2002/10/22(火)「OUT」

 桐野夏生のベストセラーを「愛を乞うひと」の平山秀幸監督、鄭義信(チョン・ウィシン)脚本のコンビが映画化。原作は未読だが、脚本は重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したそうだ。その成果で、これは生活に疲れた中年女性が日常からOUTしていく様子を描いて見応えのある映画に仕上がった。原田美枝子と倍賞美津子が日常をどんどん踏み外していく様子はブラックなユーモアを交えて描かれ、だからといってリアルさも失わず、「テルマ&ルイーズ」を思わせる。優れた映画化だと思う。

 中盤、ヨシエ(倍賞美津子)が「知床のオーロラが見たい」と夢を語る場面がある。毎日10円ずつ貯金すれば、1年で3650円、10年で3万6500円になる。それぐらいあれば、ちょっとした旅行ぐらい行ける。しかし義母の介護を続けながら弁当工場で働くヨシエには暇も金もなく、それは単なる夢よ、と雅子(原田美枝子)に笑って話すのだ。ここは2人の女優の演技がバチバチと火花を散らす名場面。そして、雅子は終盤、その夢を引き継ぐようにオーロラを目指して北海道へ向かうのだ。

 もともとは夫から暴力を受け続けている弥生(西田尚美)が発作的に寝ている夫を殺してしまったことが発端。この場面、この映画にとってはそんなに重要じゃないよ、という感じでてきぱきと進む(DVなんかがテーマではないのだ)。弥生から泣きつかれた雅子は死体を預かり、捨てるために解体する羽目になる。1人での解体はとても無理で、“師匠”のヨシエに協力を頼む。この解体シーンは映画のポイントなので、描写もしっかりしているうえにおかしい。雅子は死体の首に包丁を押し込んだ瞬間、絶望的な日常から足を踏み外したのだ。死体の解体にはたまたま雅子に金を借りに来た邦子(室井滋)も巻き込み、こうしてそれぞれに不幸な女4人は共犯関係になってしまう。

 4人の女優それぞれにいいが、やはり原田美枝子と倍賞美津子が出色。特に原田美枝子はこれが代表作になるのではと思える。消費者金融の十文字(香川照之、相変わらずうまい)から口説かれて、まんざらでもない様子をうかがわせる場面(家に帰ってペティキュアを塗る)もいいが、十文字が福岡へ向かうバスの中からかけた別れの電話に「キスぐらいしておけばよかったわね」と答える場面とか、中年女性の貫禄という感じである。

 惜しいのはブラックユーモアが先走りしすぎた場面があることで、原作ではどうなっているのか知らないが、死体解体の腕を見込まれてビジネスにするあたりがちょっと浮き足立ってしまった(「年寄りは脂肪が少ないから楽ね」という倍賞美津子のセリフがおかしい)。しかし、平山秀幸の演出は夢に向かって進む原田美枝子に十分な説得力を持たせており、口をきかない息子とリストラされた夫を持つ中年主婦の息苦しさから解放されていく様子が映画の気持ちよさにつながっている。主人公の行く末は決して安楽なものではないのだが、希望を持たせたまま終わるラストはだから当然の処理といっていい。平山秀幸は「9デイズ」のジョエル・シュマッカーよりもユーモアとリアルの案配をよくわきまえていると思う。ユーモアは人柄からにじみ出るもので、必然的に人間を深く描く必要があるのだ。

 北海道からアラスカへと、オーロラへの夢を膨らませる雅子は、オーロラを見ても何も変わらないことを知っている。しかし何か目的を持つことが明日への力になること、退屈な日常から飛翔する手段になることを雅子は同時に知っているのである。その姿は「明日に向って撃て」のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを思い起こさせ、平山秀幸の世代を考えれば、これはきっとアメリカン・ニューシネマあたりをも意識しているのではないかと思えてくる。生活に疲れた中年女性は必見でしょう。

2002/10/11(金)「宣戦布告」

 グッドタイミングというか、バッドタイミングというか。映画会社にとっては社会的な話題が加わってヒットにつながるのなら、グッドタイミングだろう。明らかに北朝鮮がモデルの北東人民共和国の潜水艦が福井の海岸に座礁して乗組員11人が山中に逃げ込むというのが発端。乗組員は特殊工作員らしく警察の武器では歯が立たない。自衛隊の出動になるが、そこまでの法的手続きクリアに大きな困難が伴う。自衛隊が出動すれば、北は“宣戦布告”と見なす、と政府首脳の間では侃々諤々の論議となる。加えて射撃にも許可、手榴弾使用にも許可、ヘリのバルカン砲使用にも許可が必要で、許可を待っている間に警察官や自衛隊員はバタバタと敵の銃弾に倒れる。ただ、許可が必要なのは当たり前のこと。勝手に銃撃戦を始められたら、シビリアンコントロールの意味がなくなる。

 映画はクライマックスにアメリカ、中国、韓国、台湾など周辺国が次々に戦闘態勢に入り、一気に緊張が高まる様子を描く。宣戦布告もなく戦争が始まろうとしているのだ。しかし、この緊張感は長く続かず、そこからの描写がやや腰砕けになってしまう。前半から描写は荒っぽいし、全体としては「トータル・フィアーズ」の縮小版のような感じである。

