2003/12/09(火)「バッドボーイズ 2バッド」
なんでこんな出来の悪い映画を2時間25分も見せられなければいけないのか。せめて1時間40分程度に収めてくれれば、映画の印象はもっと締まったものになったのだろうが、この内容で2時間25分はいくらなんでも長すぎる。
ストーリーは単純で、キューバの麻薬組織をマイアミ警察の黒人刑事コンビ(ウィル・スミスとマーティン・ローレンス)が追い詰めるアクション。何台もの車がクラッシュするカーチェイスなどアクションシーンは大がかりで、それなりに見せるが、何もエモーションを引きずらないので虚しいことこのうえない。破壊に次ぐ破壊、ただそれだけ。以前はよくあったな、こういうタイプの映画。すっかり滅んでしまったのかと思ったら、凡才監督マイケル・ベイが飽きもせずに繰り返してくれた。個人的には今年のワースト5にランクインする駄作と思う。
クライマックスはなぜか、刑事アクションから戦争アクション風になり、「ポリス・ストーリー」風(というか、ほとんどイタダキでしょう)の住宅破壊カーチェイスもある。カーチェイスだったら、「ターミネーター3」とか「マトリックス リローデッド」のように独自性が欲しい。
最も悪いのはマーティン・ローレンスのコメディ演技で、電機店で2人の会話が店のテレビすべてにモニターされたり、麻薬エクスタシーを飲んでフラフラになったりとかの本質からずれたエピソードはことごとく不要だろう。こういう部分を削って刑事アクションに徹していれば、まだ何とかなったのではないか。
8年前の前作(マイケル・ベイのデビュー作)は見ていないが、見ていなくても支障はない。ボーっと眺めていれば、分かる程度の話。脚本は「さよならゲーム」のロン・シェルトン。自分で監督するわけではないので手を抜いたのに違いない。
2003/12/05(金)「影踏み」
「半落ち」ほど綿密につながってはいないが、これも連作短編。主人公はノビ師。夜中に民家に忍び込んで物を盗む泥棒である。主人公の真壁修一は15年前の火事で双子の弟啓二と両親を亡くした。一流大学の法学部を出て、将来は弁護士にと期待されていた主人公はその事件がきっかけで法を捨て、ノビ師になった。双子の弟はその時から頭の中に住み着いている。
7つの短編が収録されていて、どれも完成度が高いが、クリスマスにプレゼントを届けるよう頼まれた約束を果たす「使徒」がオー・ヘンリーの短編を思わせていい話である。プレゼントを贈るよう頼まれた少女は目の前で父親が死に、叔父夫婦に預けられたが、納戸のような部屋を与えられ、冷たい仕打ちを受けている。5年前、父親が死んだときから続くクリスマスのプレゼントだけが心の支えなのである。主人公はそのプレゼントを届け、意外な依頼主が明らかになる。
帯にハードサスペンスとあるので、誤解を与えるが横山秀夫の本質は人情話。タッチはハードボイルドだが、ハードボイルドも本質は人情話だろう。具体的な描写をするか、外見描写だけにとどめるかの違いがあるにすぎない。
今夏に出た横山秀夫の初長編「クライマーズ・ハイ」はミステリーではないので、「このミス」などでは入らないかもしれないが、これまでの代表作と言える傑作だった。それに比べれば、見劣りはするものの、「影踏み」も買って損のない本だ。
2003/12/02(火)「フォーン・ブース」
ニューヨークの8番街にたった一つ残った電話ボックスを舞台に繰り広げるサスペンス。実験映画的で不条理劇的な色彩もあるが、ジョエル・シューマカー監督はきっちりと娯楽映画に仕立てた。上映時間1時間21分。無駄な描写を入れて長くしなかったのは潔い。というか、パンフレットには書いてないが、元々は1996年に学生が作った短編映画(End of the Line=ポール・ホー監督、14分40秒)で、それをラリー・コーエンが徹底的に書き直したそうだ。ということは劇場映画にするために精いっぱい長くした結果が1時間21分なのだろう。出ずっぱりのコリン・ファレルの好演に支えられており、ファレルは容貌も似ているが、ブラッド・ピット同様の演技派でもあるということをこれで納得させた。
