2003/10/24(金)「エデンより彼方に」
タイトルロゴから50年代の映画風。セットもファッションも当たり前のことだが、50年代を細部まで再現している。しかし、内容的には現在の視点から50年代の保守的な町の様子を鋭く浮き彫りにしていく。異質のもの、ルールを破ったものを排除する町の人々の冷たい視線には息が詰まる。50年代のアメリカの片田舎にはどこにも本当の自由などなかったのだ。いや、これは同性愛や黒人差別を違うものに置き換えれば、今の時代、他のコミュニティにも通用することだ。
トッド・ヘインズ監督の脚本・演出は硬派で的確で、揺るぎがない。ジュリアン・ムーアの正確な演技がそれにこたえている。見知らぬ黒人が庭を通っただけで過敏に反応していた上流家庭の主婦が自我に目覚めるまでの変化を見事に表現している。アカデミー主演女優賞はムーアに贈るのが順当だったのではないか。少なくとも「めぐりあう時間たち」との合わせ技ではニコール・キッドマンを超えている。
1957年のコネチカット州の町ハートフォードが舞台。郊外の家に住むキャシー(ジュリアン・ムーア)は一流企業の重役を務める夫フランク(デニス・クエイド)と2人の子供とともに幸福な家庭を築いている。会社のPRにも登場し、雑誌の取材では理想的な妻として紹介される。人種差別が当然だった時代だが、キャシーは死んだ父親の代わりに庭師としてやってきたレイモンド(デニス・ヘイスバート)とも打ち解ける。しかし、幸福は一瞬にして崩れる。ある夜、帰りの遅いフランクに夕食を届けようと会社に行ったキャシーはフランクの秘密を見てしまうのだ。
これに加えて、レイモンドとの交流も町の人々の口の端に上るようになる。楽園(エデン)と思っていた家庭や町が、キャシーにとっては苦悩に満ちたものに変わる。というより現状は嘘っぱちの楽園だったのだ。一時は修復も図ろうとするキャシーだが、状況は変わらず、自然と考え方に変化が訪れる。映画はキャシーがどうなるのか明確にしないまま終わるけれど、自我に目覚めたキャシーの将来は明るいのだと思う。現在の目から見れば、キャシーだけがまともで、他がおかしいのである。
脚本が優れているのは白人社会だけでなく、黒人社会にも白人と黒人の男女が付き合うことを良くない風潮とする描写があること。といっても映画が目指しているのは人種差別問題だけではなく、息苦しく欺瞞に満ちたコミュニティそのものに対する批判だろう。無駄な描写は一切ない1時間47分。見終わって満足度が高かった。