているが、ブラッド・ピット同様の演技派でもあるということをこれで納得させた。

 主人公のスチュ・シェパード(コリン・ファレル)は携帯電話を片手に仕事をこなす宣伝マン。傲慢な男で妻(ラダ・ミッチェル)はいるが、独身と偽って女優を目指すパム(ケイティ・ホームズ)をものにできないかと考えている。そのパムと話すのに携帯は使わず、いつも8番街の電話ボックスを使っていた。パムに電話中になぜかピザが配達されてくる。身に覚えのないことに怒ったスチュは横柄な態度でピザ屋を追い返す。電話ボックスを離れようとすると、電話が鳴り、とっさにスチュは電話を取ってしまう。電話の主はパムとの関係を非難し、妻に告白しろと脅迫する。相手はライフルで狙っているらしい。スチュの長電話に怒ったフッカーたちが騒ぎ出し、そのポン引きがスチュを襲いかかったところで脅迫者に撃たれる。フッカーたちはスチュが撃ったと騒ぎ立て、警察も多数やってきてあたりは騒然となるが、スチュは事情説明を脅迫者に禁じられ、電話ボックスからも離れられない。そこに妻とパムもやってくる。脅迫者は妻かパムのどちらを殺すか選べと選択を迫る。

 基になった「End of the Line」は本当に短い一幕の話で、パラノイアに捕まった男のサスペンスを描いている。電話を切れば殺されるというシチュエーションはほぼ同じだが、これを見ると、ラリー・コーエンの脚本はよく考えられていることが分かる。サスペンスと同時に傲慢な男が変わっていく過程も描いており、クライマックス、妻に謝り、心からの思いを訴えるスチュの姿などは感動的である。犯人の処理もうまい。唯一の不満を言わせてもらえば、脅迫者がスチュを狙った理由が倫理だけでは弱いことか。これは不条理なまま終わらせても良かったのではないか。まあ、そうすると、マイナーな映画になってしまうのかもしれない。

 ニューヨークの電話事情をさらりと説明して始めるシューマカーの演出はスピーディーで的確。この人は職人的な監督なので、脚本が良いと映画の出来もグンと良くなる。

2003/11/30(日)「ファインディング・ニモ」

 「トイ・ストーリー」「バグズ・ライフ」「モンスターズ・インク」でおなじみのピクサーの3DCGアニメ。本編が始まる前に「Knick Knack」という短編が流れる。スノウボールの中の雪だるまがなんとか外に出ようとする話。他愛ないが面白い。

 本編の方はオーストラリアのグレートバリアリーフに住むカクレクマノミのマーリンが主人公。おもちゃ、アリ、お化けと来て今回は海の中の魚たちの様子がCGで表現される。CGの技術は1作ごとに進歩しているようで、水の表現やスピーディーな魚たちの動きに感心させられる。しかし、ピクサーアニメの良さはストーリーとキャラクターの造型に凝っていることだ。ニモの生まれつきの障害(胸びれが少し小さい)やマーリンの臆病さ(慎重さ)をはじめ、他の魚たちもそれぞれに深いキャラクターばかりである。話の展開にも少しも無理がない。水槽に入れられたニモをどう助けるかが見どころになるが、その救出(脱出)方法もなるほどよく考えてある。笑って笑って手に汗握って最後は親子の絆にホロリとさせる上質のファミリー映画と思う。

 マーリンは400個の卵が間もなくふ化するという時、凶暴なバラクーダに襲われ、卵1個を残して愛する妻も失ってしまう。残った卵に妻が提案していたニモと名付け、マーリンは「絶対にこの子を守ってみせる」と誓う、というオープニングからうまい。マーリンがその反動で過保護な父親になるというのが納得できる展開なのである。ニモは成長し、小学校に行くことになるが、付いてきた心配性の父親への反発もあって、船に近づき、人間にさらわれてしまう。船が落とした水中眼鏡にあった住所を手がかりにマーリンはニモの行方を探し求める。それを助けるのがナンヨウハギのドリー。物忘れが激しいのが難点だが、ドリーは人間の文字を読めて、気のいい女。サメに襲われたり、深海魚の攻撃をかわしたりしながらマーリンとドリーは旅を続ける。