主人公のスチュ・シェパード(コリン・ファレル)は携帯電話を片手に仕事をこなす宣伝マン。傲慢な男で妻(ラダ・ミッチェル)はいるが、独身と偽って女優を目指すパム(ケイティ・ホームズ)をものにできないかと考えている。そのパムと話すのに携帯は使わず、いつも8番街の電話ボックスを使っていた。パムに電話中になぜかピザが配達されてくる。身に覚えのないことに怒ったスチュは横柄な態度でピザ屋を追い返す。電話ボックスを離れようとすると、電話が鳴り、とっさにスチュは電話を取ってしまう。電話の主はパムとの関係を非難し、妻に告白しろと脅迫する。相手はライフルで狙っているらしい。スチュの長電話に怒ったフッカーたちが騒ぎ出し、そのポン引きがスチュを襲いかかったところで脅迫者に撃たれる。フッカーたちはスチュが撃ったと騒ぎ立て、警察も多数やってきてあたりは騒然となるが、スチュは事情説明を脅迫者に禁じられ、電話ボックスからも離れられない。そこに妻とパムもやってくる。脅迫者は妻かパムのどちらを殺すか選べと選択を迫る。
基になった「End of the Line」は本当に短い一幕の話で、パラノイアに捕まった男のサスペンスを描いている。電話を切れば殺されるというシチュエーションはほぼ同じだが、これを見ると、ラリー・コーエンの脚本はよく考えられていることが分かる。サスペンスと同時に傲慢な男が変わっていく過程も描いており、クライマックス、妻に謝り、心からの思いを訴えるスチュの姿などは感動的である。犯人の処理もうまい。唯一の不満を言わせてもらえば、脅迫者がスチュを狙った理由が倫理だけでは弱いことか。これは不条理なまま終わらせても良かったのではないか。まあ、そうすると、マイナーな映画になってしまうのかもしれない。
ニューヨークの電話事情をさらりと説明して始めるシューマカーの演出はスピーディーで的確。この人は職人的な監督なので、脚本が良いと映画の出来もグンと良くなる。
2003/11/30(日)「ファインディング・ニモ」
「トイ・ストーリー」「バグズ・ライフ」「モンスターズ・インク」でおなじみのピクサーの3DCGアニメ。本編が始まる前に「Knick Knack」という短編が流れる。スノウボールの中の雪だるまがなんとか外に出ようとする話。他愛ないが面白い。
本編の方はオーストラリアのグレートバリアリーフに住むカクレクマノミのマーリンが主人公。おもちゃ、アリ、お化けと来て今回は海の中の魚たちの様子がCGで表現される。CGの技術は1作ごとに進歩しているようで、水の表現やスピーディーな魚たちの動きに感心させられる。しかし、ピクサーアニメの良さはストーリーとキャラクターの造型に凝っていることだ。ニモの生まれつきの障害(胸びれが少し小さい)やマーリンの臆病さ(慎重さ)をはじめ、他の魚たちもそれぞれに深いキャラクターばかりである。話の展開にも少しも無理がない。水槽に入れられたニモをどう助けるかが見どころになるが、その救出(脱出)方法もなるほどよく考えてある。笑って笑って手に汗握って最後は親子の絆にホロリとさせる上質のファミリー映画と思う。
マーリンは400個の卵が間もなくふ化するという時、凶暴なバラクーダに襲われ、卵1個を残して愛する妻も失ってしまう。残った卵に妻が提案していたニモと名付け、マーリンは「絶対にこの子を守ってみせる」と誓う、というオープニングからうまい。マーリンがその反動で過保護な父親になるというのが納得できる展開なのである。ニモは成長し、小学校に行くことになるが、付いてきた心配性の父親への反発もあって、船に近づき、人間にさらわれてしまう。船が落とした水中眼鏡にあった住所を手がかりにマーリンはニモの行方を探し求める。それを助けるのがナンヨウハギのドリー。物忘れが激しいのが難点だが、ドリーは人間の文字を読めて、気のいい女。サメに襲われたり、深海魚の攻撃をかわしたりしながらマーリンとドリーは旅を続ける。
