2003/11/28(金)「阿修羅のごとく」

 「人生は、時々晴れ」のマイク・リー監督が一直線に厳しい現実を見つめる手法であるなら、この映画はカリカチュアライズしたドラマの中に真実を込める。こちらの方が従来の映画の手法だろう。森田芳光監督は小手先の技術に走らずに手堅くまとめている。4姉妹のうち3女・滝子(深津絵里)の前半のエピソードのみ、相手役の中村獅童も含めて演技がオーバーすぎる感じだが、この部分は森田調を貫いたということか(中村獅童は「ピンポン」とはまったく異なるコミカルな面を見せておかしいけれど、僕は作りすぎの演技と思う。普通、ああいうタイプと結婚を考えるか?)。

 クスクス笑わせるエピソードの中に重たいセリフがあってとても面白く見たが、次から次にもめ事が起こる作りはいかにも毎週クライマックスを用意しなくてはいけないテレビドラマが基になっているなという感じがする。エピソードの羅列に終わった観もあって、全体として深い味わいを出すまでには至っていない。難しいところだが、エピソードのどれかを端折って、もっとメリハリを付けた方が良かったと思う。どのエピソードも等価な感じなのである。

 時代は昭和54年。老いた父(仲代達矢)に愛人がいることが分かる、というのが騒動の発端で、久しぶりに集まった4姉妹は母(八千草薫)の耳には入れないようにしようと話し合う。映画はここから4姉妹のさまざまな事情を描き出す。長女綱子(大竹しのぶ)は料亭の主人(坂東三津五郎)と不倫中。次女巻子(黒木瞳)の夫(小林薫)は会社の部下(木村佳乃)と浮気中。潔癖性の3女滝子(深津絵里)は父の浮気調査を頼んだ興信所の勝又(中村獅童)とつきあい始めたところ。奔放な4女咲子(深田恭子)は新進のプロボクサー陣内(RIKIYA)と同棲している。これに滝子と咲子の子供時代からの確執が絡み、父の浮気にまったく気づかない様子の母の描写があり、父とその愛人(紺野美沙子)の描写もあって映画はホントに盛り沢山である。

 エピソードのほとんどが男女関係を描いているにもかかわらず、まったく生臭さを感じさせない作りもまた、基がテレビドラマであることを痛感させる。どろどろした部分を封じ込めて、あるいはチラリと覗かせるだけで、性を描くのはテクニックとしては高等なものだと思う。

 冒頭の鏡開きのシーンから食事の場面がこれほど多い映画も珍しいが、ホームドラマなのだから当然か。向田邦子脚本のドラマではよく食事のシーンが出てきた。「寺内貫太郎一家」などは毎回、卓袱台をひっくり返すシーンがあったような印象がある。小津安二郎の映画を見れば分かるように、家族のドラマは冠婚葬祭のどれかに収斂させていくのが普通である。この映画も終盤に葬儀の場面があるので、ここで終わりかと思ったら、その後に咲子が万引をして店員から脅迫を受けるシーンが描かれる。

 これは滝子との和解に至るエピソードなので、必要なのは分かるのだが、葬儀の場面にまとめた方がスッキリしただろう。

 出演者はそれぞれにうまい。大竹しのぶと不倫相手の妻桃井かおりの対決などは火花が散るようだし、小林薫は相変わらず飄々としていておかしい。4姉妹の中では夫の浮気を疑いながらも、信じたくない妻の揺れ動く気持ちをうまく表現した黒木瞳が良かった。実質的な主人公であり、単にきれいなだけの女優ではないことをこれで示したと思う。黒木瞳の娘役の長澤まさみにはあまり出番がなく残念。

 時代設定は今から25年前だが、もっと前の昭和30年代のような雰囲気がある。恐らく日本のホームドラマは昭和30年代の家族の姿に原型があるのだろう。

2003/11/14(金)「g@me.」

 「ストックホルム症候群って聞いたことあるか。…じゃあ、吊り橋の恋って知っているか」。キスを迫る葛城樹理(仲間由紀恵)にたじたじとなって佐久間俊介(藤木直人)がこう話す。ストックホルム症候群とは言うまでもなく、人質と犯人(誘拐犯、立てこもり犯など)が長時間一緒にいるうちに親密な関係になることだ。

 この映画では、ふとしたことから狂言誘拐をする羽目になった男女がだんだん愛し合うようになる。このセリフの前に佐久間は病気の父親が自分を預かっている親戚に「すみません、すみません」と言いながら死んだ過去を話している。樹理もまた母親が亡くなったために母の愛人だった父親の家に居候している。樹理がキスを迫るのはどちらも同じような境遇にあり、共犯者意識が愛情に変わり、共感も加わってという単純なことでは実はないのだが、こういう背景をチラリと紹介してキャラクターに厚みを与えているのがうまいところで、この全編ゲームのような映画の中に一片の真実が立ち上がってくる。