 マーリンは旅の苦難を通じて、過度の心配性を克服していく。ニモが入れられた水槽の中では他の魚たちと一緒に脱出計画が展開され、体の小さなニモが活躍する。これにタイムリミットを設定しているのは「トイ・ストーリー」などと同様の趣向で、早く脱出しないと、乱暴な子供ダーラにもらわれてしまうのである。細かいギャグを散りばめながら、本筋が真っ当に作ってあるので映画の完成度も高くなるわけだ。

 僕が見たのは日本語吹き替え版。ウィレム・デフォーやジェフリー・ラッシュもいる英語版の声優も豪華だが、日本語版ではマーリンを木梨憲武、ドリーを室井滋が担当している。特に室井滋が絶妙のうまさ。あわてん坊で早口のドリーにぴったりな感じだった。

2003/11/23(日)「ラスト・サムライ」

 サムライを少数民族のように描くこの映画の設定はどう考えても間違っている。すなわち、サムライたちは明示維新以降の近代化にそろって反対し、天皇に対して反乱を起こすのだ。サムライたちを鎮めるためにネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)は政府軍に西洋式の戦術を教えるよう依頼され、日本に来ることになる。サムライをまるでアメリカ先住民のように描く基本設定は激しく間違っているのだが、恐ろしいことに監督のエドワード・ズウイックはここから説得力のあるドラマを描き出してみせる。

 基本設定などどうでもよく、ハリウッドがこれまでにいくつもの映画で描いてきたような弱者に与する白人男性のストーリーに転化してしまうのだ。官軍も賊軍もなく、サムライたちを一緒くたにして一族のように描き、その精神と生き方を賞賛するこの映画の強引な手腕には逆に感心する。基底にあるのは西洋式の物質文明一辺倒になることの否定であり、伝統的な精神を重んじる訴えである。

 最初にタイトルを聞いた時、「ラスト・オブ・モヒカン」のような映画なのではないかと思ったが、その通りの展開だった。急いで付け加えておくと、これは日本を舞台にした映画でよくある誤解だらけで失笑を買うような映画にはなっていない(「キル・ビル」よりは相当ましである)。殺陣も見事に決めるトム・クルーズもいいが、サムライたちのリーダー勝元役の渡辺謙、その右腕・氏家役の真田広之、勝元の妹たか役の小雪など日本の俳優たちが頑張っている。特に渡辺、真田の2人は日本の描写におかしな部分がないように監督にも意見したという。渡辺謙はハリウッド映画に登場する日本人としては極めてカッコイイ役である。

 主人公の設定もいい。オールグレンは報復名目で行われたアメリカ先住民の虐殺に関わったことを後悔している男で、殊勲を挙げた大尉とはいっても酒浸りの毎日である。それが日本の政府軍に加わって戦い、サムライたちの捕虜になり、武士道を理解することによって再生していく。先住民を虐殺した男が逆の立場に立って名誉と誇りを取り戻すというわけだ。話に普遍性があるのはこの主人公の設定と、弱者に味方する正義があるからだ。この映画で描かれたことは他の少数民族に置き換えても通用する話なのである(映画の最初の方にある日本の風景はほとんど西部劇のようだ)。ズウイック監督の描写の仕方、話の語り方も極めて映画的である。

 ただし、そうは言っても、誤解に満ちた基本設定がある以上、傑作と言うわけにもいかない。クライマックスのスケールの大きな戦闘シーンは見応えはあるものの、撮り方としては取り立てて優れているとは言えないし、2時間34分の上映時間も少し長く感じる。大作だから仕方ない面もあるが、もう少し刈り込んでも良かったのではないか。

 英語力を買われての起用がどうかは知らないが、監督の原田真人がサムライを制圧する政府側の悪役を演じていてなかなかうまい。もう少し憎々しい感じを出すともっと良かったと思う。