マーリンは旅の苦難を通じて、過度の心配性を克服していく。ニモが入れられた水槽の中では他の魚たちと一緒に脱出計画が展開され、体の小さなニモが活躍する。これにタイムリミットを設定しているのは「トイ・ストーリー」などと同様の趣向で、早く脱出しないと、乱暴な子供ダーラにもらわれてしまうのである。細かいギャグを散りばめながら、本筋が真っ当に作ってあるので映画の完成度も高くなるわけだ。
僕が見たのは日本語吹き替え版。ウィレム・デフォーやジェフリー・ラッシュもいる英語版の声優も豪華だが、日本語版ではマーリンを木梨憲武、ドリーを室井滋が担当している。特に室井滋が絶妙のうまさ。あわてん坊で早口のドリーにぴったりな感じだった。
2003/11/28(金)「阿修羅のごとく」
「人生は、時々晴れ」のマイク・リー監督が一直線に厳しい現実を見つめる手法であるなら、この映画はカリカチュアライズしたドラマの中に真実を込める。こちらの方が従来の映画の手法だろう。森田芳光監督は小手先の技術に走らずに手堅くまとめている。4姉妹のうち3女・滝子(深津絵里)の前半のエピソードのみ、相手役の中村獅童も含めて演技がオーバーすぎる感じだが、この部分は森田調を貫いたということか(中村獅童は「ピンポン」とはまったく異なるコミカルな面を見せておかしいけれど、僕は作りすぎの演技と思う。普通、ああいうタイプと結婚を考えるか?)。
クスクス笑わせるエピソードの中に重たいセリフがあってとても面白く見たが、次から次にもめ事が起こる作りはいかにも毎週クライマックスを用意しなくてはいけないテレビドラマが基になっているなという感じがする。エピソードの羅列に終わった観もあって、全体として深い味わいを出すまでには至っていない。難しいところだが、エピソードのどれかを端折って、もっとメリハリを付けた方が良かったと思う。どのエピソードも等価な感じなのである。
時代は昭和54年。老いた父(仲代達矢)に愛人がいることが分かる、というのが騒動の発端で、久しぶりに集まった4姉妹は母(八千草薫)の耳には入れないようにしようと話し合う。映画はここから4姉妹のさまざまな事情を描き出す。長女綱子(大竹しのぶ)は料亭の主人(坂東三津五郎)と不倫中。次女巻子(黒木瞳)の夫(小林薫)は会社の部下(木村佳乃)と浮気中。潔癖性の3女滝子(深津絵里)は父の浮気調査を頼んだ興信所の勝又(中村獅童)とつきあい始めたところ。奔放な4女咲子(深田恭子)は新進のプロボクサー陣内(RIKIYA)と同棲している。これに滝子と咲子の子供時代からの確執が絡み、父の浮気にまったく気づかない様子の母の描写があり、父とその愛人(紺野美沙子)の描写もあって映画はホントに盛り沢山である。
エピソードのほとんどが男女関係を描いているにもかかわらず、まったく生臭さを感じさせない作りもまた、基がテレビドラマであることを痛感させる。どろどろした部分を封じ込めて、あるいはチラリと覗かせるだけで、性を描くのはテクニックとしては高等なものだと思う。
冒頭の鏡開きのシーンから食事の場面がこれほど多い映画も珍しいが、ホームドラマなのだから当然か。向田邦子脚本のドラマではよく食事のシーンが出てきた。「寺内貫太郎一家」などは毎回、卓袱台をひっくり返すシーンがあったような印象がある。小津安二郎の映画を見れば分かるように、家族のドラマは冠婚葬祭のどれかに収斂させていくのが普通である。この映画も終盤に葬儀の場面があるので、ここで終わりかと思ったら、その後に咲子が万引をして店員から脅迫を受けるシーンが描かれる。
これは滝子との和解に至るエピソードなので、必要なのは分かるのだが、葬儀の場面にまとめた方がスッキリしただろう。
出演者はそれぞれにうまい。大竹しのぶと不倫相手の妻桃井かおりの対決などは火花が散るようだし、小林薫は相変わらず飄々としていておかしい。4姉妹の中では夫の浮気を疑いながらも、信じたくない妻の揺れ動く気持ちをうまく表現した黒木瞳が良かった。実質的な主人公であり、単にきれいなだけの女優ではないことをこれで示したと思う。黒木瞳の娘役の長澤まさみにはあまり出番がなく残念。
時代設定は今から25年前だが、もっと前の昭和30年代のような雰囲気がある。恐らく日本のホームドラマは昭和30年代の家族の姿に原型があるのだろう。