 主人公は古谷一行演じる諸橋首相。これは政府の立場から有事の際の日本の弱さを描いた映画で、有事法制推進映画と受け取られてしまいかねない。(そんな主張もあるのかもしれない)。北の目的は最後まで分からない。仮想敵国としてだけ描くのでは「トータル・フィアーズ」よりも後退した作りである。周辺事態のシミュレーションならば、もっと緻密な組み立てが必要だっただろう。

 麻生幾の原作を石侍露堂(せじ・ろどう)監督が映画化。昨年のうちに完成していたという。監督はパンフレットに、(完成して間もなく起きた米同時テロによって)「時代遅れの映画が一夜にして『現代の映画』になったのです」と書いているが、それを言うなら、昨年暮れの不審船事件の方だろう。内閣調査室が北のスパイを追う過程を見せる(白島靖代の金で雇われた女スパイがよろしい)サブプロットは悪くない。エンタテインメント志向も買う。しかし、これぐらいのレベルで誉めてはいけないと思う。

2002/09/15(日)「美しい夏キリシマ」

 黒木和雄監督が故郷のえびの市で全編ロケした作品。1945年の8月を監督自身がモデルである15歳の少年の目を通して描く。根底にあるのは監督が学徒動員先の都城の工場で空襲を受け、友人を亡くした体験。黒木和雄は頭がざっくり割れた友人の姿を恐ろしく感じ、逃げてしまった。そのことによって約1年間ノイローゼ状態になったという。

 映画の主人公・康夫(柄本佑)はこれに加えて肺浸潤のため動員を免除されている設定だが、それが物語の中心にあるにしても、ここで描かれるのは終戦間近の日本の田舎町の風景である。

 高知の田舎町を舞台にした「祭りの準備」(1975年)や原爆投下1日前の長崎を取り上げた「TOMORROW 明日」(1988年)がそうであったように、映画は全編、方言で語られる。描かれるのは霧島山のふもとにある霧野村という架空の村での人々の営みであり、この2作と共通する部分の多い内容でもある。しかし、中島丈博が脚本を書いた「祭りの準備」や井上光晴原作の「TOMORROW 明日」よりも重要なのは、これが黒木和雄の体験に基づく自分のストーリーだからで、えびのを舞台にした映画の製作を要請されて当初は「Kirisima 1945」というタイトルで映画を撮ろうとした(戦時下を取り上げた)のは、ここで描かれたことが黒木和雄の原体験であるからにほかならないだろう。

 友人を亡くしたトラウマと権力への不信(兵隊への不信)の芽生えが主人公にもあり、主人公は終戦後、進駐してきた米兵に向かって竹槍で突進することになる。戦争中、神といわれた天皇への疑問を主人公が口にしたり、敗戦を嘆く兵士たちの中で「ケッ」という顔つきをしている一等兵の豊島(香川照之)などの描写を見ると、反戦と反権力をさりげなく散りばめた黒木和雄のスタンスがよく分かる。

 ただし、こちらの胸を打つのはそうした主人公の姿よりも普通の村の人々の姿である。主人公の裕福な家で働く女中のなつ(中島ひろ子)が家同士のつながりで結婚した相手・秀行(寺島進)は南方戦線で片足をなくしている。仕方なくといった感じで結婚したなつだったが、秀行から「ここでしばらく母の手伝いでもして、なつさんはもっと素晴らしい人と結婚すればいい」と言葉をかけられることになる。あるいはやはり南方戦線で夫を亡くしたイネ(石田えり)の一見弱いながらもたくましい生き方などもそうだろう。

 「美しい夏キリシマ」というタイトルは多分に郷愁を誘う内容を思わせるし、監督自身にもそうしたニュアンスがあったのかもしれないが、映画から受けるのは甘っちょろい郷愁よりも人々の切実な生き方に対する共感である。

 パンフレットに映画評論家の佐藤忠男が「これは日本映画史のうえで長く名作として語り継がれるべきすぐれた作品である」と書いている。僕は「祭りの準備」より完成度としては劣ると思う。これは題材が監督自身に近すぎたことが原因の一つだろう。複数のエピソードを収斂させていくべきラストが「祭りの準備」の旅立ちの場面より、ややインパクトに欠ける。ただ、今の邦画の平均的なレベルを軽く超えている作品とは思うし、未だに全国公開が決まらないことも疑問に思う。

 主人公を演じた柄本佑は柄本明の息子。監督はオーディションで「何を考えているか分からないところ」が気に入って起用したという。黒木和雄映画では常連の原田芳雄が主人公の祖父を演じて画面を引き締め、主人公と心を通わせる女中のはる役の小田エリカもいい。このほか左時枝や宮下順子、牧瀬里穂など特に女優陣の好演が光っている。

