2003/10/13(月)「チルソクの夏」

 「陽はまた昇る」で手堅い演出を見せた佐々部清監督が故郷の下関を舞台に撮った第2作。1977年から78年にかけての、陸上に打ち込む下関の女子高生と釜山の男子高校生の淡い初恋の物語で、もう愚直なまでにオーソドックスな映画である。

 そしてこのオーソドックスさが力強い。今さら夕陽に向かって(実際は韓国に向かって)「バカヤロー」と叫んだり、恋する男の船を追って少女が全力で走る場面を撮って、それが冷笑を呼ばずにある種の感動を引き起こすのはオーソドックスな描写が本来的には強いからであり、もはやこうした描写は佐々部清の映画にしか存在しないのではないかと思える。描写を丹念に積み重ね、細部を豊かに綴る映画手法のオーソドックスさが今の邦画には抜け落ちているのである。

 この映画、現在をモノクロームで過去をカラーで撮るというチャン・イーモウ「初恋のきた道」の手法をそのまま取り入れている。しかし、内容的にはまったくオリジナリティーあふれるものであり、「背筋がぴんとした、凛とした女の子を描いてみたかった」という監督の狙いは十分すぎるほど達成されている。

 チーフ助監督を10年務めたという佐々部清のオーソドックスさはデビュー作の「陽はまた昇る」を見ても分かるが、オーソドックスさと同時に演歌体質が備わっているようだ。主人公の遠藤郁子(水谷妃里)と安大豪(淳評)が釜山で開かれた陸上競技会で出会い、1年後の再会を約束する序盤のシーンがやや生彩を欠くのはここが演歌ではないからだ。日本に帰った郁子の家族の描写が丹念に描かれ始めて、佐々部演出は絶好調になる。

 郁子の父親(山本譲二)は流しの歌手。ちょうどカラオケが普及し始めたころで、流しの歌手は相手にされないことも多くなっている。家は貧しく、郁子は新聞配達で家計を助けている。仕事がうまくいかずに苛立つ父親は郁子が韓国の男と文通していることに怒りをぶちまける。「外人でも、なんでもええけどのお、朝鮮人だけは許さんど」。父親はあるスナックでカラオケの機械を壊したために店の男たちから袋だたきにされ、流しには欠かせないギターも壊される。消沈した父親を見た郁子は質流れのギターを買い、プレゼントする。

 こういうエピソード、舞台が70年代だからこそ許せるのだと思う(考えてみれば、「陽はまた昇る」もまた、70年代の話だった)。郁子は安の母親から「息子に手紙を書くのは迷惑だ」との手紙と受け取り、陸上で大学に行くという夢もあきらめて練習に打ち込めなくなるが、そんな郁子に父親はポツリとこう言う。

 「お前、進学するんやろが。陸上の練習、一生懸命頑張らんと…つまらんやないか。うちには金なんか無いんど」。

 ダメな父親なりの励ましの言葉であり、郁子は安に再会するためではなく、自分のために陸上の練習を再開する。監督と同じく下関出身の山本譲二が素晴らしく良い。今年の助演男優賞候補の筆頭、という感じである。

 佐々部清はこういうどこか使い古された感じのあるエピソードを真正面から撮り、逆に情感を高めることに成功している。細部の説得力が映画の支えであり、主演の2人の演技の硬さはマイナスにはならず、2人の純情さを強く印象づける。水谷妃里は陸上の走り高跳びの選手に見えるスマートなスタイルが良く、吹き替えもあるだろうが、メイキング映像を見ると、実際に背面跳びをやっている。他の3人の女生徒(上野樹里、桂亜沙美、三村恭代)も陸上選手としておかしくない。思春期らしい性の息吹も含めて描かれるこの4人の交流は映画の魅力の一つである。

 70年代を彩るさまざまな歌謡曲も効果的に使われている。イルカの「なごり雪」、ピンクレディー「カルメン'77」、山口百恵「横須賀ストーリー」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、世良公則&ツイスト「あんたのバラード」などなど。中でもイルカの「なごり雪」は昨年の大林宣彦「なごり雪」の中で伊勢正三の歌が50男の感傷に満ちた響きを持って歌われたのに対して、少女の思いを伝えるものになっており、ハングルで歌う一番の歌詞は日本と韓国の近くて遠い当時の状況を描いた映画の背景とマッチしている。

 冒頭と最後に描かれる現在のエピソードは、ここだけに限れば、少し幻滅だった「初恋のきた道」のそれよりも良くできている。結末の処理が難しい話だが、ストップモーションで余韻を持って終わらせていることに監督のセンスを感じる。

 佐々部清はデビュー作を無難にこなした後、2作目でも確かな演出力を見せてくれた。こうなると、来年初頭に公開される第3作「半落ち」も楽しみになってくる。どうか、地に足の着いた描写のミステリに仕上げて欲しい。