 ストーリーが二転三転するという邦画では珍しく都会的なミステリで、それが必ずしもうまくいっていず、2時間ドラマ並みの描写に陥る部分があるにせよ、まず楽しめる作品に仕上がっている。仲間由紀恵の情感たっぷりの演技がとても良く、大女優になる素質ありと再確認した。

 佐久間は広告代理店のやり手のクリエイター。ミカドビールの新商品キャンペーンで30億円を投じるコンサートを企画したが、ミカドビール副社長・葛城(石橋凌)の反対でキャンペーンは潰される。その夜、怒りにまかせて葛城邸に行った佐久間は塀から女が飛び降りるのを見る。女は葛城の娘樹理だった。樹理の母親は葛城の愛人で、樹理は母親が死んだために葛城に引き取られていた。義理の母も妹も樹理とは仲が悪く、樹理は家を出たいと考えていた。樹理は佐久間に「私を誘拐しない」と持ちかける。狂言誘拐で身代金3億円を要求しようというのだ。佐久間は誘拐計画を練り、フリーメールで脅迫状を出す。計画はうまくいき、3億円は手に入ったが、2人はいつの間にか恋に落ちていた。

 ここから映画は二転三転していくが、基本にあるのは佐久間と樹理の関係である。「なぜ、一緒に逃げようって言ってくれないの」という樹理の願いに佐久間はこたえられない。若い男と駆け落ちした母親とみじめな父親を見て育った佐久間は、人生は勝つか負けるかのゲームだと考えており、誘拐計画を成功させるために私情を挟むわけにはいかないのだ。だから身代金を手に入れたら、樹理とは別れるしかない。という風な部分を映画は深くは描いていないが、そういう背景はあり、ここを描き込んだらもっと見応えのある映画になっていたのではないかと思う。ただ、観客を気持ちよく騙してくれて、ラブストーリーとしてもうまくまとめているところは評価できる。決着の付け方には異論もあるが、この映画の軽いタッチからすれば、まあ仕方ないだろう。

 原作は東野圭吾「ゲームの名は誘拐」。監督は昨年、キワモノ的な題材「ミスター・ルーキー」を手堅くまとめた井坂聡。傑作と言い切れないもどかしさがあるけれど、まったく期待していなかった分、面白く見た。

2003/10/13(月)「チルソクの夏」

 「陽はまた昇る」で手堅い演出を見せた佐々部清監督が故郷の下関を舞台に撮った第2作。1977年から78年にかけての、陸上に打ち込む下関の女子高生と釜山の男子高校生の淡い初恋の物語で、もう愚直なまでにオーソドックスな映画である。

 そしてこのオーソドックスさが力強い。今さら夕陽に向かって(実際は韓国に向かって)「バカヤロー」と叫んだり、恋する男の船を追って少女が全力で走る場面を撮って、それが冷笑を呼ばずにある種の感動を引き起こすのはオーソドックスな描写が本来的には強いからであり、もはやこうした描写は佐々部清の映画にしか存在しないのではないかと思える。描写を丹念に積み重ね、細部を豊かに綴る映画手法のオーソドックスさが今の邦画には抜け落ちているのである。

 この映画、現在をモノクロームで過去をカラーで撮るというチャン・イーモウ「初恋のきた道」の手法をそのまま取り入れている。しかし、内容的にはまったくオリジナリティーあふれるものであり、「背筋がぴんとした、凛とした女の子を描いてみたかった」という監督の狙いは十分すぎるほど達成されている。

 チーフ助監督を10年務めたという佐々部清のオーソドックスさはデビュー作の「陽はまた昇る」を見ても分かるが、オーソドックスさと同時に演歌体質が備わっているようだ。主人公の遠藤郁子(水谷妃里)と安大豪(淳評)が釜山で開かれた陸上競技会で出会い、1年後の再会を約束する序盤のシーンがやや生彩を欠くのはここが演歌ではないからだ。日本に帰った郁子の家族の描写が丹念に描かれ始めて、佐々部演出は絶好調になる。

 郁子の父親(山本譲二)は流しの歌手。ちょうどカラオケが普及し始めたころで、流しの歌手は相手にされないことも多くなっている。家は貧しく、郁子は新聞配達で家計を助けている。仕事がうまくいかずに苛立つ父親は郁子が韓国の男と文通していることに怒りをぶちまける。「外人でも、なんでもええけどのお、朝鮮人だけは許さんど」。父親はあるスナックでカラオケの機械を壊したために店の男たちから袋だたきにされ、流しには欠かせないギターも壊される。消沈した父親を見た郁子は質流れのギターを買い、プレゼントする。