2002/09/06(金)「リターナー」

 傑作。山崎貴監督は「ジュブナイル」で感じた不満を一掃させるSFアクションに仕上げている。タイムトラベルとエイリアンの侵略と戦争をミックスしながら、ドラマの重点はあくまでも2002年現在の悪の組織との戦いに絞ったのが良い。「ジュブナイル」で正統派の清楚な美少女といった感じだった鈴木杏は今回、勝ち気で活発な少女を演じて良く、「後は頼んだぞ!相棒」と叫ぶ場面は主人公ミヤモト(金城武)の過去(「隠れてろ!相棒」)と重なることで、圧倒的な感動を呼ぶ。主人公にアクションが様になっている金城武を持ってきたのは懸命な選択で、前作での大きな不満は鈴木杏の相手役の少年たちの演技の拙さにあったのだから、金城武の起用がまず成功の要因だろう。

 何かの予告編か、と思えるようなタイトル前の慌ただしい未来の描写から、映画は2002年10月19日の現在に舞台を移す。船上。中国系の人身売買マフィアが子どもをコンテナに閉じこめている。泣き叫ぶ子どもに向かって、組織の幹部で金髪のミゾグチ(岸谷五朗)が銃を放ち、血しぶきが飛び散る。そこへ主人公のリターナー、ミヤモトが登場。ミヤモトは裏社会の取引から金を奪還する仕事をしている。ミゾグチを見たミヤモトはミゾグチが10数年前、友人をさらって内臓を売買した男であると知る。ミヤモトは大陸のマンホールで暮らしていたが、友人を殺された復讐を果たすため、ミゾグチを追って日本に来ていた。ミヤモトはミゾグチを追い詰めるが、突然現れた少女を撃ってしまい、ミゾグチを取り逃がす。

 薄汚い格好をした少女はミリと名乗り、ミヤモトの首に爆弾を仕掛けて無理矢理、自分の任務に協力させる。少女は2084年から来た、と話す。その時代、地球はエイリアンに侵略されて、人類はチベットの山奥で細々と抵抗を続けている。しかしそこにもエイリアンの手が伸びる。ミリはぎりぎりのことろで、2002年に逃れてきたのだった。ミヤモトはミリの話を信じないが、爆弾には逆らえず、渋々協力することになる。ミリの目的は地球にやってきた最初のエイリアンを抹殺し、未来を変えることだった。

 今回もまた監督、脚本、VFXを担当した山崎貴はSFをよく分かっているな、と思う。設定にも展開にも不備な点は見当たらず、安心して見ていられる(ミリが未来から持ってきた“ソニック・ムーバー”という武器は「サイボーグ009」の加速装置がヒントか)。鈴木杏と金城武のコンビもおかしくて切なくて、いい味を出している。「マトリックス」のように銃弾の軌跡を避けるシーンがあったり、エイリアンの造型が「エイリアン」に似ていたり、未来社会の戦争が「ターミネーター」を思わせたりするのだが、そんなことがまったく気にならないほど映画は充実している。VFXの充実もいいが、役者の演技とドラマの展開がひたすら良く、鈴木、金城コンビでぜひぜひ第2作を作ってほしいと思う。

2002/08/23(金)「ピンポン」

 期待値よりはやや低かったが、良い出来だと思う。主演の窪塚洋介をはじめ、中村獅童、ARATA、サム・リー、大倉孝二、夏木マリ、竹中直人らいずれもキャラクターが立っている。スポ根ものとして先が読める展開なのだが、それでも面白く見れるのはキャラクターが際だっているからだろう。努力しても努力しても凡人は天才には負けるという厳しい現実と、天才ですらもただ才能だけでは一等賞にはなれないという当たり前の真実をさわやかに描いて大変気持ちがよい。曽利文彦監督、上々のデビュー作だと思う。

 ペコ(窪塚洋介)の天才ぶりをもっともっと描くとさらに良かったと思うが、これは監督の計算なのかもしれない。ペコに対して実力を出さない(出せない)スマイル(ARATA)の本当の力をチャイナ(サム・リー)やドラゴン(中村獅童)や小泉コーチ(竹中直人)は見抜く。スマイルが力に目覚め始める前半のまま進めば、これはスマイルが主人公であってもおかしくない話だった。あるいは中国で落ちこぼれて日本にやってきたチャイナが主人公でもいいし、勝ち続けることを自分に課したたために卓球の楽しさを忘れてしまったドラゴンでも良かった。さらに限りなくどこまで行っても凡人にしかすぎないアクマ(大倉孝二)が主人公であれば、これはまた違った映画になったはずだ。スマイルに簡単に負けてしまい、「なんでお前なんだよー!」と叫ぶアクマの心情は天才モーツァルトに嫉妬した凡人サリエリの心情と同じものだろう。

 曽利監督は、あるいは原作の松本大洋はペコを描くのと同じぐらいの比重をかけて、これらの脇の人物たちを描いていく。誰もが自分の人生では主人公。しかし、公の場でも主人公たり得ることが非常に稀であることもまた普遍的な真実だ。大方のスポ根物語が描くような落ちこぼれが勝っていく快感とは別次元のところでこの物語は成立しており、それにもかかわらず、脇の人物たちが強い印象を残す。天才がただ勝っていくだけの物語なら、面白い映画にはならなかっただろう。