2000/04/26(水)「バイ・センテニアルマン」

 邦題「アンドリューNDR114」という訳の分からないタイトルが付いたこの映画の原題、どこかで聞いたと思ったら、アイザック・アシモフ原作のロボットシリーズの一編だった。SFマガジンに分載されたのをリアルタイムで読んでいる。ざっと20年前だ。大学の図書館の地下にSFマガジンのバックナンバーが10年分あり、それを読むのが学生時代の暇つぶしの一つだった。ここにはキネマ旬報のバックナンバーもあり、「日本映画縦断」(竹中労が書いたルポルタージュ。もう忘れられているかもしれないが、今の映画ジャーナリズムとは比べものにならない傑作)もここで読んだのだった。

 僕は当時、アシモフに特別な思い入れはなかった。クラークが好きだったし、アシモフのタッチは好みに合わなかった。「はだかの太陽」を読むまでは…。アシモフのロボットシリーズは「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」と続く。これが後に「銀河帝国の興亡」のファウンデーションシリーズと融合する。ファウンデーションの続編は昨年だったか、別の著者(グレゴリー・ベンフォード?)が引き継いで書いたのが出版された。ロボットシリーズはSFミステリとも言われ、設定はSFでもストーリー展開はミステリだった。アシモフが「黒後家蜘蛛の会」シリーズなどでミステリにも造詣が深いのは有名な話だが、僕はそんなミステリに色目を使うアシモフをSF作家の風上にも置けないと思ったのだった。

 しかし、「はだかの太陽」でその認識は一変する。この小説のラスト1行にこめられた思いはアシモフが紛れもなくSFの人であることを強烈に印象づけた。なぜ人は宇宙を目指すのか、その回答がここにある。これに感動した僕はその後、アシモフの著書を読みあさることになった。クラークよりもアシモフの著書の方をたくさん読んでいるのはこのためだ。なにしろハヤカワ文庫の科学エッセイシリーズまで読みましたから。

 「バイ・センテニアルマン」(邦題は「2世紀の男」か「200年生きた男」か、そんな感じだった)はアシモフの著書の中で際だって傑作ではないが、なぜロボットが人間を目指すのか、「はだかの太陽」と同じ意味合いからアシモフの考え方がよく分かる中編である。