 こういうエピソード、舞台が70年代だからこそ許せるのだと思う(考えてみれば、「陽はまた昇る」もまた、70年代の話だった)。郁子は安の母親から「息子に手紙を書くのは迷惑だ」との手紙と受け取り、陸上で大学に行くという夢もあきらめて練習に打ち込めなくなるが、そんな郁子に父親はポツリとこう言う。

 「お前、進学するんやろが。陸上の練習、一生懸命頑張らんと…つまらんやないか。うちには金なんか無いんど」。

 ダメな父親なりの励ましの言葉であり、郁子は安に再会するためではなく、自分のために陸上の練習を再開する。監督と同じく下関出身の山本譲二が素晴らしく良い。今年の助演男優賞候補の筆頭、という感じである。

 佐々部清はこういうどこか使い古された感じのあるエピソードを真正面から撮り、逆に情感を高めることに成功している。細部の説得力が映画の支えであり、主演の2人の演技の硬さはマイナスにはならず、2人の純情さを強く印象づける。水谷妃里は陸上の走り高跳びの選手に見えるスマートなスタイルが良く、吹き替えもあるだろうが、メイキング映像を見ると、実際に背面跳びをやっている。他の3人の女生徒(上野樹里、桂亜沙美、三村恭代)も陸上選手としておかしくない。思春期らしい性の息吹も含めて描かれるこの4人の交流は映画の魅力の一つである。

 70年代を彩るさまざまな歌謡曲も効果的に使われている。イルカの「なごり雪」、ピンクレディー「カルメン'77」、山口百恵「横須賀ストーリー」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、世良公則&ツイスト「あんたのバラード」などなど。中でもイルカの「なごり雪」は昨年の大林宣彦「なごり雪」の中で伊勢正三の歌が50男の感傷に満ちた響きを持って歌われたのに対して、少女の思いを伝えるものになっており、ハングルで歌う一番の歌詞は日本と韓国の近くて遠い当時の状況を描いた映画の背景とマッチしている。

 冒頭と最後に描かれる現在のエピソードは、ここだけに限れば、少し幻滅だった「初恋のきた道」のそれよりも良くできている。結末の処理が難しい話だが、ストップモーションで余韻を持って終わらせていることに監督のセンスを感じる。

 佐々部清はデビュー作を無難にこなした後、2作目でも確かな演出力を見せてくれた。こうなると、来年初頭に公開される第3作「半落ち」も楽しみになってくる。どうか、地に足の着いた描写のミステリに仕上げて欲しい。

2003/10/06(月)「陰陽師II」

 同じスタッフ、キャストで作った2年ぶりの続編。前作は野村萬斎のセリフ回しと存在感が強烈だった。映画の出来はそれほどでもなかったが、野村萬斎だけで満足できた。今回は逆である。いや、セリフ回しや横目でにらむ野村萬斎の存在感は今回も健在なのだが、クライマックスの踊りのシーンでがっかりさせられる。原作者で脚本にも加わっている夢枕獏はこの2作目について「萬斎さんにたっぷり踊ってもらいたい。それだけだったんです」とパンフレットで語っている。前作のクレジットで流れた野村萬斎の踊りが気に入ったのだという。僕は前作のクレジットの部分だけ何とかならないのかと思ったので、これとは正反対の意見である。

 そのクライマックスは天岩戸に隠れた(死んだ)日美子(深田恭子)を甦らせるために安倍晴明(野村萬斎)が女装して舞うというもの。天岩戸神話をなぞった展開なのだが、いくらなんでもアメノウズメの舞を女装した晴明にさせることはないだろう。巫女の姿をして紅を塗る晴明はちょっと勘弁してほしい。加えて、この踊りがどう影響して日美子が姿を現すのか、その理由が説明されない。ただ単に神話をなぞっただけである。今回は話自体が神話を基にしたものではあるけれど、神話そのものではないのだから、ここはちゃんとした説明が必要だろう。神話ではこうなるからこうなるのだではお話にならない。

 京の町では夜な夜な鬼が現れて貴族たちを襲い、その体の一部を食う事件が起こっていた。藤原安麻呂(伊武雅刀)の家で鬼封じの儀式に列席した源博雅(伊藤英明)は安麻呂の娘で男勝りの日美子(深田恭子)に目を奪われる。日美子は夜になると、夢遊病のようにさまよい歩くが、本人はそのことを憶えていない。鬼の事件に日美子がかかわっているのではないかと恐れた安麻呂は安倍晴明(野村萬斎)に調査を依頼する。鬼はこれまでに6人を犠牲にして、体の違う部分を食らっていた。晴明は封印されたヤマタノオロチの力を解き放つために何者かが天岩戸神話にかかわる子孫を襲っていることを突き止める。鬼の正体は博雅と最近知り合った少年・須佐(市原隼人)だった。須佐の腕には日美子と同じ謎の印があった。須佐は、不思議な力を持ち庶民から神と敬われている幻角(中井貴一)に操られていた。