2003/11/17(月)「人生は、時々晴れ」

 「秘密と嘘」のマイク・リー監督作品。今回も家族の再生の話である。登場するのは同じ集合住宅に住む3家族。このうちタクシー運転手フィル(ティモシー・スポール)の家族が中心になる。フィルは妻ベニー(レスリー・マンヴィル)、娘レイチェル(アリソン・ガーランド)、息子ローリー(ジェームズ・コーデン)の4人家族。妻以外は3人とも太っている。食卓では気の入らない会話が細々とあるだけ。4人それぞれに苦悩を抱え、家族とはいっても心はバラバラだ。

 映画は前半、この家族の崩壊寸前の様子を執拗に描く。フィルは仕事はぐうたらで、稼ぎも少ない。ベニーはスーパーのレジで黙々と働く。レイチェルは老人ホームの掃除婦で恋人もいない。ローリーは仕事にも就かず、ぶらぶらしている。生活はカツカツで、何をやってもうまくいかない焦りと苛立ちと諦めがこの家族には充満している。そんな時、ローリーが心臓発作に倒れる。ちょうどそのころ、フィルは携帯電話も無線も切って、海を見に行っていた。夫に連絡がつかなかったことに腹を立てるベニーにフィルは「何もかもが嫌になった」と話す。

 ここからのフィルとベニーの会話が全編のハイライト。「カス呼ばわりされることに耐えられなかった」と言うフィルにベニーは「カス呼ばわりなんてしていない」と否定する。しかし、夫婦の会話を聞いていたレイチェルは母親にそうしていたと指摘する。涙を流しながら夫婦は本音を語り合い、お互いを理解し、恐らく数年ぶりにキスを交わすことになる。

 撮影前に脚本を作らないのがマイク・リーの流儀で、他の2家族の苦悩が置き去りにされているところなどにその欠点は垣間見えるのだが、フィルの家族の話に限っては、現場で脚本を作っていたとは思えないほど充実した会話と議論と描写がある。セリフの一つひとつが重たく、描写も深刻だが、細部には人間を徹底的に描くことによるほのかなユーモアもにじみ出る。マイク・リーはうまいな、と思う。映画の技術を超えて、人間を真摯に見つめる視線がこういう中身の濃い映画を生み出すことにつながっているのだろう。

 フィルの家庭ほど極端ではないにしても、ここで描かれたことは多かれ少なかれ、どこの家庭にも当てはまることがあるだろう。「秘密と嘘」ほどの出来ではないし、話の行く末も見えているのだが、その描写の充実ぶりは大いに評価できる。

2003/11/07(金)「アダプテーション」

 チャーリー・カウフマン脚本、スパイク・ジョーンズ監督の「マルコヴィッチの穴」コンビの新作。スーザン・オーリアンの「蘭に魅せられた男 驚くべき蘭コレクターの世界」をカウフマンが脚色した。と、普通になるわけはなく、この原作の脚色(アダプテーション)の様子を取り入れたメタフィクションである。主人公のカウフマンをニコラス・ケイジが演じる。デブで禿げという設定だが、実際のカウフマンはそうではないようだ。

 脚本家の苦悩を普通に描けばジュンブンガクになってしまうが、不眠症になったり、女友達とうまくいかなかったり、対照的な双子の弟のドナルド・カウフマン(ニコラス・ケイジ二役)のサスペンス映画の脚本が先に売れたりする様子を面白おかしく描いていく。ラスト近くはサスペンス調になるのが、娯楽映画らしくて良い。

 現実のように見せかけたフィクションと本の中の話が交錯する物語は小説ではそれほど珍しくはない。映画では少ないだろうが、「マルコヴィッチの穴」ほど斬新なアイデアとは言えず、ケイジのほか、クリス・クーパー(アカデミー助演男優賞)、メリル・ストリープ(同助演女優賞ノミネート)の演技に助けられた部分が大きいと思う。

 今回はSF的なアイデアの発展がないのが残念なところ。双子の弟が実はカウフマンの妄想であったとか、そんな展開になると面白かったと思う。多重人格に絡むセリフがあるので、そういう展開もカウフマンは考えたのではないか。ニコラス・ケイジは主演男優賞にノミネートされて結局、取れなかったが、儲け役のクリス・クーパーよりも二役を明確に演じ分けてうまい。