 話としては悪くないが、映画を見ると、何だか簡単なものだなと思えてしまう。前作は第1作だけに色々な小さなエピソードが描かれたが、今回はこの話だけである。広がりがないのはそのためか。VFXは取り立てて優れているわけではないし、語り口も普通。要するに凡作なのである。

 個人的には安倍晴明はスーパーヒーローであってほしいと思う。しかし、夢枕獏も監督の滝田洋二郎も晴明をそうは描いていないし、描くつもりもなかったようだ。博雅の笛の音が今回も大きな役割を果たし、晴明の危機を助ける場面がある。前作でもちょっと不満だったクライマックスにVFXの炸裂がない。晴明の踊りはクライマックスを支えるだけの見せ場になっていない。敵の設定は考えてみると、かわいそうな被害者であり、凶悪な存在ではないから、何だか同情してしまう(これが一番の敗因かもしれない。凶悪で強力な敵がほしいところなのである)。と、不満ばかりが出てきてしまう。パッケージングは面白そうに思えるのに、物語の詰めが足りなかったようだ。

2003/09/19(金)「ロボコン」

 高専のロボットコンテストをテーマにした理数系の青春映画。「ウォーターボーイズ」などのスポ根映画のように落ちこぼれチームが勝っていく物語を古厩智之監督は淡々と端正に演出し、好感の持てる作品に仕上げた。クライマックスの全国大会は長回しで撮影しており、本当の大会のように思える出来。そこまでの物語を必要以上にドラマティックにせず、大会の場面で一気に盛り上げる演出はうまい。この大会の試合展開も出場するロボットのバラエティと内容の多彩さで面白い(手も足も出ないと思われた相手チームの「八の字積み」を攻略する手法に感心した)。しかし、一番の魅力は映画初主演の長澤まさみ。これまでの出演作(「クロスファイア」「なごり雪」「黄泉がえり」)ではほとんど印象がなかったが、何事にもやる気のなかった女の子が競技に燃える姿を素直にさわやかに好演しており、これでブレイクしそうな感じがある。

 映画で描かれるロボットコンテストは3つの台にラジコン操作のロボットで段ボールの箱を積む。これは昨年の大会で課題となった競技(「プロジェクトBOX」と言うらしい。NHKが絡んでいるからか?)。映画にも昨年の大会に出たロボットがいろいろ出てくる。

 主人公の葉沢里美(長澤まさみ)は山口の徳山高専の生徒。冒頭、保健室でぼけーっとベッドに横たわっている姿に象徴されるように、高専生活で何も目的がない。里見はロボット作りの課題でも手抜きをして担任教師(鈴木一真)から1カ月の居残り授業かロボット部への入部かを迫られる。入部させられたのは第2ロボット部。部員の多い第1ロボット部と違って、部員は部長の四谷(伊藤淳史)と設計担当の航一(小栗旬)、組み立て担当でほとんど幽霊部員の竹内(塚本高史)の3人だけである。練習試合では第1ロボット部にあえなく敗れ、馬鹿にされる始末。中国地区大会でも初戦敗退するが、ロボットのユニークさを評価されて全国大会に出場することになる。4人は旅館で働きながら合宿してロボットを改良。里美は俄然やる気を出し、他の3人も大会に向けて一丸となる。

 部員たちのキャラクターを徐々に鮮明にしていく演出は確かなもので、やる気がなかったり、内気だったり、いい加減だったり、ニヒルだったりしていた生徒たちが、競技を通じて変化していく姿を自然に見せる。4人の好演と相俟って、気持ちのいい展開である。特に木訥な感じをうまく表現した伊藤淳史に感心した。長澤まさみは笑顔が良く、合宿に行く途中のトラックの荷台で「夢先案内人」を歌うシーンや、4人でラーメンをすすりながら「ずっときょうが続けばいいのにね」とポツリと言うシーンなど良い感じである(そこを特に強調しない演出もいい)。役者ではこのほか、「ピンポン」でも独特のセリフ回しで笑わせた荒川良々(よしよし)が第1ロボット部の部長の役でまたまたおかしい。

 生徒たちをデフォルメしてコメディに徹した「ウォーターボーイズ」も僕は好きだが、古厩監督の淡々とした演出も悪くないと思う。ただ、淡々とした分、メリハリに欠ける面はあるし、1時間58分の上映時間も少し長い気がする。1時間40分程度にまとめると、もっと締まっただろう。